十一 「長たる所以」


 マグナスが、跳んだ。

 

 ドミナの側近達に、視認出来たのはそこまでだった。軽く膝を曲げ前傾姿勢をとった男が、放たれた矢のように跳んだ。放り出された鎖と分銅が地に落ちるより速く、長躯がロイドとサフィラの間に滑り込む。

 次に見えたのは、足を払い片手でサフィラを投げ飛ばし、もう片方の腕でロイドと組み合うマグナスの姿だった。いつの間に抜いたのか、マグナスは腰に帯びていた長剣を、ロイドは逆手に短剣を握っている。短剣の刃を滑らせ、マグナスが振り抜いた剣の一撃をいなしながら、ロイドが後方へ跳ぶ。すかさず、マグナスが追撃をかける。宙で返る姿勢になりフードの外れた銀色の頭目掛けて、一文字に剣を薙いだ。

 殺すつもりはない。ただ、頭髪の数本でも攫ってやろうと思った。空中で、尚且つこの体勢からでは避けられないだろう、と。

 

 腕に、期待した手応えはなかった。

 

「——へえ」

 

 ストン、と猫のように身体を折り着地したロイドは、ハッと短く息を吐いた。大きく呼吸を乱した様子もない。実戦から遠退いて久しいはずだが、と、マグナスが舌を巻く。俯いていた旧友が顔を上げた瞬間、感心していたマグナスの口から思わず笑い声が漏れた。

 

「お前、それは反則だろ」

 

 薄闇の中、マグナスを見据えるロイドの瞳が碧色に輝く。はらはらと舞う雪が銀色の睫毛の上に落ち、持ち主が数度瞬きをした後、その光輪は瞳に吸い込まれるように消えた。

 

 時間にすれば、ほんの数秒。繰り広げられた攻防を目の当たりにしたルプスは、からからに乾いた喉で唾を飲んだ。隣に並んだノクスが、動揺の滲む声で問う。

 

「兄貴、今の——」

「ああ。聞いたことがある。『天眼』の優れた使い手は、アニマの動きで敵の次の挙動まで見切ると。俺達に理解できる範疇じゃあねえが、『視た』んだ。そういうことだろう。だが仮に視えてたとして、あの一撃をかわすんだ。あの兄さん、ドミナが言う通り相当の手練れだ」

「魔術士の連中なんざ、みんな頭でっかちで後方支援しかできねえと思ってたが。例外もいるってことか」

 

 二人の会話を横耳で聞いていたマグナスが、長剣の切先をゆっくりとロイドへ向ける。心底楽しくて堪らないと言うような、不適な笑みとともに。

 

「お前とは、一度本気でやり合ってみたかった。大人しく引き渡すつもりも無いだろうし、いい機会だと思わないか?」


 刃の背に乗った雪が、じわりと溶けて滴になり、落ちる。立ち上がり旧友に正対したロイドは、深く息を吸い重々しく口を開いた。

 

「マグナス。一度、話を聞いて欲しい。二人とも、何も罪を犯してはいない。訳あっての行動だ」

「そんなことは俺だってわかってる。だがな、罪人かどうかを決めるのは、お前達じゃない。事実、お前の弟は法を犯して魔術を行使し、城と近衛に甚大な被害を出した。話なら、連行中にいくらでも聞いてやるよ」

 

 再び武器を構えたマグナスの放つ気迫に、ロイドは奥歯を噛んだ。恐らく、もうこの男に小細工は通用しない。さっき投げ飛ばされ、階段の側壁に背を打ったらしいサフィラは、石畳の上に転がったままぴくりとも動かない。痩身とは言え成人男性一人、片手で放り投げたのだからその力は途方もない。地下では名の知れた強者であるはずのルプス達も、相手が相手、静観するより他ないのだろう。

 状況は、芳しくない。次に、どう動くべきか。

 ロイドに思案する間を与えず、再びマグナスが地を蹴った。

 

「!」

「来ないならこっちから行くぞ」

 

 驚くほどの速さで一気に距離を詰めたマグナスの、鋭い斬撃を短剣で受け止める。その瞬間、指から肩まで強烈な衝撃が走った。腕がビリビリと痺れる。小さく漏れた苦悶の声に、マグナスの口角が上がる。順手で構えていたら、剣ごと弾かれていただろう重さの一撃だった。

 攻勢をとったマグナスは、そのままギリギリと刃に体重を乗せてくる。このまま、耐えらえる圧ではない。呼吸を整え、ロイドは膝を折った。身体が沈むのと同時に短剣の腹を滑らせ、刃をかわしながらマグナスの足下に飛び込んだ。雨衣の中、左足の脹脛に鞘で忍ばせていた、二本目の短剣を引き抜く。同時に、地についた右手を軸に、マグナスの足を払うよう脚を滑らせた。

