第35話「暗雲を仰ぎ見る」

 メルセルケビール軍港に来客が現れた。

 来客は駆逐艦『フォックスハウンド』である。

 彼女は港の入り口付近に停泊すると、一人の使者を送り出した。


 空母『アーク・ロイヤル』の艦長、セドリック・ホランド大佐はフランス語を話せるだけでなく、パリのイギリス大使館付武官として長く勤務したことのある五十歳の男であり、交渉に最適であるとして送られたのである。この人選に関しては誰もが納得しえるものであった。彼はフランス語が堪能で、フランスにも多くの友人がいたのだ。

 3日0800時に副官の手からジャンスール中将へと手渡された、イギリス海軍の要求は以下の通りである。



『我々は貴君の戦友たち、ならびにその艦艇がドイツに組することを容認できない。

 我々は最後まで戦い続ける。

 我々は共通の利害を前にしていること。

 我々の共通の敵がドイツであること。

 フランスは同盟国であることを、忘れてはいない。

 我々の勝利の暁には、我々は偉大なフランスとその国土を回復させることを厳粛に言明する。

 この目的のため、我々はフランス海軍の優れた艦艇が我々に対し、共通の敵によって使われていないということを確認しなければならない。

 こうした状況において、国王陛下の政府は私に、メルセルケビール及びオランのフランス艦隊に要求するよう命じられた。

 我々はフランス艦隊が、次の案のうち一つによって行動することを要求する。


(a). 我々と行動を共にし、ドイツに勝利するまで戦い続ける。

(b). 艦艇を我々の港に回航する。乗員はできるだけ早く送還する。


 これらの選択肢のいずれかが採用された場合、我々は終戦後にフランスに貴君らの艦艇を復帰させ、戦時に艦艇が損害を負った場合は補填金を支払う。


(c). ドイツに対する休戦条約を侵害することに抵抗があるのならば、西インド諸島――例えばマルティニーク――へ向かい、非武装化できるのであればアメリカへ向かい、戦争終結まで安全にそのままの状態でいることが我々にとって望ましい。乗組員は本国に送還されるであろう。


 もし貴君がこれらの公正な申し出を断るのであれば、六時間以内に貴君のすべての艦艇を自沈させること。

 最後に、上記の選択肢いずれにも従わないのであれば、我々は武力を行使し、貴君の艦艇がドイツの手に渡ることを阻止する。

 

 H部隊司令官ジェームズ・サマヴィル』



 これらの要求は現実的なものとして一部士官、将校たちは受け入れていたが、それとは別に一部の将校たちはこの要求を提示する前提条件を考慮し、あまり現実的ではないという思いを抱いていた。

 フランスとドイツが休戦条約を結んでいることは皆が知っている。なれば、初めの二つの選択肢は自ずと消滅する。いまだにフランス本土に残存している艦艇を考えれば、ここで襲撃部隊第一艦隊が英国に組したとしても、本土に駐留している艦艇がドイツに接収されかねない。

 三番目の選択肢にしても、海軍本部に連絡がおぼつかない現状では第三国へ回航し武装解除するなどということはできるわけがない。独断専行として軍法会議に叩き込まれ、国家の財産を私的に運用し失った罪を払わされるに違いないのだ。

 では英国海軍と矛先を交えるかといえば、それを避けたいのはフランス海軍とて同じことである。なにしろ英仏海軍は利害を共通する同盟国の軍隊として、行動を共にしたこともあるし、そもそもメルセルケビールの襲撃部隊第一艦隊だけでどうにかなるような相手ではない。

  停泊している高速戦艦『ダンケルク』及び『ストラトブール』は、前部甲板に主砲を集中配置する特異な設計で、背負い式に四連装砲塔を二基備えた新鋭戦艦だが、今はその艦首を港側に向けており、交戦となれば副砲で応戦するしかない。現状で戦闘になれば完敗は必至である。 さらにいえば、フランス艦隊は狭い軍港に停泊しており、H部隊はフランス艦隊よりも大口径の十五インチ砲を装備しており、投射火力もフランス艦隊を上回っている。このような状態で戦端が開かれれば、フランス艦隊は狭い湾内で集中攻撃を受け、なす術なく撃滅されるだろう。

