第1幕 国立文楽研修所入所の段


     (1)


 翌朝きっと目が醒めた時、傍らには麻紀がいて

「あなた、昨夜は何かうなされてましたよ」

 と云うに違いない。

 そしてこう答えるのだ。

「自分が17歳に戻った時にいて、死んだおふくろ、養父も出て来て大変だったよ」

 それから二人の会話が交わされる。

 昨夜きっとそうなると固く信じて目を閉じた。

「正樹、早よ起きろ!」

 優しい麻紀の声ではなくて、母照子の声だった。

「まだこの夢、続くのかよ」

 一挙に正樹のこころは萎えた。

 一方で、徐々に昭和47年の現実を受け入れようとするもう一人の自分がいた。

 しかし、一刻も早く21世紀の現代に戻らねばの思いも確かに抱いていた。

 さてどうして戻るかだ。

 そうだ!事の発端は、押し入れだ。

 実家の押し入れ全てを探索。

 押し入れの壁はびくともしない。

 奥の壁は引く事も押す事も出来ない。

「あんた、さっきから、押し入れ開けたり閉めたり、何しよるん」

「いや、開閉チェック」

「変な子。もうすぐ札幌オリンピック開会式始まるからちょっと、おとなしうしててよ」

 朝からテレビ各局は、札幌オリンピックの事ばかりだった。

 トワエモアが歌う、札幌オリンピック主題歌「虹と雪のバラード」が流れていた。

 まじまじとテレビを見る。

「70m級ジャンプで日本は金銀銅独占するよ」

「何でそんな事わかる」

 照子がまた眉間に皺を寄せる。

「正樹はいつから予言者になった」

「金笠井、銀今野、銅青地」

 照子の言葉を無視して正樹は続けた。

「お父さん、何か云ってやってよ」

「言論の自由じゃ。勝手に云わしておけ」

 三郎は笑った。

 三郎は、働いていなかった。

 それでいてパチンコ競輪競艇のギャンブル狂い。

 しかし、照子や正樹に暴力は振るわない。

 平和主義者だった。

 正樹は、茶の間のテレビをじっくりと見た。

 まだ当然アナログ放送である。

 デジタル液晶フルハイビジョンや4Kを見ていたので、このぼやけた色の放送がいやになる。

(よくこんなものを見ていたな)と思った。

「東京オリンピックの時は白黒テレビやったもんなあ」

 それでも照子は嬉々としていた。

「こうして一般家庭で、カラーテレビ見れるとは科学技術は進んだのう」

「もっと科学は進んで、手のひらサイズでこれより数倍鮮明な画面サイズで見れる世の中になります」

「こらっ正樹、ええ加減にせんか!よもだばっかり云うてからに」

 これ以上照子を怒らすとややこしいので黙った。

 正樹は新聞を見ながら考えた。

(もし本当に、昭和47年にタイムスリップしたのなら、人生を17歳からやり直せるのか)だった。

(いや、違う事すれば、2022年に軋みが起きる)

(忠実にもう一度、再現人生しないと)

(確か、あの時新聞見ていたな)

