西暦1941年

第42話「グロッグ作戦 ①」

 1940年の10月に行われたジャッジメント作戦が大きく海軍戦略に響いてきているのだろう、とヴィクスは戦艦『エジンコート』の艦橋に座し、思った。

 イラストリアス級装甲空母『イラストリアス』が空爆される前、地中海艦隊が行ったジャッジメント作戦―――タラント軍港空襲は、英国海軍にとって若干の余裕を生み出すことができた。ただでさえ、フランスの失陥によって英国は単独で大西洋・北海・地中海、インド洋など、地球の半分以上の海域を英連邦という枠組みで維持しなければならなかった。

 第一次世界大戦前の大建艦競争時代には、ドイツ帝国との戦いにおいて全海域を保持することが難しいことから、あのフランスとさえ手を結んで守ってきたシーレーンである。そのための余剰艦艇は、喉から手が出るほどほしいものだ。特に、代えのきかない戦艦となればなおのこと。


「砲術長、任せる」

『アイマム。義務を果たします』

「よろしい。頼む」


 まだ陽も上がらぬ地中海の海原を、英国海軍H部隊の艦艇が粛々と進んでいく。

 旗艦である空母『アークロイヤル』を中心として、巡洋戦艦『レナウン』戦艦『マラーヤ』及び『エジンコート』軽巡洋艦『シェフィールド』が隊列を組んでいる。

 すでに空母『アークロイヤル』は海軍航空隊のソードフィッシュ雷撃機を発艦させ、イタリアの沿岸部を爆撃させており、二つの別艦隊がそれぞれ合流地点へ向かっているはずだ。

 

 1941年2月6日、戦艦『エジンコート』はグロッグ作戦―――ジェノヴァ軍港砲撃に参戦していた。



―――



 薄暗い艦橋の中で無駄口を挟むものはいなかった。

 まだ戦争が始まってから1年も経過していないというのに、英国本土では日用品の配給制度が始まり、空爆も行われ、ロンドンを含む各都市が損害を蒙っている。

 大西洋を中心として各海域ではUボートの脅威が跋扈し、輸送船たちは海原の下で舌なめずりする灰色の狼たちに脅え、駆逐艦を主とした護衛艦も損失と無関係とは言えなくなっている。

 荒れた海原を航行中、士官が艦橋に向かう途中で波に攫われ行方不明になることも珍しいことではなかった。戦死よりも、行方不明者の方が多いこともあった。

 顔つきが大分変わったな、とヴィクスは一人、心の中で呟く。

 開戦前は酷い有様で双眼鏡を手に持っているというのに欠伸をしている者や、制服のポケットにポーカーの掛け金を突っ込んだままの者、スキットルを隠し持っている者など様々だった。士官から末端の水兵に至るまで、徴兵担当士官の能力を疑うような者たちが見受けられたのが臣民海軍というものだった。

 隠居同然でポストに居ついている英国海軍からの将官などは、ヴィンセント中将や一部少数の者たちを除いて、それらの問題を無視し続けてきた。補助という名目から給料も正規兵よりやや低く、待遇は改善されず、それでもその他手当て金は同等であったからまだ良かったが、反乱未遂の数は数えるだけで億劫になる。


 それが、海軍になった。


 ようやく、自分のやってきた事の成果が見られるのかもしれない、とヴィクスは感慨深く思いながら、艦首より先を見つめた。

 暗闇の帳を引き裂くかのように、戦艦『エジンコート』の艦首が海原を掻き分け、煙突から煙を噴き上げながら、その巨体を滑らせていく。

 このような巨体であったとしても夜の闇はその姿を十分隠してくれている。少なくとも、相手がレーダーなどを持っていない限りは。


「タラントに続き……、ジェノヴァ軍港を押さえれば、制海権は確保したも同然でしょう」


 一等航海士のリチャード・スヴェンソンが、海図のイタリア半島の付け根、ジェノヴァを示しながら、ヴィクスに言った。

 齢四十五歳にして、若かりし頃はノルウェーの船乗りであったスヴェンソンの言葉は、ジブラルタルで補充された新入りたちに向けられたもののようだ。士官不足を補うため、戦艦『エジンコート』に乗り込んでいた士官候補生たちはほとんどが少尉として任官して転属していた。代わりに入ってきたのが、また新たな士官候補生というわけだった。

 補助海軍としての臣民海軍の役割は、増産中のコルベットやスループのために士官育成をする場という面も帯びつつあり、戦艦『エジンコート』もその場に選ばれていた。

 自分の艦がようやく血の巡った手足のように動かせるようになったというのに、横槍を貰ったようで癪な話ではあったものの、それもまた軍隊というやつなのだ。

 スヴェンソンの言葉に、ヴィクスは口元を緩めながら静かに答える。


「そうだ。タラントに続きジェノヴァまでが我々の攻撃圏内だと誇示できれば、彼らはナポリに引き篭もる他ない」


 先の大戦でイタリア含む連合国が、オーストリア=ハンガリー二重帝国の海軍に行った封鎖と変わりない。海峡という門の向こう側に相手を閉じ込め、もし門から這い出てくるようなことがあれば、空軍と海軍をもってして迎撃し出血を強いる。