 一時間後、フランス海軍はホランド大佐に次のように返答した。

 状況が状況であるため必然的に、フランス海軍の返答は不明確なものとなった。



『我々はフランス艦艇がドイツならびにイタリアの手に渡る事がないことを保障する。―――我々フランス海軍は不当なる武力の行使に対しては、武力を持って反撃する用意がある』



 これに対してH部隊は苦虫を噛み潰したような思いをした。連合国の管理下に艦隊を置きはしないが敵にもならないという約束は、現在の情勢下では到底信ずることなどできない不明瞭な返答だった。

 彼らは英国海軍である。戦艦『エジンコート』を巡るトルコとの軋轢は、英国が事前に脅威を排除しようとしたために起った。敵であるドイツに友好的、あるいはそれに組するような兆候があるのであれば、それは仮想的に敵である。

 明確な返答を得られなかったH部隊は、空母『アーク・ロイヤル』からソードフィッシュ雷撃機を発艦させ、これに護衛のスクア急降下爆撃機をつけ、湾口に磁気機雷を撒布し始めた。これに対してフランスは航空基地から出撃したカーチス・ホーク75が迎撃に当たり、一機のスクアが撃墜され海に墜落。搭乗員二名は脱出できずに戦死した。ここにメルセルケビールを巡る戦いで、最初の戦死者が出たのである。

 しかし、交渉はそれでもさらに続いた。回答か砲火かとH部隊が問えば、三十分後にフランスは回答を選んだ。そのため、ホランド大佐が再び交渉の席に向かったものの、進展はない。進展がない中でサマヴィル中将は、短い電報を受け取った。



『問題を早急に決着させよ』



 それは他でもない、英国首相ウィンストン・チャーチルの言葉だった。交渉の後、再び最後通牒を発したサマヴィル中将は、1733時にホランド大佐を旗艦『ダンケルク』より帰還させた。もう彼らにかける言葉はない。

 しかしながら、フランス艦隊は心の奥底で、まだなんとかなるであろうと考えていたのだろうか。英国がここでこの襲撃部隊第一艦隊を殲滅したとしても、彼らがなにも得ることはないと考えていたのか、はたまた、同盟国であるフランスに対して砲火を開くことなど理知的ではないと考えていたのかは分からない。


 が、彼らが失念していたことだけは確かである。

 英国は国を害する要因、その悉くを敵として扱う。

 無論、メルセルケビールに停泊しているフランス艦隊も、その敵として含まれているのだ。


――――


 マリア・ヴィクスは艦橋の艦長席で幾分か軽くなった身体にハムのサンドイッチと珈琲を流し込み、昼食を終えた。

 その表情は平静そのもので、いつものヴィクスであり、いつもの艦長であるように見えるが、それはヴィクスの努力の賜物である。内心、彼女は交渉が上手くいかずにいることに心を痛めていたし、どのように部下たちにかつての友軍を撃てと伝えるべきかと心底悩んでいた。飲み込んだサンドイッチと珈琲を、そのまま吐き出してしまいそうなほど、彼女は追い詰められていたのである。

 今はいない提督がいるならば、このような立場に置かれることもなかったかと思ってしまう自分が恨めしい。ヴィクスはポットからカップに珈琲を注ぎ、それをゆっくりと飲みながら思案する。

 

 ボラン少佐から高速戦艦『ダンケルク』とその二番艦『ストラスブール』の脅威については耳にしていた。

 ダンケルク級の主砲は、『一九三一年式・五十二口径・三十三センチ砲』が総計八門。

 英国海軍の主流である十五インチよりも小振りだが、威力は侮れない。ドイツのように小口径砲弾を高初速で叩き込み貫通力を稼ぐやり方ではなく、砲弾を重量化し初速を犠牲に威力を稼ぐやり方でもなく、フランス人たちは小口径でありながら重量弾を採用し、それを強装薬によって撃ち出すという、中道を取った。


 これが最大速力おおよそ三十ノット、速力十ノットで一万海里以上の航続距離を誇る戦艦に備わっている。射程は四万メートルを越し、二万メートルでは三四〇ミリ以上の装甲を食い破る。英国海軍の新型戦艦である『ネルソン』でさえ食い破られかねない威力である。


