織田弾正忠家の妻

第5話 織田弾正忠家との和睦

 1547年 稲葉山城


 利政による土岐攻めの最中、織田弾正忠家が素早く稲葉山城下へと兵を進めた。城下町に火を放ち、夕暮れと共に兵を撤退させていた信秀であったが、利政が仕込んだ伏兵の奇襲により潰走することとなる。

 そして土岐家の滅亡が美濃全土へと伝わった。

 そんなある日のこと。

 稲葉山城の廊下で懐かしき再会を果たす者たちがいた。


「御父上様」

「よくやった。成果は上々である」


 利政が娘である帰蝶にかけた言葉はそれだけであり、その言葉に小さく頭を下げた帰蝶の側を通り過ぎて行った。

 側に着いていた正義が何やら言いたげであったが、利政の威圧に気圧されその後をついていくだけである。


「姫様、本当によろしかったのでございますか?」

「いいのです。御父上様があのように言われたということは、未だ私の存在価値はあるということ。ならば私は御父上様のお言葉に従うだけ」

「・・・かしこまりました。これ以上は何も申しません」


 侍女は辛げな表情でそう答えたが、当の本人である帰蝶は何もかわらぬ普段通りの様であった。

 それが侍女にとっては余計に辛いことであることに間違いはない。

 だが帰蝶に与えられた役割を知っている侍女もまた、これ以上の口出しは不要であると心得ていたのであろう。


「大桑城はあの後誰一人として残らなかったそうです」

「姫様の行いを隠すためだと」

「えぇ、御父上様のお気遣いです。ありがたく思わなければ」


 帰蝶はそう言うと、止めていた足をまた進め始める。向かう先は小見の方の部屋。

 父である利政の正室であり、帰蝶の母である御方の部屋であった。斎藤家中で唯一帰蝶を1人の娘として扱う数少ない存在であり、その重責を誰よりも理解してくれる者でもある。