 

 だが、渾身の回し蹴りは空を切った。

 刃をいなされたマグナスは体勢を崩すこともなく、ロイドの蹴りを跳躍でかわした。そのまま前方へ転じながら、驚愕するロイドへ二撃目を見舞う。王宮近衛の証、黒薔薇紋の煌めく雨衣が翻った。

 

 刃先に獲物の感触を認め、振り抜きながらマグナスは地に足をついた。かわしきれなかったのだろう、後転するも体勢を大きく崩したロイドは、倒れたサフィラの手前まで転がって、がくりと膝をついた。顔を上げると、ざっくりと切り裂かれた左頬から、血が滴る感触がある。一度傷に触れ、程度を確かめた。

 生命術は、アニマを視ながらでなければ行使する事ができない。視界に入らない自らの頭部や背中の傷は、何かに映した状態でしか治癒ができないのだ。

 どくどくと脈打つ頬に手の甲を押し当て、流れる鮮血を乱雑に拭った。冷たい空気の匂いに、鼻を突く鉄の匂いが混じる。


 その様子を興味深げに眺めていたマグナスから、揶揄うような声が上がる。刃に僅かに付いた血を、刀身を振り、剣先から弾き飛ばした。

 

「おいおい!反則だとは言ったが、『眼』を使うなとは一言も言ってないぞ。その程度のハンデも無しに、俺と渡り合おうなんざ百年早い。図に乗るなよ、『アルビス』?」

 

 悪意を持って呼ばれた本来の名に、ロイドが柳眉を寄せる。口を開きかけたその時、背後から呻き声が聞こえた。衣擦れの音に振り返ると、気を失っていたはずのサフィラが、頭を振りながら起き上がっている。意識を取り戻したようだ。ロイドの怪我は、今は治せない。ならば先にこちらを癒すべきかと思ったが、マグナスがその時間を与えてくれるとは考えにくい。

 もう一度、挑むしかない。本人の許可は得た、今度は、天眼を用いて。

 グリモアに手を伸ばしたサフィラを片手で制し、参戦を止めた。

 

「お前は、戦うな」

「何を言っている?一人で勝てる相手ではない」

 

 訝しがる弟と、「早くしろ」とでも言いたげに二人を見ている友とを、交互に見つめた。次にロイドが発した言葉に、寒空の中、空気が凍った。

 

「他に友達、いないだろ。無駄な喧嘩はするな」

 

 一瞬、目を見開いたサフィラの額に、次の瞬間青筋が浮く。三度大きく瞬きをしたマグナスは、その後盛大に吹き出した。

 

「お前、ほんと……そういうとこだぞ!ハハ!」

「?」

 

 二人の反応が理解できないロイドは、一人首を傾げる。事の成り行きを見守っていたドミナの側近兄弟も、驚き呆れたように顔を見合わせていた。

 足音荒く、サフィラがロイドの後ろを離れ壁に背を預ける。そのまま腕を組み、鋭い一瞥をよこす。

 

「ではお望み通り、あなた一人で、思う存分、戦うといい。私は、一切、手出ししない。あなたがどうなろうと、ここでこうして、ただ眺めていればいい、そう言う事だろう」

「……何を怒ってる?」

「別に?ほら、どうした?喧嘩、しないのか?」

 

 ついさっきまで命のやり取りをしていたとは思えない空気が広がり、マグナスは笑いが収まらなかった。そう言えば、アルビスが城にいた頃、これが日常茶飯事だった。兄弟喧嘩が勃発しそうなこの雰囲気が、酷く懐かしい。

 

 どうにも、決闘の気分ではなくなってしまった。

 

 これが意図したものだとしたら、とんでもない策士だ。恐らく、違うだろうが。一つ咳払いをし、兄弟に呼びかける。

 

「聞け、ロイド。ひとまず、サフィラは俺が連れて行く。言い分は道中本人に直接聞く。大丈夫、悪いようにはしない。俺だって、事の真相が知りたいからな。だから、お前は一刻も早く家に帰ってやれ」

 

 突然のマグナスの提案に、ロイドとサフィラが顔を見合わせる。真剣な面持ちと、最後の言葉に不穏な響きを感じた。続きを促すように無言で見つめると、マグナスの瞳が暗い光を帯びた。

 

「ドゥークの野郎が、雨具屋に向かった。部下を数人連れて。恐らく、お前の不在を知ってる」

 

 魔術士兄弟の顔から、血の気が引くのが分かった。

 

