第8話 聖なる屍と線香の灰

 一糸まとわぬ娑馗しゃき聖者しょうじゃの詠唱が、祝詞から和讃わさんのリズムへ変調する。長く延びるうなりは、伴奏がなくとも声だけで麗々しい。

 声は洞窟の高い天井に反響し、深い音色となって腹の底から揺さぶった。


八重やゑ雲路くもじを吹き分けて、豫母津よもつ神々かみがみ霊魂たま鎮め。けがれの霊魂たま祓ひなば、霊魂たまさやかに渡海流わたながる。天地あめつち清く霊魂たまきよら、新霊魂あらたま鎮めたはらごと


 こぽりと、地底湖の中でなにかがうごめく。

 直感的に、道眞どうまはその音こそがきざしであると悟った。


「人の霊魂みたま幽世かくりよに、産土神うぶすながみ許状ゆるしち。豫母都よもつくに伊往いゆきませ、これや幽世かくりよの掟なる。迷はず流れ御魂おんたまよ、幽冥かくりよ大神おおかみ御許おんもとに。神の御教みおしへ導きで、光のみちにお救ひを。あなたふとしや幽冥かくりよ大神おおかみ豫母津よもつ神々かみがみ御殪ころしを観世音かんぞん弥釈羅みしゃくら菩薩ぼさつ


 生出おいずるの首が湖面から垂直に浮かび、ぴたり、こちらと目が合う。

 びきびきと、道眞は自分の体内に深い亀裂が入っていくショックで身じろぎ一つできない。貝殻の口をこじ開けるような、冷たくおぞましい割れ目。

 これが〝戦慄〟と呼ばれるものだろう、と痛感する。


家族うから親族やから友輩ともがらも、唱えまつらう蘇我ぞが土重はにえ新実にひざね祓ひ清めます、豫母津よもつ祝詞のりと布刀祝詞ふとのりと直路なほみちめぐ新霊魂あらみたまんだ花がご神慮の、導き救ひませ」


 ごぽりと、さらに大きく泡立つ音がして、赤い水の柱が生首を持ち上げた。

 頭部に対して血の柱の細さは、花と茎の関係に似ている。実際、それは生出の身長ほどの高さに達すると放射状に枝分かれし、くるくると花びらのように広がった。

 真っ赤な六弁の花が輪状りんじょうにいくつも開き、その外側に向かって六本の脚が伸びる。蜘蛛を思わせるその形状は、花ならばおしべに当たる部分だろう。

 その独特のシルエットは見間違えようもない。


(彼岸花、か……?)


 死体特有の、力ない表情筋がくっと目覚めるのが分かった。


幽冥かくりよの大神おおかみ御殪ころしを観世音かんぞん弥釈羅みしゃくら菩薩ぼさつ神餌かみえ給えと願い奉る。憐れみ給え、恵み給え。此岸しがんでも彼岸ひがんでもなく我岸ががんせよと。天地たかはにしきの実身さねみとなりて」