 正樹は、50年前の出来事を反すうしていた。

 ぶつぶつ云いながら広島新聞を見た。

 やはりあった。

 文楽協会が、第1回文楽研修生を応募していたのだ。

 この時代、情報媒体は新聞、テレビ、ラジオしかなかった。

「母ちゃん、ちょっと話がある」

「なん?」

 じろっと照子は、よどんだ目を正樹に投げつけた。


 瞬く間に一か月が過ぎた。

 あの札幌オリンピック開会式の日に、正樹は照子に文楽研修所に入所したいと告白。

 照子も養父の三郎も別段反対はしなかった。

「何で文楽の義太夫三味線なんじゃ」

 三郎は根本的な質問をした。

 告白する前夜、テレビで文楽を放送していた。

 演目は「牛若丸・弁慶 五条橋」だった。

 有名な牛若丸と弁慶が京都五条橋(現在松原橋)の橋の上で対決するものだった。

 牛若丸の蛇の目傘と弁慶の薙刀を人形が持つ。

 つまり人形遣いの大人三人が器用に持つのだ。

 義太夫の語りと付き添うように義太夫三味線の音色が盛り立てる。

 非常にリズミカルで面白いのだ。


 弁慶元より法師の身、女に何と言ひ掛けん、詞も艶めく気色に恥ぢ、橋の傍を過ぎ行けば

 若君「彼をなぶって見ん」と

 右へ避くれば

 右に立ち

 左へ行けば

 左に行き、違ひ様に薙刀の、柄をはつしと蹴上ぐれば

「スハ、痴れ者よ、物見せん」

 と、薙刀柄長く押取りのべ、切ってかかれば

 若君は、薄衣取り退け打ち寄する

 剣を欺く傘は六十間の橋の上、ひらりひらり〃 〃くるくる〃 

 車に揉まれる


 画面にくぎ付けとなった。

 寝床に入っても耳に義太夫三味線の音色がこびりついたままだった。

 寝るどころか、右手左手が自然と動いていた。

 そして翌日、新聞で文楽研修生の募集を知った。

 日頃は新聞など読まない、正樹がたまたま目にした。

 これは、文楽の神様からのメッセージと捉えた。


 全部正直に吐露した。

「そうやなあ、義太夫三味線の音色はええもんなあ」

 三郎はつぶやく。

「父さんわかるの」

「ああ、わかる」

「そうやろう。僕も何や知らん、こころのひだひだに絡まるんや」

「正樹、ええ事云うなあ。こころのひだひだか」

「そうや」

「けど、こころのひだひだは、人によってまちまちやで」

「どう違うの」

「さあどう違うやろな。しかもそのひだひだの奥には何が見えるか」

「何が見えるの」

「さあ何が見えるか、お前がそれを確かめに東京へ行ったらええんや」

「あんたあ」

 照子の目に涙が生まれていた。

 何故照子が泣いているのか、この時正樹は理解出来なかった。

 絶対に反対されると思っていた正樹は、拍子抜けしていた。

「一度だけの人生、好きにやればええ」

「あんたの人生やけん、あんたが決め」

 そして願書を取り寄せ、三月の東京国立劇場での面接となった。

 この時代、まだ大阪に文楽劇場は出来ていない。

 二年間の研修所は東京だった。

 広島から岡山までは在来線で行く。

 まだこの時は、山陽新幹線は岡山止まりだった。

 今年の3月15日にやっと新大阪~岡山が開通したばかりだった。

 岡山~博多間が開通するのは、昭和50年(1975年)だから、あと3年待たないといけなかった。

 改めて正樹は新幹線のありがたみを知った。


 国立劇場での面接は簡単なものだった。

 名前、年齢、出身地、志望動機を聞かれた。

「文楽の義太夫三味線のあの特有の音色に惹かれました」

 型通りの答えだった。

「最後に何か我々に見せるものありますか」

「はい。創作浄瑠璃を披露します」

 正樹は、持って来た義太夫三味線を弾き始めた。

 これは、照子が持たせたものだった。

 正樹のつま弾く義太夫三味線の音に、今まで寝ていた長老の福竹梅太夫80歳が、ばちっと目を開けた。

 覚醒されたのだ。

 文楽界の「長老の会」会長。

 今回の文楽の三業(太夫、三味線、人形遣い)の一般からの応募は、この人が首を縦に振ったので実現した。

 実現のための条件が一つあった。

「大阪からの応募者は、全員合格させる事」だった。

 しかし今回の応募は全くゼロだった。

 この頃、大阪では竹松新喜劇、藤川トンビ座長の芝居が絶賛好評で文楽公演を道頓堀朝日座でやっても、客の入りは二割くらいだった。

 梅太夫は聞きながら、改めて応募願書を見ていた。

「坊屋正樹。広島かあ・・・・」


  創作浄瑠璃「文楽(ぶんらくの)世界(せかいへ)飛翔(とび)行(たとう)」

 ♬

 ある日テレビで 見た文楽の三味線

 自分のこころを 一度に振り向かせ

 きっと自分は  文楽の世界へ行く

 確信めいた   お告げに近い

 だから来ました だから弾いてます

 きっと自分と  同じこころの同士

 同士と一緒に  築いて行こう

 同士と一緒に  歩んで行こう

 さあ手を取り  合って行こう

 文楽の世界へ  文楽の城へ

  

 義太夫三味線を弾いている途中で審査員がざわつき出した。

 囁き合っていた。

「嘘だろう!」

「あれは何や」

 梅太夫も叫んだ。

 無理もない。

 正樹の口元、義太夫三味線の胴の部分から音符記号が絶え間なく生まれていたのだ。

 語りに必死の正樹は全く気付かなかった。

 弾き終わると、梅太夫は尋ねた。

「君は、手品も出来るんか」

 単刀直入の質問だった。

「何ですか、手品って」

「あなたの口元と三味線の胴から音符記号が出ていたんです」

「それは知りませんでした」

(こんな質問されたっけ?)

