第17話
月曜日の朝、目が覚めると、狭いシングルベッドの上、傍らに小さく寝息を立てる女がいる。
彼女が美香(という女の子)だと理解するのに、当たり前だが、時間は懸からない。
しかし、それが、今隣で寝息を立てているのが、美香だとは分かっていても、この状況が今更ながら信じられない。
僕は思わず漫画みたいに、自分の頬を抓ってみようかと思ったけれど、あまりにもバカバカしい考えのような気がして、それは止めにした。
その代わり、恐る恐る、震える右の人差し指で、美香の小さな鼻先を、ちょんっと突ついてみる。
「ん?・・・、おはよう・・・」
薄ぼんやりと瞳を開けて、口元に柔らかい笑みを湛える美香を見詰めながら僕は、この状況が現実なのだと理解するのに、恐らく数秒を要したと思う。
固まったPCみたいに、黙りこくったまま、『おはよう』の返答も出来ずにいる僕に、美香は「ふふん」と鼻を鳴らすようにして、「どうしたの?」と微笑む。
「いや、何となく・・・、良いなぁ・・・って・・・、そう思って・・・」
「なぁに、それ?変なの」
そう言って美香が笑うので、僕も笑うしかない。
美香が言う通り、『変』なのかも知れない。でも、『変』で良いとも思った。
何と言って良いか分からない、上手な言葉が見つからない、言葉を選んで何かを伝えようとしても、恐らく言い足りない言葉が見つからなくて、結局何も伝わらない・・・。
何となくそんな気がして、変だろうが何だろうが、正直な気持ちの儘の僕が、寝起きの美香を「良いなぁ」と思ったのだから、それで良いのだ、と・・・。
「ねぇカズくん、カズくんはもうシャワー浴びた?まだ?」
「ん?まだ、だけど」
「どうする?先、浴びる?ミィカも浴びたいんだけど、どうする?」
「どっちでも良いよ」
「じゃ、先に行って」
「ああ、分かった」
僕がそう答えてベッドから抜け出すと、瞬間、美香が「きゃっ」と可笑しな声を上げ、それから身体を反転させて壁側を向いてしまった。
僕は葉っぱ一枚も付けていない全裸状態だった。
今度は僕が「ふふん」と鼻を鳴らし、シャワー室へ向かう・・・。
僕がシャワーから上がって、その後直ぐに入れ替わりに美香が僕の一番小さなTシャツと白いYシャツ、それにバスタオルを抱えて、バスルームに向かった。
寝室の引き戸を確り閉めて、キッチンから「覗いちゃダメよ」と美香が言う。
何を今更、そう思いはしたけれど、勿論口には出さないし、そんなつもりも更々ない。
程なくして、美香が浴びるシャワーの流れる音が聴こえてきて、僕は身の置き場に困るというか、落ち着かないというか、兎に角ソワソワし始めてしまった。
いや、覗こうとかそういうことではない、断じて。
それよりも、美香がシャワーから出て、この部屋に戻って来た時、僕はどの方向を向いて、どのように対応したら良いのか、そのことに困ってしまっている。
バカだ・・・。バカ過ぎる・・・。
僕は何を思ったか(実際は何も思い付かず、ただ何となく)、ベッドのシーツを直し、タオルケットと毛布を丁寧に畳み始めたし、何なら、畳んだのに、もう一度広げて、毛布の耳をきちんと揃えて再度畳み直す。
それでも三回が限界だ。直ぐにやることが無くなった。
煙草を吸おうか・・・。
ん?そんな気分でもない。
コーヒーでも入れようか・・・。
ダメだ、キッチンの方へ行っちゃいけないんだった。
そうだ、ベランダに出て洗濯をするのはどうだろう・・・。
いや、美香がどんな格好で戻って来るか分からないのに、窓を開けっ放しっていうのもどうかと思うぞ。
何考えてんだ?俺・・・。
バカが過ぎるのは分かっている・・・けど、
何か、こう、・・・片意地を張らずに、間の抜けた自分を許容し、そんな自分を心地好くさえ思っている。
俺はこんな人間だったか?
いつからだ?
