第19話
「カズヒロさん、お願いがあるんだけど・・・」
僕は『カズヒロさん』と呼ばれたことに少し驚いて訊き返す。
「何だよ、改まって」
「うん、お願いっていうか、うちの希望っていうか・・・、わがままみたいなこと、なんだけど・・・」
今しがたまでの美香とは明らかに様子が違っていて心配になる。
「どうしたの?言ってごらんよ」
「うん、あのね、実は、明日から、ミィネのとこの手伝いに行くんだよ。言ってなかったけど、ミィネのお母さんがスナックやってて、ミィネ、そこで働いてるんだぁ。それで、うちに『暫くやること無いなら、スナック手伝わない?』って、誘われて、OKしたんだけど・・・」
「ん?それは、スナックのホステスをするっていうこと?」
「うん、まぁそういうこと。でも、ホステスってほどのことでもないんだけど・・・」
僕は美香が、僕にホステスの仕事(男性客にお酒を注ぎ、接待をする仕事)をしても良いか、それを訊いているのだと思った。
確かにあまり良い気がするものではない。
しかし、話も聞かずに頭ごなしにダメだとも言えない。
「そうなんだぁ。でも、俺、その峰さんって、名前は知ってるけど、会ったこと無いし、そのお店がどんな感じかも分からないから、何とも言えないけど・・・」
そう答える僕に、美香は首を振る。
「違うの。お店は、何ていうか、普通のお店。スナックっていっても、どちらかっていうと居酒屋さんに近い感じのお店で、お客さんもお店の近所のおじさんとか、おばさん達も来るようなところ」
美香が言いたいこと、僕に訊きたいことというのは、そういうことではないらしい。
峰の母親が経営するスナックで、美香がホステスの手伝いをすることは、僕の意見を聞かずとも、既成の決定事項であって、僕が口を挟むことではないことは理解できたが、一体僕は何をお願いされるのだろう?
そんな不思議な表情の僕に、美香は続ける。
「でね、一応、うちの家には、仕事終わった後の帰りのバスとか無くなっちゃうから、お店の二階のミィネの家の空いた部屋に暫く間借りして、そのスナックの手伝いするって言ってあるんだけど・・・」
「へぇ。美香のご両親とかは、良いって言ってんだ?」
「うん、父さんも母さんも、そのお店のこと、知ってるんだよ。実際にたまに二人で行ってるし。そう、それくらい、スナックっていうか、居酒屋さんみたいなとこなの。安心した?」
安心はした。しかし、美香に僕のちょっとした不安な気持ちを見透かされていたことが、何とも恥ずかしいというか、もどかしいというか・・・。
「うん、そこまでは分かった。けど、さっき言ってた、俺にお願いって?」
美香は「ふぅ」と小さく息を吐くような仕草をして見せる。
その様子からすると、美香自身も言うか言うまいか、それを迷っていると思われるが、僕にとってそれがどれ程の
「変なお願いかも知れないけど・・・、今日から、ミィネのとこに手伝いに行く間、うちをカズくんのとこに泊めて貰えないかな・・・」
はい?
いや、美香が言った言葉の意味は理解出来た。僕の聞き違いでなければ、美香は今日も、そして恐らく明日以降も、暫くの間、僕の部屋で寝泊まりをしたいと言っている、ようだ。
「え?あ、いや、でも・・・ん?」
僕は口籠りながら、正しい『返答』を探そうとするのだが、こんな想定の斜め上を行く展開には、思考が追い付かない。
美香の言うところの『お願い』自体は、僕にとってどうということはない。
決して広くない部屋だが、人ひとり、数日間寝泊まりして貰うくらい、別に何の問題もないし、実際、今迄に僕の地元から遊びに来た高校時代の友人や、家賃滞納で部屋を追い出された大学時代の同級生を、数日間、僕の部屋に泊めてやったこともある。
別に数カ月とか、これからずっとという訳ではないのだ、言葉の意味としては。
ということは、やはり何も問題はない。
というより寧ろ・・・。
もしこの先ずっと、美香と一緒に居られるなら、それはそれで部屋を引っ越せば・・・。
ん?今はそんな妄想をしている場合ではない。
ここ二日の流れだと、僕は「勿論、良いに決まってる。それは僕にとっては嬉しいことさ」と、本音を言ってしまうパターンなのだけれど・・・。
僕は何と答えて良いのか分からない。
今は『本当のこと』を言ってはいけない気がするのだ。
恐らく僕は、美香の両親、家族、それに峰からは嫌われている、間違いなく。
彼らが何処までのことを知っているかは分からないが、少なくとも峰に関しては、僕のことを碌でもない人間だと思っているに違いないし、そう思われても仕方がない。
そんな彼らの美香のことを心配しているであろう気持ちを裏切るように、この数日間、美香と僕はこっそりと連絡を取り合い、逢瀬を繰り返していたのだ。
然も、彼女の両親には峰と一緒だった、峰のところに泊まると嘘までついて・・・。
正直僕は、美香と一緒に居られることを望んでいる。
しかし、良いのだろうか?
