第9話 アルト(HA25S)

「アルト」


ワシは春を満喫していました。

光も風もそれから匂いも、3年ぶりに感じる春の喜びでいっぱいでした。

 ワシはついに転勤することができたのでした。

「転勤させてくれんかったらあの松の木で首をつっちゃるけえ。」

と言い続けてきたおかげでやっと転勤になりました。

 思えば3年前にトッポジージョというバカのおかげで無理やり転勤させられて3年間も地獄を味わい尽くしてきました。何度も辞職や自殺を考えたあの地獄よりももっと地獄のような毎日からようやく解放されたのでした。ワシは生きのびたのです。ワシは何とか生きのびることができたのでした。

 生きのびた喜び。もう二度とどうでもいいことでイヤな思いをしなくてもいいのです。それから人数ばかり多くて役に立たないヤツばっかりで、その尻ぬぐいで仕事が2倍にも3倍にもなっていった腹立たしさに、すべての理不尽さにいつも怒りが満ちあふれていて、こんな人事をしてくれたトッポジージョにいつか復讐してやろうと、それまでは死んでも死にきれないというか負けてたまるかというかというただその半沢直樹のような思いだけで3年間生きてきたのでした。

 のっけから失礼しました。ワシはあの頃を思い出すだけで、今でも怒髪天を衝いてしまうのです。ついでに夢でもうなされて、頭痛と腹痛が痛くて、パニックになって吐きそうになるので、ついエスカレートしてしまうのです。ですから嫌な始まり方をしてしまって本当に申し訳ありませんです。はい。


というわけで、ワシはこの春の久しぶりの心地良さに浮かれまくって、道長よりもこの世の春を満喫していました。そして自分で自分にご褒美を買ってあげようと思いました。人間死を意識すると小金を貯めるよりも快楽を求めるのです。

 ワシが一番欲しくて嬉しいもの。それは車に決まっています。

気軽に乗れてふらふらとちょっと遠くに行ける軽自動車がほしいのうと前々から思っていました。本当に素の軽自動車。軽くて余計な装備は不要で、できたらミッションで、走行距離が少なくて程度が良くて、予算は高くても30万以下の軽自動車。そんな車があったら欲しいのうと、ネットや足を使って何となく探しておりました。(そんなクルマ奇跡でも起こらん限りないって)

 基本的には程度の良い安い中古車なんかこの世には存在しません。その上に何色がいいとか、このグレードでなきゃあイヤだとか車種がどうだこうだとか言い出したら絶対に手に入りません。そんなんなら少し無理して新車を買った方が良いに決まっているというのがワシの持論です。

 ワシはずっとそう思っていました。だかワシが探したのは走行距離が2万㎞以内の込み込み30万円以下の軽自動車であります。それで検索かてみるとけっこう良い車が見つかります。でも遠くは見に行けなくてダメなので(以前通販でひどい目にあった経験から、実車を見て買うことが絶対条件であります。) そんなこんなをしているときに、隣の県ですが萩の明木というところにあるスズキの販売店に、ちょっと気になるアルトを発見しました。

 色は水色これは理想的。マニュアルミッションで3年落ちで走行なんと5千㎞。ほんまでっか。その車は4ヶ月ぐらいずっと売れ残っていました。

「なんでじゃろうか。」

とワシは思いました。ワシの常識ではあり得ない出物であります。事故車か人を引いたか、持ち主が死んだか、絶対に何かあるに違いないとワシは疑いました。ワシは何度もだまされたり現実を知ったりして、こと中古車に関しては疑い深くなっていました。

 だからワシは、家から60㎞も離れたその店にアルトを見に行きました。4月の始め頃でした。

 実はワシはその店を知っていました。というか何度も前を通ったことがありました。その店がある明木は山口ー萩を結ぶ国道262号線沿いで、九州に行くときにも通るし、宇部の友だちのところに行くときも、Zで高速走るときにも、とにかく頻繁に通っているのでした。だから入店したことはないけど気分的にはなじみの店だったのです。そしてこの数カ月は、通るたんびに、中古車コーナーの一番前置いてある水色のアルトを気にはしていました。好みの色でしたから。