「……こ、ぁー、ぅ、ぅーぁー……」


 血の花に座した生出の頭が口を開く。こぉこぉと、上手く息が出来ていないようだ。横隔膜おうかくまくも肺も繋がっていないのに、そんなバカなと笑いたくなってくる。


「んくいくは、あや」


 息を整えた生出は、なんとも穏やかな落ち着いた微笑みで口をきく。休日の午後に、喫茶店でおしゃべりでもするように。だが椅子に座る体はない。

 それに、呂律が回っていないというか、きれいに裏返ったようなしゃべり方だ。


「?ろたきでとんゃち、したわ、てみ」


 ばしゃりと水を蹴立てて、生出の体が起き上がった。

 やせぎすの、どこにでもいるような中年男性の体から、衣服と頭部を剥ぎ取るだけで奇怪なオブジェと化すものだ。人と言うより、新種のキノコか何かみたいだった。


 物足りないてっぺんを求めて、生出の体は首枷をまたぐ――つまり、漆黒の鳥居をくぐる。神域の出入り口たるそれを通過して、生出は血の花に手を伸ばした。

 彼岸花に座す自身の頭を取って、ぽきりと茎から手折たおる。


「……よだぐすうも、やか、ほずみ」


 生出はわさわさと花弁に包まれた首を、体の切り口にくっつけた。鮮やかな血の花びらは、元いた血管に戻るようにしゅるりと吸いこまれる。

 折られた血の茎はぱしゃりと崩れると、真紅の花冠になって湖面へ広がった。彼岸花、死人花シビトバナ地獄花ジゴクバナ幽霊花ユウレイバナ捨子花ステゴバナ毒花ドクバナ悲願花ヒガンバナ曼珠沙華マンジュシャゲ、花、花、花。

 冷たい炎のように燃えさかる色は、ここに聖なるものがおわすぞと荘厳な空気を放つ。疑いようのない霊験れいげんが、まさに開花した。


「見よ! 聖痕しょうこんである!」


 生出の隣に立った娑馗聖者が高らかに宣言し、信者たちが歓喜する。どよめきが洞全体を揺らし、雷鳴のように割れんばかりの拍手喝采。

 拉致監禁されてから受けた仕打ちの数々は、あくまで人間業の範疇はんちゅうで説明がつく。だが今起きていることは、まったく別次元の怪奇現象だ。だから。


「うつくしい」


 我知らず、道眞はそう漏らしていた。

 熱い涙が滂沱ぼうだとあふれる。ふぅーっ、と腹の中から赤い酒のかぐわしさが立ち上ぼり、脳をゆらゆらと震わせた。自分は、真実を、目にした。


――  どん


 道眞は葬儀屋として、年間数百件のご遺体を見てきている。目を疑うような光景だが、それは作り物ではない。まがい物ではない。真実、真理、神の恩寵なのだ。

 さすがに直接殺される場面を目にしたのは初めてだが、生出は間違いなく死に、その遺体が動き出した。正しい手順を踏めば、人はよみがえる!


――     どん、どん


 人の死というものは、そもそもが人間にとって手に余るものなのだ。だから神や仏の力にすがって、その悲しみと死者を彼岸へと渡してもらう。

 だが、もっと力のある神ならば? 彼らがそれを知っているならば? 人類はこれまで、「正しく死んで」これなかったのではないか?


――         どん、どん、どん!


 死んだ娘に会いたいという生出の願いも、父に一言謝りたいという道眞の願いも、きっとここでなら叶えられるだろう。いまだ知らぬ百舌鳥もずの願いだって。


「こんな素晴らしい死があるのですか。これが娑輪しゃりん馗廻きえというものですか」


 しゃりん、と錫杖の音が優しく鳴る。語りかける娑馗聖者の声は、聖母のようだ。否、白く輝くその裸身は、女神とも菩薩とも呼べる。


「その通りである、羽咋道眞郎男いらつおのみこと。これぞ我らが授かる大悟なりや」

「はははっ。はははははは!」


 、と心臓を後ろから叩かれるような鈍痛を無視して、道眞は笑った。自分の裏側に、分厚く見えない壁があって、その向こうにもう一人の自分がいる。

 だが黙っていろ。黙っていろ。黙っていろ。

 自分は死の真実を知ったのだ。


「葬儀屋の息子として、ご遺体に関わり続けて二十年。こんなに美しく、尊い弔いは初めてです。ああ、ようやく分かりました。これこそ人の真なる幸福。まさしく神の恩寵。僕はなんと幸せなのでしょう、あはっ、ははっ、はははははははは!」