 メッシーナ海峡であればマルタ島から飛び立つ偵察機の航続距離で事足り、またメッシーナ海峡で待ち伏せできずとも、イオニア海にイタリア艦隊が出撃したという情報さえあれば、あとはジブラルタルのH部隊とアレクサンドリアの地中海艦隊でどうとでもなるという計算だ。このため、なんとしてでもマルタ島失陥だけは避けねばならなかったが、逆を言えば、マルタ島さえユニオン・ジャックの庇護下にあれば、地中海は英国が制したと言っても良い。

 唯一、ドイツ空軍の急降下爆撃や精強なメッサーシュミット、そしてフランス海軍の主力を未だに残しているヴィシー・フランス軍など懸念はありはすれ、対イタリア戦争における経過は順調と言える。


「これでイタリア海軍は封じ込める。だが、我々の相手はイタリアだけではない」

「イエス・マム。ですが、とりあえずこれで、目の前の敵には対処できますな」

「そういうことだな、スヴェンソン大尉。敵は少ないに越したことはない」


 苦笑しながらヴィクスが言えば、スヴェンソンもまた苦笑を浮かべて仕事に戻る。

 太陽のない海原を航海するのは昔から危険と決まっているし、それは船体が木製から各種鋼鉄に変わった現代でも同じだ。陸上よりも荒々しく留まることなく動き続ける海は、それでいてなんの特徴もない広大な砂漠のようなものだ。それがいくら内海であれ、波が穏やかであれ、一番身近な裏切り者に厳重に注意して損することはない。 

 特に帆船であれば風もそうだが、戦艦『エジンコート』の機関は制限がかけられているような有様であり、今やリヴェンジ級戦艦と同等の21ノットが精々だった。まるで自分の身体と同じようじゃないか、とヴィクスは苦笑したまま思った。いつまで永らえることが出来るか、ずっと頭の隅にその考えがちらついている。寒さで関節が軋み、まるで乾ききった木材のような己の身体の脆さに失望することはなくなりはしたが、体力は戻るどころか減りつつある。

 今までがおかしかったとは、軍医長のアガサ・ナオミ大尉の言葉だ。よくもその身体で四六時中艦橋に張り付いていられるな、という意味であることは明白だった。ヴィクスとしては行く先々で違う男が出迎えている彼女の方にいくつか言ってやりたいことがあったが、それを言ったところで体の不調が治るわけでもない。

 アガサ・ナオミ大尉は巡洋艦『ヴィンディクティヴ』に乗艦中、1927年の南京事件に遭遇したことがあり、それ以後もどういうわけか彼女が言うには"退屈しない"艦に乗り込む羽目になっていた。一種の疫病神、あるいは死神扱いされているきらいはあるが、腕前と性格はヴィクスが気に入っているところである。

 これが規律にうるさい軍医長であれば、任務中に蒸留酒の差し入れなどしてはくれないだろう。


「………これで、本国の負担が減れば良いのだがな」


 椅子に座りなおしながら、ヴィクスは呟く。

 幸いと言うべきか、その呟きと同時に艦首から派手に飛沫があがったため、誰もその呟きに気付いた者はいなかった。まるで剣の切っ先が薄い布を引き裂くように海原を進んでいたのに、気紛れな波もあったものだと誰かが毒づく。

 誰もこれからイタリアの港を砲撃しに行くのだと、勇ましく言う事はなかった。

 そんなことは分かりきっている。我々は国王陛下の政府により、第一海軍卿により、正式な命令を受け行動している。港が完全に軍の拠点というわけではないことも、我々は知っている。その意味を、よく知っている。

 この暗闇がすべてを覆い隠してはくれまいか、とヴィクスは思わざるを得なかった。そうすれば何者もこの未明に起きたことなど忘れ去り、そこで誰が死んだのかなども覚えず、誰がそれを為したのかも記憶しない。

 酷いものだと、彼女自身分かっている。あれだけ歴史と経験を語っておきながら、今更、人類の暗部たる部分に足を踏み入れるのを躊躇するのか。

 

 戦争は続く。

 戦争が続く限り、もっと人は死に、そこに軍人や民間人の区別はない。

 自分も、軍人ではない夫も、死という甘く冷たい霧に包まれる資格を持っている。


 ならば、認めるしかあるまい。

 人殺しを。国家の為の人殺しを。正義と信ずるところの、人殺しを。

 人は欺瞞以上に、人殺しという行為を正当化することなど出来はしないのだ。

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