 その威力が誇張ではないかと思う者もいるが、しかし、考えてみれば分かることだ。

 フランスはこれまで数多くの名作と呼ぶに相応しい大砲を数多く生み出してきている。あげれば文字通りきりがなく、それこそさすがは砲術士官であったナポレオンを皇帝に抱いた国であると頷きたくもなるというものだ。小口径から大口径までその火砲は常にフランス軍の最前線にあり、先の大戦などはたかだか七五ミリの野砲が、かのドイツ帝国軍の巨砲ディッケ・ベルタを打ち破った。もちろん、それには伝統と誇りあるフランス砲兵の骨肉によって果たされた偉業である。彼らと彼女以外に巨砲を制することなどできなかったのだから。


 砲術家であるボラン少佐は羨ましそうな声音だったなと、ヴィクスは艦橋の外を見ながら思った。

 戦艦『エジンコート』の主砲は、旧い。この13.5インチ砲の利点と言えば、海軍の在庫にざっと50門の替えの砲身があるくらいだ。その貫徹力は海軍の余剰弾薬でなく、新しく生産されたものならばもう少しましになるかもしれないが、それでも最新型には見劣りすることに変わりはない。


 彼女は正直に羨ましかったのだろうとヴィクスは察した。

 クイーン・エリザベス級やリヴェンジ級の装備している『十五インチ・マークI』などは、名実ともに傑作といっても過言ではない。しかしそれでも最大仰角三十度で射程距離が三万メートルである。ダンケルク級の砲の優秀さが際立つというものだ。


 けれども、だからといって今更どうとなるわけではない。

 交渉は決裂したも同然で、空母『アーク・ロイヤル』では未帰艦機が出た。ブラックバーン・スクアが一機撃墜され、搭乗員二名は戦死したものとされている。落下傘が確認されていない上に、機体は海面に激突し四散していたそうだ。

 

 憂鬱な思いが首をもたげ、ヴィクスは自分がそれに覆われそうになるのをなんとか防ぐ。

 自分たちの本当の仕事はこれからなのだ。戦艦『エジンコート』と乗員たちが本来の役目を果たすべき時は、これから始まるのだ。

 その時、乗員たちは間違いなく完璧に動いてくれるだろうかとヴィクスは思ったが、自分自身でそれを杞憂だと一蹴する。乗員たちはもう反抗期から脱したとヴィクスは思っていた。一部にはまだそのような者たちもいるだろうが、実戦を経験した者たちの大多数は、すべきこととすべきではないことの分別はついている。己の役目といった、身の丈も心得始めているだろう。


「ローレンス少佐」

「はい、艦長?」


 カップを片手にヴィクスが呼べば、シルヴィア・ローレンスは振り返る。 

 彼女のような人材がいなければいいと思っていた時期があったが、今やシルヴィア・ローレンスはヴィクスの信頼に、そしてあのボラン少佐の親愛なる友人として認められた稀有な人物になっていた。


「聞くところによると、ジブラルタルのサルを見に行ったとか?」

「は? あ、はい、艦長。砲術長と確認しにいっておりました」

「少佐、一応確認するのだが、そこにサルはいたのだな?」


 きょとん、とした表情でシルヴィア少佐は少し考え、そして言った。


「はい、艦長。サルは悠々自適に欠伸をして寛いでおりました」


 誰がそこまで詳細に説明しろと言ったと思いながらも、ヴィクスは艦橋要員たちが不思議そうな顔をしているのを承知で続ける。


「そうか。ならば我が英国海軍がジブラルタルを失陥することはないな」


 口元に笑みを浮かべながらヴィクスがいえば、要員たちはボラン少佐が似たような台詞を気難しそうな顔で深刻そうな口調で言っていたのを思い出し、各々がくすくすと笑うか笑うのを堪えて肩を震わせ始める。

 重苦しくなりそうな空気を緩和する出汁に使ってしまったが、あのボラン少佐の前でこのことを堂々と言い出せる人間などここにはいないだろうと思いながら、ヴィクスは珈琲をもう一杯注いで飲んだ。


 総員戦闘配置の命令とベルが鳴り響いたのは、それからもう暫くしてからのことであった。

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