 50年前と少し違う気がした。

「坊屋君はどこで義太夫三味線を習ったんや」

 梅太夫は質問を変えた。

「母親です」

 正樹は、照子が義太夫三味線の流しを広島でやっていた話をした。

「ほお、義太夫三味線の流しですか」

「珍しいなあ」

「広島では、それ流行ってるの?」

「いえ、うちの母親だけです」

「そうだろうなあ。流しと云えば、ギター」

「北島三郎」

「北島三郎の(祭り)弾きましょか」

「祭り?そんな曲あったかなあ」

 正樹は、あっと思った。

 そうか、この時代、まだこの曲はなかったんだ。


 昭和47年(1972年)4月1日。

 東京国立劇場で、入所式が行われた。


 願書出願総数20通

 受験者数  13人

 合格者   11人


 2人だけ不合格。

 理由は、面接の時、

「いつになったら、テレビに出れますか」と聞いた。

 ネットもスマホもない時代、情報を得るのは大変な時代だったのだ。だから一概に笑えない。


 義太夫三味線志望5人

 太夫志望    5人

 人形遣い    1人


 広島から照子は駈けつけた。

 三郎は来なかった。

「東京まで大儀じゃあ」と云うだけだった。

 第一期生なので、東京マスコミ各局が詰めかけた。

 梅太夫が挨拶に立った。

 今年80歳の通称文楽長老会の会長でもあった。

 当時、男の平均寿命は70歳だったので、かなりの高齢、今なら90歳に相当する。

「11名の諸君、入所おめでとう。ようこそ文楽の城へ。今、この城は荒れ放題です」

 ここで言葉を区切り、じっくりと11名の顔を見つめた。

「戦国時代に例えるなら、落城寸前です。文楽城は、あちこち壁が剥がれ、松の木は枯れて、城下町も焼けて廃屋が目立ってます」

 昭和47年当時、文楽特に大阪の客の低迷は酷い有様であった。

 道頓堀朝日座で年に4か月定期公演を続けていたが、大体客の入りは二割から三割だった。

「文楽城にいる兵士達も私を筆頭に年も取り、何より活気がないです。そこで若い皆さんの力が必要だと感じて今回、一般募集をしました。ここにいる皆さんは、下は17歳、一番年上でも25歳と圧倒的に若いです」

 17歳とは正樹の事で、一番若かった。

「どうか皆さん、この文楽の城を皆さんの手で、智慧で建て直して下さい。枯れた松には水をやり、肥料をやり、剥がれた壁は新しく塗り直して下さい。よろしくお願いいたします」

 来賓の挨拶が続いて最後に記念撮影を撮った。


 正樹は照子と合流すると、正樹の下宿先に向かった。

 今回、正樹は照子の知り合いの小唄の師匠堀川小町の一戸建て住宅の二階に下宿させて貰っていた。

 場所は、国電山手線五反田駅から東急池上線に乗って、11個目の久が原で降りる。

 当時JRは、もちろんなくて国鉄。

 東京では「国電」と呼んでいた。

 照子は、右手に広島のもみじ饅頭を手土産に持ち、左手は大きな風呂敷包みを持っていた。

「そっちの大きな風呂敷の中身は」

「これはちょっと大事なもの」

「それも小町さんに渡すの?」

「違う。ねえいつもこんな感じなん」

 照子は話題を変えた。

「何が」

「人よ。人が多すぎる」

「今日は日曜やよって空いてる方よ」

 国立劇場の近くの駅、有楽町線「永田町」から「有楽町」

 山手線乗りかえて五反田。

 そして東急池上線とずっと立ちっぱなしだった。

 この時代、「半蔵門線」はまだ出来ていなかった。

 渋谷~青山1丁目の部分開通が昭和53年(1978年)なのだ。

 正樹にとっても、50年前の車内風景は物珍しさでいっぱいだった。

 令和の時代と大きな違いは、車内で文庫本を読む人の多さだった。

(この時代の人は、こんなにも読む人がいるのか)と思った。

 読む対象物は文庫本に限らず新聞もそうだった。

 ラッシュアワーの時は、新聞を細かく折ってつり革につかまり読む。

 何しろこの時代、ウオークマンさえないのだ。

「あんた、頑張りしんしゃい」

「うん、わかってる」

 揺れる車内で、照子は器用に立ちながら、鞄から何か取り出した。

「忘れんうちにこれ渡しておく」

「何ねえ?」

「お守り」

 見ると「松尾大社」と書かれていた。

 色褪せていた。

「これ母ちゃんがずっと持っとったんよ。これがあったから今のお店開けたんよ。ほやけん大事なもんよ」

「そない大事なもんやったら、ずっと持っとたら」

「いいや。今日から正樹のもん。ずっと肌身離さず持っときなさい」

「わかった」

 中を覗こうとした。

 パシリと手をはたかれた。

「やめんねえ。神様に失礼じゃ」

「わかった」

 正樹は受け取ってポケットの中にしまった。


 小町は、歓待してくれた。

「照子さん久し振り」

「よろしくお願いいたします」

「こんな立派な息子さんいたら、もう安心やねえ」

 小町は、照子が背中に義太夫三味線を弾き、手に正樹を連れた写真を見せてくれた。

 正樹は全く記憶がない。

(この二人は今の俺よりもはるかに若い!)