 帰蝶にとっては間違いなく心の拠り所であり、利政や正義と話す時には決して見せない表情で話す。

 その様を知るのは当の本人である小見の方と、侍女の2人のみ。

 この瞬間こそが未だ帰蝶の中に人としての感情が残っている唯一の証なのだ。




 1548年 稲葉山城


「殿、もはやこれ以上は戦えませぬ」

「朝倉の介入がない内に早期和睦を結ぶべきにございます」


 土岐家滅亡後より利政に与した安藤あんどう守就もりなりと、氏家うじいえ直元なおもとはそう利政に進言する。

 利政はその様をただ黙して見ているだけであった。

 先述したが美濃守護としての土岐家は滅亡した。土岐頼芸が未だどこかに潜伏しているようであるが、嫡流として守護に任じられていた頼純が死んだためそう判断されたのだ。

 だが織田弾正忠家との戦は以降も絶えず起こっていた。せめてもの救いは朝倉が担ぐべき御輿を失ったことで介入してこなくなったことであろうか。

 だがそれでも数ヶ月に渡って大垣城をめぐる戦が起きているのもまた事実である。


「双方被害は甚大にございます。このままでは朝倉のみならず、国内の領主らも反旗を翻す勢いにございます。早く手を打たねば」

「そのようなことはわかっておる。だが美濃東部が安定せぬのは彼奴が殺されたからであろう」

「ならば何故、三河守を処罰せぬのでございますか」


 そう、この年の2月。利政の養子であった正義は殺されていた。

 殺したのは正義配下の久々利くくり頼興よりおきという男である。酒宴があると久々利城に呼び出し、その場で殺した。斎藤正義、享年33才。

 だが養子とはいえ、斎藤一門の中でも実力者であり、その出自も侮られるものでは無い。

 そのような者が殺されたことで、正義が居城としていた烏峰城を含めて美濃の東部は混乱状態に陥っているのだ。


「あれは儂に離反する心があった。あやつは大きくなりすぎて、本来の立場を見失ったのだ。それを察知した三河守が誅した。故に儂は三河守を処罰することは出来ぬ」

「・・・それは真の話なのでございますね」

「そのとおり。だがこの話が外へ漏れ出ると、我らの弱みを晒すこととなる。今はまだ三河守の汚名を晴らすことも、あれの離反を公とすることも出来ぬ」


 この言葉がどこまで本当かなど誰も分からない。知っているのは利政と頼興の2人、そして今は亡き正義だけであろう。

 だがいつまでもこの議論で時間を無駄にするわけにはいかない。

 大垣城周辺での戦は未だに終わってはいないのだ。しかし利政にとってはこれこそが真の狙いであった。


「まぁよい。それよりもそろそろ織田との戦も終わりよ」

「終わりと申されますと?」

「おぬしらの言うとおり和睦の時が来た。弾正忠の元へ和睦の使者を出すとしようか」


 その言葉に安心したのは守就と直元両名であったであろう。これで戦場で散らす兵の命を供養することが出来る。

 長く続いた織田との戦も一区切りであると。

 だがそんな思惑など利政にはなかった。あくまで自身の打つ手には裏がある。そうしてこの激動の時代を生き抜いているのがこの男であるのだ。


「それで使者にはなんと?」

「数年前の約束である。婚姻同盟を成すことで美濃と尾張の安寧を図ることとする」

「こ、婚姻同盟にございますか?」

「その通り。かつて織田弾正忠は儂の娘を寄越せと申しておった。あの時はうやむやなものとなったが、奴らも美濃ばかり見ておくことは出来ぬ」


 織田弾正忠家の敵は北の斎藤家だけではない。尾張国内では未だ織田一族で争いが巻き起こり、東からは今川義元が上洛を目指して再三にわたる侵攻を企てている。こうして大垣城を争っている今このときですら、尾張の南部や三河では織田と今川が戦っているのだ。

 大垣城でここまで粘ったのも織田を弱らせるため。これ以上戦をすれば、攻め寄せる今川を撃退出来ないと察させるためであった。


 その数ヶ月後、織田信秀からの要請もあり迅速に婚姻同盟は締結されることとなる。

 一度は土岐頼純に嫁いだ帰蝶と、信秀の三男であるものの織田弾正忠家の嫡男である信長との婚姻。

 これに喜んだのは信秀であった。信長を正室の子の中でも特に可愛がっていたのだという。

 そして織田家中では跡継ぎ問題が非常に大きな問題と化しており、美濃の有力者と成り上がった利政の娘を妻として迎えることは、信長の嫡男としての立場を向上させると考えたのやもしれない。

 しかしそれは利政にとっても都合の良い話であった。


「織田三郎といえば、美濃にもその名を轟かせる大うつけ者である。上手くいけば尾張すらも我が手中にと出来るやもしれん」

「では私は尾張へと向かうのでございますか?」

「そうだ。何、心配せずともあやつはお前を蔑ろには出来ん」


 またあの日と同じ光景であった。暗くなった部屋に利政と帰蝶の2人だけ。

 揺れるろうそくの灯に2人の顔が確認出来るのだが、此度は少し前回と違うこともあった。

 利政の表情が僅かばかり愉快げなのだ。

 狙う獲物が大きなことを喜んでいるのやもしれない。だがそれはすなわち帰蝶の役目も比例して大きくなることを意味していた。

 頼純に嫁いだ時は斎藤の家を守るための婚姻。だが此度は斎藤を大きくするための婚姻である。

 そのことを利政も、そして帰蝶も気がついている。


「三郎様はどのような御方なのでしょうか?」

「うつけであるが故に、儂にもその行動が読めぬ。故に頼純のようにはいかぬであろう」

「そうなのですね・・・」


 帰蝶は困り果てていた。実のところ、頼純との付き合い方は利政指示のものであったのだ。何度もその顔を見てきた利政には、頼純をどう扱えば良いかが見えていた。

 だから敢えて距離を空けるよう指示をし、いざというときに懐に入り込めるように命じていた。

 だが此度はそれが出来ない。


「動きが読めぬ者に予め行動を決めてむかうはあまりに危険よ。よってあの男の側にいるお前が自分自身で判断するのだ。いざというときにその首を狙うことが出来る立ち位置で儂の命を待て」

「かしこまりました」


 だがその帰蝶の表情はいつになく緊張しているようである。そのことを察したのであろう利政は何か言いたげにしていた。だがその言葉が利政の口から出ることは結局無かった。


「此度も期待している」

「かしこまりました」

「部屋へ戻れ。外に・・・」


 利政はそう言いかけて止めた。いつも外に控えていたはずの正義は最早いない。

 それを利政に限って寂しく思ったというわけでは無いだろうが、知らぬ間に口癖となっていたのであろう。


「御父上様?」

「・・・なんでもない。外に人を待たせている。部屋まで側につけておくがよい」

「かしこまりました」


 その利政の様子を不思議に思いながらも帰蝶は部屋をあとにする。

 1人残った利政はどこか寂しげな表情であった。

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