「殿下は、無傷で保護するよう言われてる。だがお前んとこの従業員達は——」

 

 ロイドが小さく悪態をつく。駆け出してすぐに、脚を止めた。振り返った青灰色の瞳が、マグナスを射抜く。

 

「信じて、いいんだな」

「ああ。任せろ」

 

 そのやり取りを最後に、今度は振り返らず、ロイドは走り出した。上水路街へと続く階段を駆け上がっていく足音は、あっという間に遠ざかっていった。その音が聞こえなくなると、サフィラの口から深い溜息が漏れた。不機嫌な表情で、マグナスの隣に並ぶ。

 

「なぜ、先に言わなかった。剣を抜かずに済んだろう」

「んー?剣を抜きたかったからだな」

「ふざけるな」

「いや、八割方事実だぞ。あいつの本気なんて滅多に見れないだろ?」

「……怪我人の、容態は?」

 

 急に変わった話題に、マグナスは微かに笑んだ。やはり、気にかけていた。サフィラが、同士達を傷付ける目的で属性術を行使したのではないのだと、確信を得たことに安堵した。

 

「一時重体が二人、重症者数名、軽傷者多数。全員、治療済み。ピンピンしてるよ」

「……そうか」

 

 ほっとしたような表情を見せた友人の横顔を、複雑な思いで眺める。

 命さえあれば、魔術士隊が癒し、繋ぎ止めることが出来る。だがその技術が、時に別の目的に用いられることを、マグナスは熟知していた。どんなに強固な肉体を持つものでも、拷問を続ければいずれは力尽きてしまう。それをさせないため、重罪人の蘇生役として術士が駆り出される。雨の国が出来る以前からの、生命術の一つの側面だった。それを、このどこまでも強情で真っ直ぐな友人に、施されたくはない。まずは昨日何があったかを聞かなければと、軽く首の骨を鳴らした時、地下街の通用口の方から声がかかった。

 

「待てよ」

 

 腕を組み二人の方を睨んでいるのは、たしか東地下街の女主人の部下の一人だ。もう一人、奥にいる男も知っている。ドミナの経営する店にはマグナスの馴染みも多く、この顔にも見覚えがあった。なぜロイド達とともにいたのかは分からない。何を言われるのかと待ったが、続いたのは意外な言葉だった。

 

「うちのボスがそいつを気にかけてる。殺させんなよ、絶対に」

「……約束しよう。事情はわからんが、あんたらのボスにもよろしく伝えといてくれ」


 真摯に応じると、そのままマグナスとサフィラは無言で歩み出した。ロイドが駆け上がって行った石の階段を、今度は二人が登っていくのを、ルプスとノクスは見えなくなるまで見送った。

 

「ドミナへの報告、どうする?『無事に送り届けること』、は失敗だよな、これって」

 

 不安そうな弟の声に、ルプスは苦笑いで答えた。

 

「『出口まで』は問題なかったんだ、許してくれるだろ。それに、あいつの言った事に嘘はねえだろう。信じて、起きたことをありのまま伝えるしかねえさ」

 

 アストルムの名を持つ者と、一度でいいから手合わせしてみたい。腕に覚えのある者なら、誰だって思ったことがあるはずだ。魔物相手なら最強かもしれないが、対人戦では自分達ゴロツキの方が上かもしれないと、調子に乗って発言した記憶もある。だが、実際に目の当たりにして、肌で感じたあの男の強さは、まさに別格だった。

 

 歴代最長期間アストルムの座に就いていた男を、歴代最年少の若さでその座から引きずり降ろした男。よく、店に顔を出しているのは知っていた。人当たりの良い普段の様子を思い出し、ふと違和感を覚えた。

 

(そういえば、あいつの愛刀ってたしか……)

 

 マグナスの最も得意とする武器、愛用の斧のような形の大剣。ロイドとの戦闘に、用いられてはいなかった。

 

 背中を、冷や汗が伝う。


 ロイドの本気が見たいと言いながら、彼自身は最初から手加減するつもりで来ていたのだ。愛用の剣を置き、慣れない武器をわざわざ引っ張り出して。ロイドも相当な手練れではあるが、やはりこの国最強というのは所以があるのだ。

 絶大な力を持ち、かといって短絡的ではない思慮深さも感じる。近衛総長としての権威がどこまで役に立つのかは分からないが、なんとなく、あの男に任せれば安心だとさえ思えてしまう。

 この後、前アストルムと対峙するであろうロイドと、形式的ではあるが身柄を拘束されたサフィラ。あの兄弟を取り巻く事態が好転するよう、見上げた空から降る雪を睨みながら神に祈った。








 

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