 照子は、正樹を30歳で生んでいるから47歳。

 小町は40歳なのだ。

 内面、精神は66歳の正樹なので、二回りも若い。

「三郎さんは来なかったの」

「あの人、照れ屋さんだから来なかったのよ」

「まあ息子さんの一世一代の晴れの姿なのに」

「息子と云ってもねえ」

 照子は、ここで言葉を濁した。

 小町も、実の父親でないのは知っていた。

 部屋に入る。

 四畳半で、今は何もない。

 押し入れには実家から送って貰った布団があるくらいだ。

 照子から貰い、面接でも披露した義太夫三味線は、大切に置いてあった。

「これはどんな事あっても、肌身離さずに置いておきんしゃい」

「わかってる」

「それとこれ、あんたのお友達になるから」

 意味ありげに照子は風呂敷包みを置き笑った。しばらく歓談した後、正樹は照子を宿まで送って行く事にした。

 宿は、東京駅近くだった。

「何で東京駅近辺にしたの」

「折角東京に出て来たから、宮城(きゅうじょう)見ようと思って」

「球場?東京ドームなら水道橋だよ」

「東京ドーム?ドームて何ねえ」」

 照子が疑惑の眼差しを投げかけた。

「あっ違った!後楽園球場」

 約50年の色々な都市、習慣の変化の逆行を頭の中で瞬時に変換するのは難しいと正樹は思った。

「違う、違う、その球場と違う」

 皇居の事だと云う。

 皇居二重橋を見たいと云う。

 そう云えば、母照子の世代は「皇居」と云わずに「宮城」と云っていたなあと思った。


 その夜。

 義太夫三味線を弾いている時だった。

 窓に猫の鳴き声がした。

 そっと開けると真っ白の毛の猫が入って来た。

「おっと!出さないと」

「やめてよ!」

 いきなり女の声が聞こえた。

「誰や!」

 正樹は、再び窓を開けた。

「そこじゃなくて、ここ」

「えっ!」

 慌てて振り返る。

「猫が喋った!」

 頭を抱えた。

 やはり人生をやり直す事によるストレスが出て来たのだ。

 人は大きなストレスを抱えると幻聴、幻視が発生すると聞いた事がある。

 それだと思った。

「正樹さん、私、私」

 猫はゆっくりと話す。

「ああああ!」

「大きな声出さない!」

「はい。何で君はここにいるんだ」

「母親のそばにいるためです」

「母親?小町さん?」

「違う!ここです」

 猫は右足で、義太夫三味線の胴の部分を叩いた。

「これ、私のお母さんなんです」

 三味線の皮は、猫、犬で出来ている。

「そうだったのか」

「はい」

 猫が笑う。

「じゃあお父さんは」

「わかりません。でも東京にいるはずです」

「でも君は、広島からどうやって来たんだ」

「照子さんが連れて来ました」

 正樹は、大きな風呂敷が目に浮かんだ。

「あの中身は、猫だったのか」

「猫と呼ばないで」

「名前あるのか」

「ヒロコ」

「誰がつけたの」

「照子さん」

「その由来は」

「広島の広から」

「単純過ぎる」

 一度も猫の事は照子から聞いてない。


    ( 2 )


 授業は、早速翌日から始まった。

 研修期間は二年。

 一年めの今年は、基礎、教養を学ぶために科目は多かった。

 文楽の三業である、義太夫三味線、太夫、人形遣いについてはもちろんの事、日舞(藤間流)、筝曲、胡弓、謡い、作法、歌舞伎、能、狂言など多岐に渡る。

 月曜から金曜日まで10時集合。

 10時半から午後5時まで。

 90分授業が4限。

 土曜日は午前中までだった。

 高校の授業よりもハードである。

 授業は板の間で正座で聞く。

 教科書、マニュアルはなかった。

 これに舞台実習、舞台稽古見学が加わる。

 文楽は東京、大阪それぞれ4か月ずつ公演がある。

 大阪公演の時は、師匠と共に大阪に行く。

 下宿先は、食事は出ないので、三食外食となる。

 授業は、国立劇場の中の和室の会議室で行われた。

 最初の授業も多くのマスメディアが詰めかけた。

 特に力を入れていたのが、日本テレビとTBSだった。

 日本テレビ「あなたのワイドショー」(司会・石橋エータロー)

