第40話「長い暗闇への備え」

 戦艦『エジンコート』は、疾患を抱えた心臓で血脈を巡らせ、さらに幾つかの輸送船団護衛に関わった。英国本土や連邦諸国、それらを通じてジブラルタルやスエズ、地中海を通してエジプト領やマルタへ物資を送るのである。

 これらの作戦にはもちろん、イタリア海軍の潜水艦などの脅威やイタリア空軍の脅威もありはしたが、彼女は戦艦として健気に無力な輸送船たちをより小さく、献身的で儚い駆逐艦たちと共によく守り抜いていた。

 季節は、秋となる。 

 地中海での艦隊の運用は、ある意味、大洋よりも遥かに難しい。

 なぜ狭く凪いだ海で艦隊を運用することが難しいのか、と世の中の半数はそう思うだろう。

 しかし、地政学的に地中海を、そしてその地中海にぽつぽつと浮かんだ島々と、海峡を鑑みれば、その意味が自ずと理解できよう。地図上で単に眺めただけでは、その島々や海峡の意味合いなど分からないが、そこに軍事的、政治的意味を加味して観察し、考察することができるのであれば、地中海の入り口ジブラルタルと、出口に当たるスエズ、そして黒海への関門であるボスポラスの重要性が、そしてマルタやシチリア、コルシカやサルデーニャ、クレタやキプロスといった島々の重要性が、分かってくるであろう。

  これらはただ単に海軍戦略、ひいては海運の優劣だけを示しているのではない。沈めることの出来ない敵の拠点が、無視することの出来ない位置に存在するという、この地形を作り出した神を呪いたくなるようなことを意味している。軍事上最悪、かつ厄介であり、ここに航空戦力を展開するための飛行場や軍港、機雷源などなどといった障害を加味していくと、神への殺意が段々と増して信仰心が危うくなってくる。

 故に、英国が制した大海よりも、この風呂桶のような地中海での艦隊の運用は、難しいのである。下手に動けば一撃を喰らい、動かなければこちらの拠点が消耗し、という、絶妙なバランスが必要なのだ。

 しかし、これは敵であるイタリア海軍も同じ条件下で戦っているのだから、文句を言うべきではないのだろう。 

 現在、イタリア及びヴィシー・フランス海軍は、地中海より外へは通れない。

 ジブラルタル及びスエズが英国の庇護下にある以上、敵対的な艦船は何であろうと例外なく外海へ出ることなどできはしない。これは戦略上、この上なく上出来であった。貿易ルートを陸路のみに制限され、敵は戦略資源の備蓄に上限を設けられたに等しい。

 マリア・ヴィクスは、このことに関しては大変気を良くしていた。

 ジブラルタルとスエズさえ安寧であれば、英国は地中海での戦いに勝利することが出来る。

 少なくとも、長期的に見さえすればそれは間違いではないのだ。


 そう、この戦争がかつての大戦争のように、長く続き疲弊しつくした先に、英国は勝つことは分かりきっている。

 問題は、その長く厳しく、重すぎる日々に英国が耐えうるか否かであった。英国はその食料供給を含むあらゆる面を海運によって支えられ、そして発展し、覇権を握ってきた国家だ。

 しかし、今や航路に絶対の安全などはなく、ドイツ海軍の魔の手が民間商船にすら及ぶ。今年の初めにはバター、ベーコン、砂糖が配給制になり、三月には肉がそれに加わっていた。ダンケルクの後には、生活必需品以外の生産がすべてカットされ、茶とマーガリンも配給制の物品の列に並んだ。

 もはやそこに、英国の栄光を見ることは困難を伴うようになっていた。

 だがしかし、英国はウィンストン・チャーチルを中心として、この総力戦に挑まんとしている。今までもそうしてきたように、静かに強かに、断固たる意思を持って、これに当たらんとしている。

 まさに臣民の意思により、英国は今や決定的に戦時下にあるのだ。

 戦艦『エジンコート』はその末端、指先であり、心臓を脈動させるための血の一滴、あるいは臓器の一つの一部位にすぎない。

 マリア・ヴィクスも、そしてその忠実な部下である士官たちもそのことをよく理解していた。

  そもそもが、ヴィクスが自らに課している義務というものは、そうであったのだから、それを訝しむことはない。かつてネルソン提督が戦列艦『ヴィクトリー』に掲げたように、ヴィクスはその生き方、あるいは生き様で語っていた。義務を果たす、そのことの難しさについてもまた、彼、あるいは彼女らは知っている。

 一見、とても平穏でなんの危険もない輸送船団護衛に何度もつきながら、戦艦『エジンコート』には問題が発生しなくなっていた。問題だらけであった水兵たちは下士官たちによく統率され、下士官たちもまた士官たちといがみ合うことは殆どなくなっていた。

 穏やかな地中海を航行しながら、彼と彼女たちはついに思い描いていた戦争と、現実の戦争との違いに気付き、順応していたのだ。

 今や戦争は美辞麗句で語られるものではなく、普遍的で突発的で理不尽なものとして映っている。忌々しいこの戦争という隣人と、もう何年も付き合うことになるのだ。ならばと、多くの者はその付き合い方を習得したのだ。

 この時、欧州は英国で保たれ、未来は決して明るくはなかったが、しかし、未来へ向けての心構えは皆、整っていた。

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