 どん、どん、と心臓の鈍痛が続く。黙れ、黙れ、黙れ。


「よだった、さくいくん~。ほゃく、うぇかまにおろうねぇ」


 生出はまだ呂律がおぼつかないが、自分を祝福してくれる気持ちは充分に伝わってくる。道眞は白木の台上で居住まいを正し、深々と土下座した。

 信者たちが歓迎するようにどよめき、娑馗聖者が笑う。


天晴あわれ! 天晴れ! 天晴れ! あな面白し、あな手伸たのし、あな清明さやけおけ! 佳き佳き、さあ其の方もこちらへ参られよ!」


 頭を上げ、台を降りて岬に立つと、道眞は世界が輝いて見えた。


 それも当然だろう。死者を送る側である葬儀屋だが、いつかは自分も送られる側になる。当然の事実と受け止めてきた理が、今宵一変するのだ。


 五感の膜が一枚剥けて、色調はより明るく、湖水はみずみずしく、血の鉄臭ささえ活き活きと華やぎ、肌に当たる涼やかな空気に豊かな気持ちになる。


「さんだはながごしんりょ、あわれみたまえ、めぐみたまえ、ころしをかんぞん」


 合掌し、道眞は着物の帯に手をかけた。やり方は既に生出が手本を見せてくれたから、何の不安もない。もうすぐ、自分もあちら側へ逝くのだ。


「とうさん……」


 父に会えたら真っ先になんと言おう? いや、その前に姉もこちらへ誘ってあげなくてはならない。眞澄は付き合っている女性がいたから、きっとその人も呼びたがるだろう。子供のころ病死した母にも会える。みんなでいっしょに、正しく死んで永劫不死の身の上になる。なんという光栄。なんという幸福。



『泣いて葬儀屋が務まるかっ!』


 スタッフとして実家で働き出したばかりのころ、思わず葬儀中に涙ぐんだ道眞を、父はそれまで見たことがない剣幕で叱りつけた。

 上司と部下であろうとも、父は怒る時は「今から怒るよ」と前置きをする人だった。だがこの時は、二人きりになるなり、即座に怒鳴られたのだ。


『お前は自分が感動するために葬儀をするのか?』

『そんなわけない!』


 なんてことを言うんだと思った。小さいころから手伝ってきた家業を、道眞がそんな風に思ったことは一度だってない。だが。


『でも、お前は今、涙ぐんだんだろう? 可哀想だって』


 父の言葉は図星だった。


『悲しいとか、素晴らしいとか、感動しただとか、そんな簡単に言葉にできる程度の感情を仕事に持ちこむな。感動なんていらないんだよ、道眞。ご遺族さまが一番納得できる形で、故人さまを送り出すお手伝いをするのが私たち葬儀屋だ。そこを横から、分かったような顔で盗んで、ちっぽけな感動や涙にまとめるんじゃない!』



……遠くで歓声が聞こえる。

 娑馗聖者が、それに従う信者たちが、生出が、みんなで道眞を待っているのだ。早く逝かなければと思いながら、着物を脱ぐ手が動かない。


『他人の尊厳を、お前の感動のために消費しちゃいけないよ、道眞。私たち葬儀屋の仕事は、人間に残された最後の尊厳のために、働くことなんだから』


 そう言い聞かせた父の顔を、道眞はよく覚えていた。ちょうど十年前のことだ、自分はまだ若く浅はかで、早く成熟した人間になりたいと思っていた。

 父こそ、道眞が目指すあるべき人物像であり、尊敬する人だった。その思いが記憶の連想を引き起こし、線香の匂いが鼻へと抜けていく。


「線香の、灰……」


 軽くてちっぽけな、燃え尽きた線香の灰。少しの息でも吹き散らされ、跡形もなく消えてしまうように思えても、供え続けていれば跡が残る。重みが出てくる。

 塵も積もれば、山となるのだ。毎日でも線香を上げ続けていれば、いつか積もり積もったそのかさに、自分がどれほど故人を思っていたかを知るだろう。

 そういう気づきを、心の整理がつくと言うのだ。


 生きていれば髪が抜け、垢が出て、ゴミが出る。塵芥を積むのが生というもの。そして塵芥の大きさと重みに意味を見出すのが、人間なのだ。


(だから僕は、ずっと、父さんを供養し続けるって決めたじゃないか)


――びきりと、見えない硝子の壁に入ったひびから、破片がこぼれ落ちた。

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