 TBS「モーニングジャンボ奥様8時半です」(司会・鈴木治彦)

 の二局は、打倒フジテレビを目指して、今朝、この日から始まった。

 当時、朝のワイドショーはフジテレビの「小川宏ショー」の独占状態だった。

 各局それぞれレポーターを派遣して録画中継していた。

 最初の授業は、長老の梅太夫だった。

 テキストはなかった。

 各自、ノート、鉛筆は用意していた。

 テレビは最初の梅太夫と11名の生徒を収めると出て行った。

 ざわつきの世界から一気に静寂にと色を反転させた。

 梅太夫はじっとしていた。

 ふみ机に両手をつけて上半身乗り出して、11名を睨みつけた。

 一分経った。

 何も話さない。

(これは何かの試練なのか)と正樹は思った。

 このまま90分何も話をしないのかとさえ思った。

 3分経過。

「こない仰山の若い人の前で話すのは慣れてないんやわあ」

 梅太夫は笑った。

「失語症とちゃうでえ」

 笑わしにかかろうとしたが、11名は誰も笑わない。

「そしたら本題に入ろうか」

 梅太夫は黒板に

「太夫」

「三味線」

「人形遣い」

 と書いた。

「文楽は、この三つ、三業がそれぞれ独立してます」

 正樹を除く10名が大きくうなづいた。

 皆必死でノートに書いていた。

 正樹は、全くそれをしなかった。

 それは梅太夫以外の授業でもだ。

「一方、歌舞伎は、役者が一番偉い。まあこの中におるのは文楽の道を歩む者ばかりやから、これは関係ない話やけどな」

 思わず正樹は笑ってしまった。

 8年後の25歳の時、自分はその関係ないと思われた歌舞伎の世界へ行き、以後66歳の今日までどっぷりと歌舞伎の世界に浸るからだ。

「坊屋正樹、何がおかしい」

 梅太夫は、じろっと睨んだ。

「いえ、歌舞伎の世界へ行く人生があるからです」

「お前は、文楽と歌舞伎、どっちへ行きたいんや」

「もちろん、文楽です。でも・・・」

 ここで正樹は言葉を呑んだ。

 これ以上の事は未来話になるからだ。

 この昭和47年の時点では!