いや、僕のことはどうでも良いのだ。
美香が、彼女にとって大事であろう人達を裏切っている、そういうことになるんではないか?
僕の戸惑う様子を目にして美香は、そして、僕の心を読み違える。
「ごめんなさいっ。迷惑だよね。ほんと、うち、何言ってんだろぅ。忘れて」
いや、違う。違うんだよ、迷惑とかではなく・・・。
しかし、言葉は出てこない。
「ごめんね。変なこと言っちゃって・・・。じゃ、お会計、行ってくるね」
美香は少しきまり悪そうに、それでも僕が作ってしまった気まずい雰囲気を取り繕うかのように、少し大袈裟すぎるくらいの笑顔でそう言うのだった。
「あ、いや、俺が払うよ」
僕も漸く声を発することが出来たが、全くどうでも良い言葉だ。
「ううん。昨日、水族館とか、全部払って貰ったから、今日はうちが払うよ」
席を立ち会計に向かおうとする美香に、僕も慌てて立ち上がって追い縋るように、僕は彼女の左腕を掴んだ。
やっぱり僕はバカで間抜けで、どうしようもない阿呆だった・・・。
いつからだ?
昨夜は無かった・・・。
今朝?
シャワーの後?
それとも部屋を出る時?
そういえば、美香はここに来て直ぐに、一度化粧室に立った・・・。
そんなことはどうだって良い。
確かに美香は、僕が貸したYシャツをジャケット替りに羽織っていて、その大きすぎるサイズのせいで、指の付け根からその半分ほどは袖に隠れて、今迄ずっと見えていなかった。
食事中もYシャツを脱いだり、袖を捲ったりもせずそのままの格好の美香だったが、僕はそんな彼女の様子に、食べ難そうだなと思いつつも、そのダブダブ感が何とも可愛らしく見えてしまい、敢て何も言わなかったのだ。しかし、そのせいで、完全に見落としていた。
美香の左薬指に、昨日僕が渡したシルバーリングが嵌められていることを・・・。
僕は迷っている。
でも、それを振り払うように、今迄、あんなに口籠ってしまっていたのに、勝手に言葉が口を突く。
「ここは、俺が払うよ。でも、今日の夕飯、スーパーに買い物に行って、その時は、美香が支払ってくれないか?」
美香が目を見開く。
「うん」
「その時、ビールも買うから、それと、ワインも買うかもしれないから、高く付くかもよ?それでも良い?」
「うん、いいよ、分かった・・・」
そして、美香は笑顔で、その瞳を、涙で一杯にした。
僕が微笑むと、美香がしゃくりあげながら
「ミィカが泣き虫だって、知ってるっしょ。もう、やだぁ」
そう言って美香は、指輪の嵌ったその指で、頬の涙を拭うのだった・・・。
僕らは一旦部屋に戻り、僕の車で美香を彼女の実家近くまで送る。
美香は「もう着替えとか、身の周りの物、キャリーバッグに用意してるから、一時間くらいで戻るよ。あそこのコンビニで待ってて」、そう言って助手席を降り、歩いて実家に向かった。
コンビニエンスストアの駐車場に車を停めて、美香の戻りを待つ長く、永い約一時間、僕は気が気ではない。
果たして、本当に美香はこの場所に戻って来るのだろうか。
家の者にバレて、止められてしまうんじゃないだろうか。
もしそうであったとしても、僕にはどうすることも出来ないだろう。
まるで何一つ前向きでも意欲的でもない、不安を煽る後ろ向きな思考ばかりが頭の中を行き来するだけで、車内の空気は最悪に息が詰まりそうだ。
美香と別れて五十分が過ぎた頃、このまま一時間を越えてしまったら、僕は気が変になってしまうのだろうか、そんなことを思い始めたその時、駐車場入り口からキャリーバッグを引きずった美香が現れた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いや、大丈夫だよ。まだ一時間経ってないし」
「そお?うち、時計見てなかったから、ずいぶん時間掛かってる気がして慌てちゃった」
「大丈夫。思っていたより早かったよ」
僕は久しぶりに嘘を吐いた。
本当は、一時間を越えたら、胸が潰れると思っていた。
それでもこうやって、美香がちゃんと戻って来てくれたことにホッとすると同時に、美香の家の者に対しての言い様の無い不安と心配も湧き上がってくる。
「どうかした?」
「いや、どうもしないよ。それじゃ、スーパーに夕飯の買い出しに行こうか」
「うん。今度は、ちゃんとミィカが払うからねっ」
美香のキャリーバッグを後部座席に積み込むと、運転席に戻った僕は、車をスタートさせて、駐車場を後にする。
車を車道に出すために、ゆっくりとハンドルを切る僕の左薬指にも、美香を待つ間に着けたシルバーリングが光っていた。
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