「まだ売れとらんのう。」

と思いながら、通るたびに確認していたのでした。


 ワシは駐車場に、当時乗っていたZ11キューブを停めて、

「ごめんください」

といって店に中に入りました。それから来意を告げて、例の水色のアルトを見せてもらいました。

「この車は12月に1度目の車検をとったばかりです。」

 確かにぱっと見、程度はええようです。

「ところが持ち主の方が代車のATの車を気に入ってしまって、買い換えられること 

 になったんです。」

「ほうほう。」

「職場が自宅だったので、あまり乗らなかったそうです。」

点検簿等で確認しました。走行5000㎞は間違いないようです。グレードは一番下(5MTに乗りたいのならこのグレードしかない)でリモコンミラーもオートエアコンもついてないけれど、なぜか高額オプションのルーフスポイラーやフォグランプがついていてけっこう精悍です。タイヤは3年経っていてけっこう固くなっているけどほぼ10分山。バッテリーは車検で交換したばかりみたいです。

 外装、内装、目立った傷もへたりも臭いも汚れもなくて、これは上玉ですよ。上玉。

 さっそく試乗させてもらいました。車体が軽いのでノンターボでもウイーンと加速してけっこう走るのうと思いました。ワシはこの車がすっかり気に入ってすぐに契約してしましました。こみこみ55万円でだいぶ足が出ましたが、ワシが持っているETCや前の車から外したナビやレーダー探知機やその他もろもろの取り付けもサービスで引き受けてくれたのでまあよしとすることにしました。何よりも車の程度は抜群でちょうどワシが欲しい色で、老舗で信用できるしセールスさんもいい方だし。何かの「縁」を感じたのでその日のうちに判を押しました。ワシはいつでも衝動買いです。でもこの車となら楽しい毎日が過ごせそうな気がしましたので後悔はしませんでしたし迷いもありませんでした。浮かれていましたし。


 納車は連休前でした。あれから数度足を運んで、住民票やらETCやらナビやらを持ち込んで取り付けをお願いしました。

 当日は大雨でしたが、ワシはそのまま乗って、山陽側に住んでいる友達の家に遊びに行きました。途中で満タンにしたのですが、ぐるっと回って夕方に家に帰り着いたときもあんまりガソリンが減っていません。軽くてよく走るし燃費もいいし、純正のフォグランプはとても明るいしで、ワシはこのアルトがすっかり気に入ってしまいました。

 それからというもの、ワシはアルトにばかり乗るようになりました。通勤もアルト。買い物もアルト。遠出もアルト。結婚式も同窓会もアルトで行きました。

 だって楽しくて楽しくて。気軽に乗れるし気を遣わなくてもいいし、狭い道も平気だし雨風台風、大雪の日も一番安いスタッドレスで平気で走ってくれるのですから。5MTを駆使して走るとけっこう速いしコーナーだってすいすい曲がるし、タイヤもちびないしでいいことばかり。すべて「軽量」がもたらす恩恵だと思いますがとてもええクルマだと思いました。

 1つだけ不満を上げれば、全面が透明ガラスで、UVカットじゃあなかったので、夏場の陽ざしがじりじり来て本当に暑くて日焼けやガンが気になったことでしょうか。UVカットガラスを装着したクルマに乗り換えるとその効果がものすごくよくわかりました。室内はエアコン効いて室温自体は高くないのに猛烈な太陽光線というか紫外線がじりじり来る。自分でフィルムを貼れば良かったのですが、そんなことやっていたのははるか昔のことでしたので、また失敗すると後で大変なことになるので我慢してメッシュのネットをつけて乗っていました。

 それ以外はまったく不自由しないし困ったこともないし、これ一台あったら何とかなるものだと感心していました。

 

 結局4年で5万キロも乗りました。乗りつぶすつもりでしたが、どうしてもと言われる年配の方がいらっしゃったので、大事にしてくれそうだったので、売ることになりました。「踏み間違え事故」など起こりえないマニュアルミッションのクルマを探しておられたので、ナビもスタッドレスもつけてお渡ししました。


 HA25の水色のアルト。ときどき見かけますが元気そうです。また大事にしてもらっているようで、ワシも嬉しく思います。クルマを売るときに、ワシは次のオーナーの方が可愛がってくれるとええのうと思うようになりました。

  やっぱり歳は隠せませんね。情にもろくなっているようです。クルマにも「情」を感じて、手放すたびに悲しくなります。

 人もクルマも、いつかはお別れがやってきます。後悔しないように精一杯大切にしようと、横で大イビキをかいて爆睡している妻の顔を見て、ふとそう思いました。


 

 

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