「でも何や、云うてみい」

 梅太夫は、続きを聞きたいようだ。

 よしと腹を決めた。

「人生、文楽の道ばかりではないと云う事です」

「そらそうや。でも今は皆、文楽の道を脇目も振らずに歩もうとしてる。そうと違うか」

「ええ今は。でも今回11名の第1期生のうち、50年後も続けているのはたった3人だけですから」

「ほお、おもろい事云う奴やなあ。まるでタイムマシンで50年後、つまり」

 指折って数え出す。

「2022年です」

「その2022年見て来たような喋りするなあ」

「いえ、僕、50年先まで未来が覗けます。何故ならずっと生活して来ましたから」

「売り言葉に買い言葉、今お前はん、3人しか文楽に残ってないと云うたけど、その3人の名前、云うてみい」

「云えません」

「何でや」

「それ云うと、その人もそれ以外の8人も気にして違う人生歩んでしまう。そうしたら、未来が変わるから駄目です」

「それでお前はどうなるんや」

「文楽の道を23歳でやめて、外れて行きます」

「阿保ンダラ!」

 チョークがいきなり飛んで来て正樹の額を直撃した。

「冗談でも云うてええ事と悪い事があるで!」

「はい」

「しっかりしょ!」

 正樹は思った。

 タイムマシンで過去に遡って、人生をやり直したいと人はよく云うけれど、今それを体感している者にとっては、それは苦痛そのものなのだ。

 これから起きる様々な出来事はもはや知っている、いや知り尽くしている者にとっては、苦痛である。

 100mを9秒で走れる者が、位置についての姿勢、手の置き方を習うようなものだ。

 もし現代に戻れないのなら、この苦痛が50年続く。

「人生やり直したい」

 なんて事は、口にすべきでない。

 正樹はさらに思った。

 なぞらない人生を選択したらどうなるのだろうか。

 一回目では23歳で文楽をやめて、翌年、歌舞伎の竹本研修生をやり直していて、25歳で文楽から歌舞伎に入った。

 今回、全く別の人生を選択したらどうなる。

 恐らく麻紀とも会わない。

 別の女性と結婚して子供も出来るかもしれない。

 だから、踏み外してはいけない。

 なぞる人生でないと、そう思った。

 正樹の背中をつつく者がいた。

 振り返ると、上条がいた。

 初日は胸に名札と希望の職種を書いたプレートをつけていた。

 正樹と同じ義太夫三味線希望だった。

「坊屋くんは、手品出来るだって」

「手品?ああ、音符ね」

 今度は横からノートをちぎったのを寄こした者がいた。

 仙仁だった。

 ノートには正樹が義太夫三味線を弾き、口と胴から♬音符が出ている絵が描かれていた。

「僕も口から出せるよ」

 絵を描いた仙仁が囁く。

「何を出すの」

「ほら!」

 忍び笑いしていた。

「はいそこの坊屋、上条、仙仁の三人前へ出る」

 いきなり指名を受けた。

 三人が前へ出た。

「仙仁、お前はわしの似顔絵描け。この黒板に」

「黒板にですか」

「そうや。上条、お前はわしの肩を揉め」

「肩揉み?」

「何でですか」

「何でもええからやれ」

「はい」

「坊屋に聞く」

「何でしょうか」

「このわしの言葉、行いもきみが一度見て来たんと同じなんか」

「それは・・・」

「どうなんや」

「わかりません」

 梅太夫の顔に困惑と怒りが同居していた。

 

 午前中の授業が終わる。

 国立劇場の食堂で昼ご飯を食べる。

 A定食100円。B定食120円

 節約のために、いつもAにした。

 食後は、「セブンアップ」と云う炭酸飲料を飲みたいが我慢した。

 上条、仙仁、坊屋の三人が一緒だった。

「きみ、17歳だって」

「はい」

 上条は早稲田大学文学部を出て、就職せずに文楽研修所に来た。

 仙仁は多摩美大中退で来た。

 二人とも23歳だった。

「未来予言出来て、手品が出来て、義太夫三味線も出来る。正樹くんはある意味天才だな」

「どうして口から♬音符が出る事知ってるんですか」

「もう事務局でもかなりの噂になってる」

「小川宏ショーに出たらいいよ」

 仙仁まで乗って来た。

「種明かし教えてよ」

「いやあれは手品じゃないです」

「じゃあ何なの」

「本当に口から出たんです」

 上条と仙仁は顔を見合わせた。

 間をおいて二人は大笑いした。

「いいねえ、面白いねえ!」

「あとどんな得技あるの」

「飼ってる猫と話せます」

「いいねえ、いいねえ。猫とも喋れる!」

「ちょっと写真撮ってもいいですか」

「いいけどきみ、今はカメラ持ってないだろう」

 正樹は、スマホを取り出した。

「これで撮ります」

「嘘だろう。そんな薄っぺらい板のもので撮れるわけないだろう」

「撮ります!」

 三人が顔を合わせた。

 撮った画像を見せた。

「やはり、君はマジシャンだな」

「ああ。でもこれはあまり皆に見せびらかすのはよくない」

「そうだ。三人の秘密だな」

 初日から意気投合した。

 

 毎月広島の実家から3万円仕送りがあった。

 照子はよく葉書を寄こした。

 この時代黒電話があるが、長距離電話は高い。

 午後8時過ぎると安くなるので、照子から電話があるのは、必ずその時刻を過ぎてからだった。

 電話で話せなかったものが葉書に書いてあった。


「はーい正樹ちゃんお元気ですか。

 三玄の店もお父さんも元気です。

 お父さんは、相変わらず働いてません。

 あんたが、国立劇場で、文楽の勉強しよるのは、広島新聞に出てました。

 新聞見た新しいお客さんも増えて、店は大繁盛してます。

 さらに、増えた原因がもう一つあります。

 それは、あんたの予言。

 札幌オリンピック開会式の時、ジャンプで日本が金銀銅独占するというたやろ。

 あれ、店の客にお父さんが云うたんよ。

 うちの息子が、こんな事云うてるて。

 常連さんからは、

「予言者じゃ」と云うてまた、噂が広まってます。

 夏休みには必ず広島に帰って来て下さい

 帰るのが無理なら、8月6日は必ず広島におってよ」

 

