28日目 隙間

 長きにわたった緊急事態が終了を告げてから二ヶ月近く経ち、どうやら町も人も少しずつ以前の姿に戻りつつある。通勤電車の混み具合でそれを悟り、私は今日も身体を人と人との間に滑り込ませる。

 人々がオフィスに出勤するようになり、お店の営業時間が元に戻っても、本当の意味で前と同じにはならないことは誰しも分かっているだろう。私たち日本人は毎日マスクを付けて、アクリル板の向こうの店員と会話する日々を送り続ける。

 一度負った傷はどうしたら元通りになるのかな。

 おいしいものを食べて、お風呂に入って、ゆっくり眠って、季節のものを楽しんで、時には身体も動かして。そういったことを続けていたら傷がなくなるのかと思っていたけど、どうやら違う。私はこの先、両親が死ぬ前の私にはもう二度と戻れない。

 一度起こったことはなかったことには決してならない。一瞬一秒が取り返しのつかないことの繰り返し。だから負った傷も、ボロボロの心と体の私も全部抱えて、どうにかこうにか歩いて行くしかない。

 かつての持ち主や作り手を失って、本来の役目も失ってただ存在する付喪神ももしかしたら同じだろうか。誰かに思われていたことを大事に大事に抱えて過ごしているのだろうか。

 今日帰ったら、おじいちゃんにこの話をしてみようかな、と思う。同時に電車が駅に着く。たくさんの人が我先に出ようとぐいぐい体を押しつけてくる。

 私は鞄を体の前にしっかり持ち直し、おじいちゃんを見た。おじいちゃんはアンティークアイテムらしく鍵の姿でストラップよろしく持ち手からぶら下がって揺れている。

 鞄の中に入ってもらおうかな、と考えたときおじいちゃんを結わえていたリボンがするりと解けた。あっ、と思う間もなく斜め前の人の鞄の隙間にすとんと落ちた。おじいちゃん、と声も出せず夢中で手を伸ばそうとしたけれど、人に押され離れてしまう。私が白杖の音を聞き立ち止まったようには、誰も止まってくれない。

「待って――あっ、すみません――」

 言葉がうまく出てこない。どうしようどうしよう。その人は電車から降りようとしてあっという間に離れていく。涙目になったとき、鞄のふちからちょこんと顔をだしたおじいちゃんと目が合った。

 おじいちゃんはにっこり笑っていた。

 その人が電車から降りた瞬間、ドアが閉まる。私は人の波に揉まれ、もう二度と手の届かないところへ行ってしまった。

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