八 「あの子との約束」


 窓の無い、暗澹あんたんとした室内。空気の循環のみを目的とした通気孔から、微かに風と水の匂いが入り込んでくる。家主の背後、等間隔に並ぶその穴を、ぼんやりと見つめた。小さな子供ならば中に入れそうな大きさの穴を、取り外し可能な格子状の蓋が覆っている。彼女と、その古い友人が出会ったという地下牢の扉も、こんな鉄の格子で出来ていたのだろうかと、ロイドは思った。


「もうとっくに察しはついてるだろうけど、それがアンタの母親よ。現魔術士長、サフィラ・メンシズ。ああ、今は指名手配犯って呼んだ方がいいかしら?」

「……私の母はクラヴィア・メンシズだ。産んだ人間が誰であれ、顔も知らない、子を捨てた者の事など、母と呼ぶつもりは無い」

「顔?ハッ、顔が見たいならすぐに用意できるわよ?ルプス、化粧台から手鏡持ってきな」

「やめろサフィラ。ドミナすまない、続きを」

 

 沈思も束の間、すぐに火花を散らし始めた二人に制止をかける。ドミナから返って来たのは、剥き出しの不快感を乗せた険しい上目遣いだった。

 

「……それ以来、クレイスとは何度か手紙のやり取りをしたの。アタシがどこで誰と居ようと、手紙は必ず届いた。持って来るのは毎回近衛。ご丁寧に封蝋まで押されてね。おまけに、アタシが封を開けて内容に目を通して、返事を書き終えるまで配達人がずっと待ってるのよ?読み終えた手紙は目の前で燃やされるわ、書き終えた返信を受け取るまで無言で立ってるわ、堅物カタブツしか寄越さないのはオルニトの差金だったんだろうけど。自分がこの国の人間じゃないこと、滅亡の危機にある自分の国を救うため、ここまで助けを求めに来たこと、そしてそれが、現状全て拒まれていること——よくもまあ、一度会っただけの、それもただの娼婦に、これだけの内容を喋ったもんだと思ったけどね」

「…………」

「——彼女は使者だったんだな。重大な使命を負って、雨の国を訪れた」

「そうね。ただ、アタシもその辺の事情は突っ込んで聞いてないわよ。最初こそ金になりそうだなんて思ったけど、物騒過ぎて手に負えないことはすぐに分かった。だからどっちかって言うと、あの子の話し相手に徹してたって方が近いわね」

「手紙では、他に何を?」

「アタシが深入りしてこないのを察したんでしょ。二通目以降は、あまり大胆な告白はしてこなかった。この国について色々聞かれたり、後は——やたらアタシのこと知りたがってたわね、そう言えば」

 

 口許を袖で隠し、どこか哀しみを含んだ笑顔で、ドミナは中空を見つめる。その視線の先にあるのは、彼女の友が血を分けた実の息子の姿なのか。それとも、遠い過去への懐旧の情なのか、ロイドには判別がつかなかった。

 

「…………ふーっ」


 語り終え、一つ大きく息を吐いたドミナが、身を乗り出して美しく微笑んだ。不自然なほど綺麗に弧を描いたまなじりに、ロイドが訝しむような表情を浮かべると、ドミナの手の中でゴブレットが軋んだ音をたてる。それが示す彼女の心情が「笑み」では無いことに、気付いたルプスとノクスが顔を見合わせて唾を飲んだ。

 

「……よくも」

「?」

 

 花のような笑顔とは裏腹に、低く地を這う声色は凍てつくように冷たい。ロイドが異変に気付き身構えた、次の瞬間。

 ロイドとサフィラの間を黄金色の塊が飛んで行き、背後の壁にぶつかって床に転がった。二人が振り返って見ると、金属製の杯は割れることなく、静かにその身を横たえている。飲み干した後だったのか、中身がぶち撒けられることはなく着地したようだ。

 さっきの側近兄弟同様、思わず顔を見合わせた魔術士兄弟は、そのまま恐る恐るドミナへと視線を戻した。哀れな杯を放った張本人は、腫らした瞳に涙を溜めて、ロイドを睨んでいた。

 

「……よくも、今まで騙してくれたわね。ハッ、まあアンタからすれば、騙されたアタシが悪いんだろうけど?その顔で『息子じゃない』って言われて、信じたアタシが馬鹿だったってわけね。本当、笑えるわ。ねえ、『アルビス』?」

「ドミナ……それに関しては謝罪する。自分がオルニトの血縁者だと——メンシズの者だと、名乗るわけにはいかなかった」

「ふん、何が謝罪?んなことアタシだって分かってるわよ。わかってるから——ああ、そのスカしたつら見てると本気でムカつく。アンタだけじゃない、アンタの父親……あの男……『死人じゃなかったら』、死んでも許さなかったのに」

 

 まずい、そう思った。吐き捨てられたドミナのその言葉に、サフィラが拳を握り席を立った。放たれる怒気は鋭い。

 