 8月6日。

 この当時で、戦後27年。

 日本は、奇跡の復興を僅か20年あまりで遂げた。

 しかし、原爆の死者の数は、毎年増え続けていた。

 三郎は、原爆手帳を持っていた。

 でも正樹には、何も話さない。

 きっと話したくない程の経験をしたのだろう。


 朝ご飯は麹町の「バレンタイン」でモーニング取るようになった。

 この店を教えてくれたのは上条だった。

 この日は、上条と一緒だった。

 店の入り口にあるピンクの公衆電話が鳴った。

 ウエイトレスが電話を取った。

「ちょっとお待ち下さい」

 静かに上条に近づいて

「お電話です」と告げて立ち去る。

 上条は立ち上がり電話口へ行く。

 すぐに戻って来た。

「何なんですか?今の電話?」

「呼び出しだよ」

「呼び出し?」

「やった事ないの」

「ないです」

 上条は説明してくれた。

 駅とかで待ち合わせすると都合が出来たり、遅れたりすると連絡が出来ない。

 そのために、毎朝決まった時間にこの店にいるそうだ。

 常連なので、ウエイトレスはすぐに取りついてくれた。

 今の電話は、妹からだった。

「常連じゃないと、いちいち店内呼び出し放送かけられて、うっとおしいしいし、他のお客さんにも迷惑だしなあ」

「そう云う事だったのかあ」

「きみも早く常連になって、呼び出し放送されなくなるといいよね」

「そうかあ、思い出した!」

「思い出した?何を」

「いや別に」

「きみは、どこか違うよね」

「どこがですか」

「何だか違うよねえ」

 上条は、まじまじと見つめた。

「本当に17歳なの」

「正確にはまだ16歳です」

「何か違うよね」

「そうですか」

 恐らく真実を云っても信じて貰えまい。

 正直、授業は退屈極まりなかった。

 もう50年のキャリア持っている正樹だからだ。

 大学出てから、小学校一年からの授業をやり直す感覚だった。

 でも2022年の未来から来たなんて云えない。

 云っても誰も信用しないからだ。

 唯一気掛りは、スマホの電池残量がどんどん減って行く事だった。

 昭和47年なので電話、ネットは使えなくても他の機能は使える。

 電卓、写真、動画、アルバム機能、万歩計、カレンダー、時間など。でも電池減るので使わない。

 残量ゼロの日がどんどん近づく。

 電源を切っていても減る。

 何だかゼロになり、スマホが使えなくなるともう永遠に2022年には戻れなくなる。

 そんな気がしてならない。

 どうして充電器持っていなかったか。悔やまれる。

 しかし、押し入れの中だから仕方ないか。

 麻紀はどうしているのだろうか。

 きっと突然いなくなって大騒ぎしているだろう。

 何度もこのスマホに連絡してるだろう。

 しかし、圏外て云うか、技術が追い付いてないから届かない。

 そして自分の声も届かないのだ。

 照子の葉書を読むと必ず、麻紀の事を思い出す。

 この昭和47年。9歳年下だから今は8歳だ。

 京都に行けば、8歳、小学2年生の麻紀に会える。

 麻紀は、生粋の京都生まれだ。

 京都の街はそんなに変わってないからすぐにわかる。

 しかし、それは犯罪だなと思った。

 例え会えたとしても8歳の女の子だから、当然自分が誰かわからない。

「45年後に会える結婚相手だ」

 と云ったら、確実に警察通報されるだろう。

 じっと前を向き、身体は動かさずに頭の中は、講師の話とは別の事をあれこれ巡らす。

 授業開始で、正樹以外の生徒が悪戦苦闘していたのが、正座で90分授業を受ける事だった。

 ものの30分も過ぎると、他の者の身体が左右に大きく揺れ出す。

 足の痺れが来るのだ。

 固い板の間で、毛氈も敷いていないので余計足に響く。

 韓国では、正座は罪人を意味するくらいなのだ。

 正樹の方は、50年もじっと正座で耐える事に慣れて来てるので、90分なんて別に何ともなかった。

 25歳で歌舞伎の世界に転向してからは、2時間くらいずっと正座で過ごす稽古もあったし、芝居もあった。

 また生意気な若手の歌舞伎役者中林萬雀(中林屋)に楽屋に呼ばれて、これも2時間ねちねちと説教を正座で聞く事もある。

 今、目の前で講師を務めているのは、義太夫三味線の矢澤竹之輔である。

 2年後、この師匠に弟子入りする事になる。

(師匠はこの時69歳かあ)

 久し振りに生きてる師匠に対面して、正樹は懐かしさで一杯だった。

(でもすぐに死んでしまうんだよなあ)

