空回り

 両腕が悲鳴を上げるくらいの重量を持ったレジ袋を二つ持ち、息を荒らしながら美空は部屋に戻って来た。変装用のマスクと眼鏡を外して、一先ず今日の夕飯の支度をしていくのだった。

 その日、事前の連絡通り誠二は帰ってくることはなかった。


 思えば、この人で一人で夜を明かすことは初めてだった。


 僅かな時間だが、いつだって美空が寝る時には誠二の寝息が聞こえてきたものだったが、それがない夜はいつにもまして物静かで、美空は中々寝付けないのだった。


 翌朝、いつもの時間に美空は目が覚めた。

 見送るべき誠二もいないのだから、こんな早朝に目覚める必要はないのに。体が覚えてしまったのか、目が覚めてしまった。


 いつも通り部屋の掃除をし、一通り終わったら昼ご飯。

 そして、そこからはいつものヨガをしばらく嗜んだ。そして日が暮れた頃、誠二の深夜の帰還へと向けて、夕飯の支度を開始したのだった。


「よしっ」


 美空は意気込んでいた。

 全ては誠二が少しでもこの部屋を憩いの場と思ってくれたら、というそんな理由で。


 手際よく、美空は料理を進めた。

 彼女が料理を嗜むようになったのは、彼女が小学校高学年になった頃からだった。家庭の事情で、彼女が食べていくには自分で料理をするしかない、とそんな状況に陥ったのがそもそもの発端だった。


 料理の時間は、美空は嫌いではなかった。

 レシピに書かれた通り、食材を刻んだり、煮込んだり、炒めたり。そういう動作は余計な頭を使わなくて良いから、何も考えたく時に打ってつけだった。

 

 しかし、今日は何も考えず料理をしない、というわけにはいかなかった。


 誠二を……あの、休業日のように微笑ませるのに、何も考えずにそれを成し得られるはずもなかったから。


 美空は事前に、今晩振舞う手料理を紙に羅列し、それらを仕込みの時間まで考えて作成順を定めていた。そして、ある程度各料理を何時までに作るかも決めていた。

 長年料理をしていたから、美空は予定通りに料理を作れる自信はあった。


 しかし、いざ実際に作業を始めると予定通りには全く進まないのだった。


 元々の予定が、ある程度希望的観測に基づいた甘い見積だったことが一つの要因。そして、その予定通りに作成しようと慌てて、ミスを生み、作り直しとかに時間を要したのが、もう一つの要因だった。


 美空は慌てていた。

 誠二の帰宅時間は、深夜帯ではあるものの結構流動的だ。終わり仕舞いで帰ってくるから、たまに終わるのが早いと日を跨いですぐに帰ってくることもある。

 まして、誠二は昨日から一徹しているわけで、もしかしたら日を跨ぐ前に今日は帰ってくるかもしれない。

 そう思うと、残り時間が少ないかもしれない、と彼女は焦ったのだ。


 焦りは、物事を悪い方向へと運んでいく原因だった。


 結局美空は、元々の十五品手料理を誠二に振舞う、という予定から、十品振舞う、にまで予定を変更した。

 料理数を減らした結果、準備は予定より前倒しに終わらせることが出来た。


 もう一品追加しようと思ったが、そろそろ誠二がいつ帰ってくるかも読めない。

 調理現場を誠二に目撃されることは、なんとなく避けたかった。余計な心配を生みそうだったからだ。


 事前に洗い物は済ませて、キッチン周りの整理を終わらせて、美空は誠二の帰還を待つことにした。

 この頃には美空は、一徹しているのだし、誠二は今日の内に帰ってくるだろう、と考えるに至っているのだった。




 しかし誠二は、今日の内に部屋に帰ってくることは、結局なかった。




 テレビを見ながら、美空は誠二の帰還を待った。

 深夜番組が始まり、終わり。

 そうして、気付けばどの民放局でもテレビ通販が流れるような時間へとなっていた。


 深夜三時。


 ガチャリ、と部屋の扉の鍵が回された。


「おかえり」


 誠二だった。

 いつもより、更に遅い帰還だった。


「遅かったね」


「うん」


 いつにもまして平坦な、覇気のない声だった。

 どうやら誠二の疲労は、ピークを既に超えているようだった。ただ、そうなっても何らおかしくないと美空は思った。


 そんな疲労困憊な誠二の、少しでも助けになれたら。


「ご飯、すぐに温め直すから待ってて」


 そう思って美空は、冷蔵庫の中に溜め込んでいた手料理をレンジで温め直そうと思ったのだった。




「ごめん。お腹空いてないや」




 いつもより遅い時間。

 いつもよりも長時間の労働。


 誠二が最後に食事をしたのは、一昨日帰宅した時の夕飯。

 しかし、疲労が溜まった体は誠二の食欲を奪っていたのだった。


 誠二は今、ただ泥のように眠りたかった。




「……うん」




 机を端に避けて、誠二は布団を敷いていた。

 美空はそんな誠二を、ただ見ていることしか出来なかった。


 着替えもしないまま、布団に潜り込み、眠りに付いた。




 今、美空が出来る誠二への手伝いは、部屋の明かりを消してあげることだけだった。暗い部屋で、彼を寝かせてあげることだけだった。




 しかし、暗黒だった空は、まもなく明るくなり始めようとしていた。

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