「貴様——もう一度言ってみろ」

 

 二人の父、先代の魔術士長オルニト・メンシズは、既にこの世に居ない。宮内の獄中にて非業の死を遂げた。そう、ロイドは聞いている。

 一報を携えたマグナスが雷雨の中雨具屋を訪れたのは、およそ六年前、ロイドがジェンとミーニアと出会う、少し前の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 座れよ、と、低く尖った声が響く。ドミナを睨め付けていたサフィラが、牽制するようにノクスを見た後、音を立ててソファに腰を下ろした。ロイドにとってもあまり思い出したくはない話題だったが、サフィラの琴線に触れたのは間違いなかった。はっきりと憎悪を向けるかつての友の実子の姿に、ドミナは挑発するように目を細めるだけだった。

 

「暫くはそうしてやり取りしてたのよ?大体月に一度か二度は来てた手紙が、急に途切れるまではね」

「何度も言っているが、私達は思い出話を聞きにこんな所まで来たわけじゃない。興味もない」

「まあ黙って聞きなよクソガキ。一年、一年よ?何の音沙汰も無くなって、いよいよこっっちから連絡つけてやろうかと思い始めた頃、まさかって事が起きた。変装したクレイスが、当時アタシが借りてた店まで訪ねて来たのよ……たった一人で。さっきのアンタみたいに、髪と目の色変えてね」


 事態が動き出す音が、ロイドの頭の中で響いた。時期から考察して何が起きたのかおおよその予想はつくが、それでも彼女の口から直接聞きたいと思った。そしてそれが、サフィラの言うようなただの「思い出話」などではない、核心に迫る内容であるのは間違いない。心が急いた。

 

 ドミナの方も、心痛の滲む顔で一度呼吸を整えると、再び口を開いた。

 

「第一声が『子供を産んだ』よ?夜中に押しかけてごめんなさいとか、久しぶりに会えて嬉しいとか、そんなの全部すっ飛ばしてさ。まあ、何かあったから連絡寄越さなかったんだろうとは思ってたけど、それを泣きそうな顔で言われて、アタシに一体どうしろって言うのよ。とりあえず部屋に入れて話聞いたけど、父親が誰なのかは何度聞いても口を割らないし。最も、今の今まで、もしかしたらって気持ちはあったけど……ロイド、いや、アルビス・メンシズ?アンタの弟だって言うのが嘘じゃないなら、やっぱりアイツなのね。あの優男——虫も殺せないみたいなツラして、よくもまあ」 

「ドミナ、オルニトに関しては思う所もあるだろうが、その夜のことを詳しく聞きたい。彼女が危険を冒してまで直接出向いたのは、他にも話したいことがあったからじゃないのか」

 

 ロイドの問いに、ドミナの表情が沈む。サフィラも噛み付くことはせず、静かに次の言葉を待っている。深く息を吸った艶やかな唇から、重々しく声が絞り出された。

 

「『困ったことに』、自分にそっくりな容姿の子だって。破滅に向かってる自分の国へ連れ帰るのは死地へ送るようなものだし、かと言ってこの国では存在その物が許されないから、父親へ託すことも出来ない。おまけに、事態を重く見た上の連中が、クレイスを国へ送り返そうとしてることがわかった、って。このままだと、恐らく自分は何の協力も得られないまま、記憶を弄られて強制的に国に返される。子供がどうなるかも分からない。自分はなんて過ちを犯してしまったんだろうっ、て」


 一度、ドミナが言葉を切る。ロイドもサフィラも、主人の後ろに控える側近達も、一言も発せず次を待った。

 不意に、足元に視線を落としたドミナの唇が弧を描く。そのまま顔を上げ、青い髪の青年とじっと目を合わせた。今まで向けられていた表情からは想像もできないほど慈愛の滲んだ瞳に、サフィラが一瞬怯んだのを横でロイドは感じた。

 

「……これだけ聞いたら、なんてバカなって思うけど、やっぱりクレイスはちょっと違った。褒められた事じゃないし、バカなのは本当だけど、しっかり前を見てた。やってしまった事は取り返しつかない。けど、『その時』をただ待っているわけにはいかない。だからアタシを訪ねた、って。いいかいオルニトの息子供、よく聞きな。これから話す事が、アンタ達が今日ここへ来た理由——そして何より、あの子と交わした最後の約束が、これで果たせる」

 

 深く深く、ドミナが息を吸う。

 

「『女神の欠片かけら』を探しな。この国のどこかに、必ずある。あの子が初めて会った夜からずっと指に嵌めてた、悪趣味な指輪。それと似た、女神の割れた身体の一部を模した宝飾品——それが、時空海を渡る鍵になる」


 女神の欠片……と、サフィラが呟くのが聞こえた。神なんてものが本当に存在するのかと、自身が数時間前ジェンに示した疑問が、ロイドの脳内で鮮明な形を成した。








 

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