 竹之輔は、道頓堀朝日座公演の最中に倒れて亡くなる。

 享年72歳。

 (2022年)からすると若死にだけど、当時の平均寿命なのだ。

 さらにじっと見つめていた。

「坊屋正樹くん」

「はい」

「きみ、さっきからじっと私の顔見てるけど何か質問でもあるんか」

「師匠、身体を大切にして下さいよ」

 思わず云ってしまった。

 教室がどっと揺れるほど笑いの大波が起きた。

 上条は、握り拳で床をドンドン叩きながら笑う。

 仙仁に至ってはのけ反って笑い過ぎてひっくり返っていた。

 それを見た他の連中の笑いの津波が教室を覆う。

 笑いの波が収まるまで竹之輔は黙っていた。

 目で静かな間が出来たのを確認した。

「けったいな奴やな」

 ぼそっとつぶやく。

 これでまた笑いのしぶきが復活した。

 さすがは、文楽三味線の権威者。

「間」の取り方の上手さに感心した。

 ともすれば、普通笑いが起きてる時にすぐに云い返してしまう。

 しかしそれだと、自分の声が笑いでかき消されてしまうのだ。

「すんません」

「謝らなくてええ。それはおおきに」

 竹之輔は怒らずに答えた。

「この義太夫三味線を元に戻しなさい」

 ふみ机には棹が三つに分かれて、三本の糸も外れたものがあった。

 正樹が物事に耽っている間に、義太夫三味線は解体されていた。

「わかりました」

 正樹はそう云うと手慣れた手つきで、元に戻す。

 京都の浄瑠璃町家ライブで月に一回ライブをやっている。

 新しい参加者がいると、必ず義太夫三味線の解体ショーを自らやっているのだ。

 僅か、一分で元に戻した。

「坊屋くんは、どこで習ったの」

「はい、毎月一回、浄瑠璃京町家のライブショーでやってます」

「京町家?ライブショー?」

「あっしまった」

「やってるって」

「いえすみません。やってません」

 竹之輔の疑惑の目つきは、冷たく光っていた。


 午後5時。

 帰ろうと国立劇場を出ようとした。

「坊屋正樹くん」

 頭取の原田が追いかけて来た。

 原田は、文楽研修所の事務方の仕事をしていた。

 携帯電話がなかったこの時代。

 親御さんから緊急の電話がかかる事もあった。

 手紙が届く事もある。

 そんな雑用を一手に引き受けていた。

「ちょっと来てくれるかな」

「何か用ですか」

「大御所お二人がお待ちかねなんです」

 応接間に入る。

 梅太夫と矢澤竹之輔がいた。

「ここ座ってくれるか」

 正樹は座った。

 また怒られると思い、身体が固くなる。

「君が云うてる、その未来に文楽は残ってるんか」

 梅太夫がいきなり直球を投げて来た。

「あのう、梅太夫さんは、僕の未来予測を否定してましたよね」

「予測と違うやろ。事実なんやろ」

 梅太夫は、にやっと笑みを顔に浮かべた。

「信じてもらえるんですか」

「ああ、さっきから竹之輔さんと話してたんや」

 竹之輔は義太夫三味線の解体からの戻しのテクニックを見て、とても17歳の仕業でないと感じたらしいのだ。

「わしは、信じるでえ。わしは何歳まで生きるんや」

 竹之輔は、笑みを浮かべて尋ねた。

(あと3年あまり。大阪道頓堀朝日座公演中に亡くなります)

 なんてとても云えない。

 竹之輔は、東京の南青山に住んでいる。

 死に目に立ち会ったのは、妻ではなく正樹一人だった。

「90歳まで長生きします」

 正樹は嘘をついた。

 とても事実は云えない。

「文楽は滅びません。でも歌舞伎の方が人気出ます」

「まあ近松門左衛門の時代から、文楽と歌舞伎は車の両輪みたいなもんで、二つが争うて来たからな」

「朝日座は残るんか」

「いえ、なくなります」

「そしたら、大阪で文楽はどこでやるんや」

 気色ばんだ声を梅太夫は上げた。

「大阪日本橋です」

「日本橋?そんな劇場建てるような空き地あったんかいな」

「小学校の跡地に建てます。建築設計は黒川紀章です。黒川は若尾文子と結婚します」

「嘘つけ!」

 思わず梅太夫は叫んだ。

 黒川紀章と若尾文子が結婚するのは、昭和58年(1983年)

 共に再婚同士の結婚で、当時世間をあっと云わせた。

 今、正樹がいる世界は昭和47年。

 正樹はまた近未来予言した。

「いいえ本当です」

「若尾文子も黒川紀章も共に再婚同士です」

「細かい予言情報ありがとさん。それで大阪の文楽劇場はいつ出来るんや」

 竹之輔は冷静に話を戻した。

「昭和59年です」

「あと、12年もあとかいなあ」

「お互い、その年まで生きましょう」

(いえ、竹之輔師匠は見れません)

 腹の中で叫んだ。

 正樹は泣き出した。

「何泣いてるんや」

「ほんまけったいな奴や」

 梅太夫と竹之輔は顔を見合わせていた。

(歴史を変えてはいけないのか)

 しかし、事故、事件で命を落とすのは変えられても、竹之輔のように病気では、救えないのかもしれない。

 でも変えたかった。

 もっと長く竹之輔師匠の元で文楽の城にいたかったのだ。

 慟哭の嗚咽が正樹の身体を、こころの中を突き抜けた。

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