ずっと?いや、そんな筈はない・・・。
随分昔に・・・そんなこともあった、ような、気がしないでもない・・・。
ここ数日、同じことばかり考えている気がする。
堂々巡りだ。
結局はこれといったことを決められずに、立ったり座ったり、畳んだり広げたり、気も
そうこうしていると、隣のキッチンの方からドライヤーの音がしてきた。
僕がホッとしたのも束の間、ドライヤーの音が鳴り止み、引き戸を開けて部屋に戻って来た美香の姿に、思わず目を逸らす。
まだ完全に乾ききっていない濡れ髪に、僕が貸したYシャツを羽織り、下半身は下着だけの美香に、僕は改めて目のやり場に困る。
今度は再び美香が「ふふん」と鼻を鳴らし、揶揄い気味に言うのだった。
「カズくん、かわいい」
思い出した。
昔ならきっと、僕はそんなことにも腹を立てていた。意味も無く。
今は・・・。
どうしてなのか、いつからなのか、そんなことは分からない。
でも・・・。
少しだけ、岸本さんが言っていた『人は変わる』という言葉の意味が分かった気がしたが、ほんの少しだけだ。
理解したくなかったのだ。
僕のことではない。
美香が、大人に・・・、女性に・・・なってしまったことを・・・。
僕の我儘なのだろう・・・けど。
今は、考えるのは止そう。
美香がシャワーから戻り、「取り敢えず、先ず、ジーンズを履けよ」、僕がそう言うと、彼女は上目遣いに、更に挑発的に悪戯っぽい瞳で「はーい」と返事をする。
僕は全く落ち着きがない心持なのにも拘らず、それを悟られまいと、如何にも素っ気ない感じを装って告げる。
「俺、これから部屋の掃除と、洗濯しなくちゃならないんだけど、美香、どうする?」
ハッキリ理解した。
この、敢て素っ気ない物言いが、僕が自分に、そして他人に苛立ちを覚える原因なんだってことを。
そして、当時僕はそれに気付かなかったし、考えようともしなかった。
美香が少し考える仕草をしてから、「そうねぇ」と言って、くるっと部屋を見渡した。
「うん、うちもお掃除とお洗濯、手伝うよ。それで、終わったら、お散歩か、またバイクでどっか行こうよ」
それに対して僕が最初に言い掛けた返事は、
『いいよ、別に手伝ってくれなくても。こんな狭い部屋だし、洗濯物だって大したこと無いし、手伝うことなんて、特に無いぜ』
勿論、その言葉は飲み込んだ。
そして、
「ホントに?それは嬉しい」
また本当のことを、言ってしまった。
「じゃあ、チャッチャと掃除、洗濯済ませて、出掛けようっ。その前に、アイスコーヒー入れるから、ちょっと待ってな」
僕は浮かれ調子でキッチンの冷蔵庫を開ける。
午前十一時前に部屋を出て、僕らが散歩がてらに向かった先は喫茶『ルビー』だった。
「『ルビー』に行ってみようよ。うちも全然行ってないんだよ。まだちゃんと在るのかな?」
僕は『ルビー』がまだちゃんと営業していることは知っていた。たまに車でその前を通ることがあって、「営業中」の看板が掲げられ、大学生が出入りする様子も目にしていたからだ。
「え、でも・・・」
僕は言葉を濁す。
あの夏以来、僕は『ルビー』に行っていない。
然も、あのクリスマス以来、行ける筈もない。
美香が地元を離れて居なくなっても、あの店のマスターは僕のことを覚えているだろうし、少なからず美香と僕との関係も知っているだろう。どうなったかも含めて。
そんなマスターの居る店に顔を出すのは、流石にちょっと気が退ける。
「大丈夫だよ。昼間、マスター居ない筈だし、それに、昔のことだよ」
そう言って笑う美香なのだけれど、僕には『昔のこと』と言うには、余りにもリアルな、そして恥ずべき過去、そして自分のことが嫌になる思い出なのだ。
本当に美香は、『昔のこと』として笑っていられるのだろうか?
胸が痛くなる。
やはり、僕が、悪い・・・。
今、昔、現在、過去・・・そしてその先、時間は繋がっている・・・、だがしかし、繋がっているというだけで、それは一方方向にしか進まない。前にしか進めないのだ。
決して戻ることは出来ないし、過去に起こった事実を、消すことも出来ない。
前にしか進めない・・・か。
「・・・そっか。ちょっと気が退けるけど、行ってみよっか。でも、ごめんな。・・・色々、ごめん・・・」
「うん・・・」
小さく頷いた美香が視線を落とすのを目にして、僕は『やはり美香だって、そんな風に割り切れてる訳がない』、そう思った。
当たり前だ。
昨日の海沿いの公園でもそうだったじゃないか。
小さな手を握り締め、肩を震わせていた彼女・・・。
彼女の中に何があるのだろう・・・。
何が・・・。
僕がそれ以上考える間もなく、美香は直ぐに視線を元に戻し、ニコリと微笑む。
「じゃ、決定。『ルビー』でランチにしよっ」
「ああ、そうだね」
前に進むしかないのだ。
例えそこに、何があろうと・・・
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