第10話 脱獄事件だよ、新妻くん

 昼休みをいっぱいまで使って片付けを済ませた。意外ととろろは洗い物が大変になる。手のかゆみも我慢できないわけじゃないけど、少し気になる。調子に乗って手間をかけ過ぎた。


 教室に戻っているとちょうど予鈴の時間になりそうだ。校舎から遠く離れた校庭の隅にある生徒会館は、歩いて向かうとちょっとした散歩くらいの距離になってしまう。毎回ことあるごとにここに来るのは面倒なんだけど、しかたないかな。


 自分の教室に入ると、ちょうど五分前の予鈴が鳴った。生徒は全員がしっかりと席についていた。少しずつ脱落者が出ていると言っても根は真面目な人間が多いのだ。予鈴が鳴れば席に着くのは当然のことなんだけど。


「おかしいな」


 違和感に気がつく。うちのクラスにはその真面目さから遠くかけ離れた生徒が三人もいるはずなのだ。予鈴どころか本鈴が鳴っても先生の足音が聞こえるまで決して黙りも座りもしないはずの生徒が。


 それなのに今はその目立つ三人の声が聞こえない。しんとして、まるで入学したばかりの頃に時間が巻き戻ったみたいだった。


「中山さんたちは戻ってないの?」


「さぁ。昼休みに球技会がどうとか言って出ていったけど、でもいつもギリギリまで戻ってこないから遅刻なんじゃないか」


 入り口に一番近い席の生徒に聞く。でも返ってきた答えは曖昧なものだった。答えた彼の机の上には問題集とノートが開かれている。うつむいていたんじゃあの目立つ中山さんたちもどこにいるのかなんてわからない。


 本鈴が鳴り、教室の誰もがきっちりと席につく。いつもは本鈴の音と同時に入ってくる担当教師が今日はなかなかやってこない。それでも誰一人として無駄口を叩くことなく、手元の教科書に目を落としていた。


 中山さんたちが帰ってくる気配もない。

 まぁあんな人たちだけど、居眠りはしていても今まで授業をサボったことはないはずだ。そしてなかなかやってこない教師。どちらかと言えばこっちの方が事件性がある。


「何かあったのかな?」


 授業開始の予定時間からはもう三分が経っている。一分一秒を惜しんで授業中に教科書のページを進めていく天稜高校の授業ではその数分だって命とりだ。


「事件でもあったんじゃないか?」

「どんな事件があるって言うんだよ」

「えっと、殺人事件とか?」


 いくら勉強以外に興味がない生徒が大半といっても、少しずつ緩んできている雰囲気に、授業中にサボっているという特殊な環境が生みだす高揚感。それに誘われて、無駄話が教室の中に生まれ始める。


 それにしたってそんなことが起きていたらこんなに穏やかじゃないはずだ。

 この学校で起こる事件なんて、せいぜい教室に会長がやってきて僕を引っ張って教室を連れ出すくらいのものだ。


 周囲に聞き耳を立てていた体を前に戻し、まだやってこない教師を待ちながら、教科書を開く。ややピッチの早い足音がして、ようやく教師がやってきたことがわかる。乱暴に開く扉の音を聞いて顔を上げると、美しい銀色の髪の先から汗の雫が太陽の光を受けて輝きながら飛ぶのが見えた。


「新妻くん、ちょっと来て」


 会長が僕の顔を見据えて叫んだ。表情から焦りの色が読み取れる。他の生徒たちは約一か月ぶりに教室に入ってきた会長の姿を見て色めきだっている。僕以外の誰も会長の心の中は読み取れていないようだった。


「わかりました。まずは生徒会館に」

「助かるわ。あなたのお友達にも関わることだから」

「友達?」


 会長にそう言われてもその顔は一向に浮かんでこなかった。僕に友達なんていない。そんなものは無駄なものだとずっと教えられてきたから。放課後に誰かと遊びに行ったことも休み時間に他愛のない話をすることもなかった。


 これまでの人生で家以外に僕が行ける場所は学校と塾だけだった。その塾さえも移動している時間が無駄になると家庭教師が来るようになり、家と学校の往復以外に外に出ることはなくなった。


 勉強以外何もないと言われたこの高校に入ってからもそんな生活が続くと思っていたのに、むしろこうして勉強しない時間が増えるなんて思ってもみなかった。その原因は間違いなくこの首にかかったチョーカーと前を急ぐ姫路会長のおかげだった。


「ん。おかげ? 会長のせいで勉強できなくなってるのに」


 なんで感謝なんてしているんだろう。きっと僕の成績は今この瞬間も崖から落ちるよりも早く転落しているだろう。放課後は下校時間ギリギリまで生徒会。お昼は会長のご飯の準備。朝と夜の勉強時間もときどき生徒会の残作業で潰されることもある。一日の自習時間が三時間もとれない日だってあるっていうのに。


 生徒会館に着くと、会長は周囲を見回して、慎重に入り口の扉を閉めて鍵をかける。僕らしか入ることを許されていないこの学校の敷地内で唯一の治外法権。普段も扉を閉めることはあっても鍵をかけるのは夜だけだ。それなのに鍵を閉めるなんて。


「教師はこっちには来ないと思うけど、念のためね」

「何があったんですか?」


 生徒会室への階段を上りながら聞いてみる。会長は僕を見下ろすように振り返り、溜息交じりに目を伏せた。


「脱獄よ」

「脱獄? ってここ学校なんですけど」


 天稜高校が刑務所に例えられることは知ってるけど、逃げ出したら脱獄扱いなんて僕らはさしずめ犯罪者ってわけだ。


「でもその代償は冗談じゃないわ。脱獄者は停学。反省の色が見られないなら最悪退学もあり得るかもしれない」


「退学!?」


「勉強すべきときに勉強をしない生徒はこの学校にはいらないから。脱落者だって授業だけはきちんと出るでしょう。それがこの学校を卒業するための最低限の中の最低限なのよ」


 それすらもできないで転校していく生徒も少なくない。それでも天稜高校からの転校なら行き先なんていくらでもある。その手続きさえも我慢できない生徒がとる最終手段が脱獄なのだ。ここまで聞けば、僕だってこれからの話もわかってくる。


「中山さんたちですか」


「えぇ。新妻くんのクラスの女の子が三人、校門から堂々と出ていったみたいなの」


「うちの学校の生徒とは思えない無策ぶりですね」


 校庭を囲む塀は高く、上には返しがついていて簡単には乗り越えられないようになっている。出入り口になる校門は当然普通だけど、もちろん監視カメラがついている。ちょっと頭が回るならそんなところから出ようなんて考えないと思うのに。


 まだ入学して一ヶ月も経っていないのにさよならか。今朝から少し当たりが優しくなったと思っていたのに、なんでこんな無茶をしたんだろう。


「それで、僕はなんでここに?」


「新妻くんだってクラスメイトがいなくなるのは嫌でしょう? 教師より先に私たちで彼女を見つけるの。自発的に帰ってきたなら少しは情状酌量じょうじょうしゃくりょうも認められるから」


「最悪の事態は避けられる、ってことですか」


 とはいえ、昼休みのうちに出ていったとなれば、探すのは簡単じゃない。電車で移動されていたら捜索範囲は相当広くなる。その分教師も簡単には見つけられないだろうけど放課後にでもなったりしたらもう自発的に戻ってきたとは言えなくなる。


 せめて次の授業には出るくらいじゃないと言い訳が立たない。そう考えると残り時間は多くない。せいぜい三十分。それまでに見つけられなかったらおそらくゲームオーバーだ。


 生徒会室に着くと、会長は自分の机にまっすぐ向かう。ごそごそと探り出した何かを持って、すぐに僕の方へとやってきた。


「私も生徒が行きそうな場所を探してみるわ。それからこれを渡すから裏門から出てね」


 そう言って、会長は少し重い鉄製の鍵を僕の手のひらに乗せた。そしてその上に女の子向けの白いブラウスと薄いオレンジのジャンパースカートが乗せられた。


「あの、これは?」


「天稜高校の制服でこんな時間に出歩けないでしょう。私のお下がりだから少し大きいかもしれないけど、それなら多少サイズはごまかせると思うから」


「いや、これスカート」

「じゃあメイド服を着ていく?」


 なんでその二択しかないんだ。とはいえ寮に戻っている時間もないし、戻ったところで寮の部屋にはへたれた部屋着とパジャマしか持ってきていない。これを着るしか道はない。


「いつも通り着替えには会議室を使って。私は一階の寝室を使うから絶対に覗いちゃいけないから」


「そんなことしませんよ」


「えぇ。一階の奥の方の寝室だから。私は結構着替えるのに手間取るかもしれないけど絶対に覗いちゃいけないからね」


 会長はもう一度念を押して、生徒会室を出ていった。そんなに強く言うなんて、僕は信頼されていないんだろうか。もう一度受け取った服に視線を落とす。僕の羞恥心と中山さんたちの退学。天秤にかけると意外と釣り合いがとれそうな気がしてくる。


「まぁ、そういうわけにもいかないか」


 会長に遅れて、僕も生徒会室を出て会議室に向かう。彼女たちはどこに行ったのか。それを考えながら、制服のボタンに手をかけた。

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