幕間 硝子の中に置き去って

 何度弟にLEANリーンを送っても既読がつかない。定休日だとはいえ、マメな道眞どうまにしては珍しいと思っている内に、一晩が明けてしまった。

 羽咋葬儀社専務・羽咋はくい眞澄ますみ。四代続いた家業を弟が継いで五年になるが、こんなことは初めてだ。小さな小さな羽虫の群れが入りこんだように、胸がざわざわする。

 身内を心配するのは人として当然の感情だが、後になって振り返れば、眞澄自身はっきりと予感があったのだろう。


 忘れもしない七月二十八日。


 眞澄は休日明けの夜勤シフトで、昼前に恋人の妃紗子きさこ宅から自宅へ帰ってきた。明治のころから構えられた日本家屋は、姉と弟の二人暮らしには広すぎる。

 三十にして弟と実家暮らしはどうかと思われる向きもあろうが、家の一部が社屋なのだから、結局これが楽なのだ。そのうち妃紗子と同棲する予定だが……。


 廊下の固定電話が鳴ったのは、夕方だ。令和の時代にまだ生きている黒電話は、|羽咋家の古めかしい内装とよく調和していた。

 いくらこの家に似合っていても、電話というものの図々しさだけはどうしようもない、と眞澄は思う。いつも一方的に人を呼びつけて、こちらの都合はおかまいなし。

 それでいて、知らせはほとんど無視できるものではない。


「はい、もしもし?」

『やあ、姉さん。連絡もなくてごめん、道眞だよ』


 聞き慣れた柔和な口調に、眞澄は反射的に苛立ちを覚えた。中庭からの風にちりんと鳴る風鈴を、自分の声でかき消してしまう。


「道眞!? あんたねえ、仮にもうちの社長なんやさかい、無事なら無事ってはよう言うたらええのに! ……何があったん?」


 弟は真面目なたちで、代々続いた家業に熱心だ。その延長で宗教学や民俗学に手を出していたりするが、無断欠勤も遅刻も外泊もしたことがない。

 うーん、と考えこむ声が受話器の向こうから聞こえる。少しの間があった。


『ごめん、ごめんよ、姉さん。僕はもう、そっちには帰れないんだ』

「どないなこと?」


 よく知ったはずの弟の声が、ふわっと腹の底に冷たく流れこんだ。肺が持ち上がるような心地で息を吐きながら、眞澄はこの嫌な感じに覚えがあった。

 父の遺体があると案内された、霊安室の前に立った時の気分だ。


「なあ、道眞。ちゃんと説明して」

『姉さんになんて説明するか、色々考えたんだ。外国に行くやらなんやら、そんな言い訳をいくつも。けど、やっぱりダメだった。だから正直に言うよ』


 眞澄は足元の床が波打つような感覚に震えた。どうして、こんな何でもない電話で、自分はこんなに動揺しているのだろう?


(何でもあらへん電話? ちゃう! 真面目なあいつが一日二日、行方不明になって。こんなん、今までいっぺんだってなかった。絶対に普通ちゃう!)


 いいや、きっとすべては気の迷いだ。他愛もない理由で弟は朝帰り、ちょっと遅い反抗期かなにかに違いない。怒って、謝られて、後始末をしてそれで終わり。


『ごめんよ、姉さん』


 聞きたくない早く知りたい


――お願いだから、帰ると言って。


 早く知りたい聞きたくない


『僕は死んでしまったから、もう帰れないんだ』

「アホ言わんといてや!! なにそれ!?」


 だったら今自分が話している相手は何なのだ。幽霊か? 羽咋家の一人として、葬儀社の専務として、眞澄も様々な怪談話は聞いてきた。自分で体験したことはない。

 でも、これはシンプルに馬鹿げている。


「あんたさ、勝手に行方不明になって、その挙げ句にそないな冗談聞かせるなんて、ええ加減にし! 株主総会で退任迫るわ!?」


 温かな内臓が、生命の温度を持つ臓器が、ふつふつと怒りを煮えたぎらせた。そんなものは嘘だ、幽霊なんて嘘っぱちだ、自分は生きている、弟も生きている。

 怒って、罵って、否定して、わんわん喚けば、きっとこの愚弟は、「なんてね、嘘だよ」と言って、けろっとした顔で帰ってくる。


『うん、僕の引き継ぎは、姉さんがいたら安心だ』

「待って……待ってや、道眞」

『姉さん。実は、うちの玄関に今来てるんだ。最後に顔出すよ』


 ブツッと電話が切れる音が長く長く引き延ばされて、彗星のように眞澄の後ろへと流れていった。その方角に、玄関がある。

 永遠に動けなくなるか、即座に駆け出すかの差は刹那のとき。眞澄は走った。無駄に長い廊下は今日はいやに短くて、走って角を曲がればもう到着する。


「やあ、姉さん」


 玄関に、よく見知った細長い影がたたずんでいた。目の前にいる弟は、濃萌黄こきもえぎの麻の着物に、薄萌黄うすもえぎ半幅帯はんはばおびを合わせていた。どちらも近江縮おうみちぢみだろう。

 家を出た時、道眞は矢羽根やばね文様もんようの丹後ちりめんを着ていたはずだ。「」、縁起が良いとされる吉祥文様の一種。

 

「道眞」


 一日経っているのだ、服が替わっているぐらいなんてことはない。それよりも、問題なのはそれを着ている中身の方だ。


「あんた、悪ふざけも大概にし! なにが死んだ、や」

「はは、やっぱしそう見えるか」


 道眞はふにゃっと顔の力を抜き、諦めと寂しさが半々になった微笑みを浮かべた。母が亡くなった時も、父の墓前でも、彼はよくこの笑い方をしたものだ。

 まるで硝子の中に閉じこめられて、そのまま窒息しているみたいに。弟のその透き通るような顔が、眞澄はいつも怖くて、悲しかった。


「じゃ、先に謝っとくけど、ちょっと気持ち悪いもの見せるよ」


 道眞は自分の耳を両手で塞ぐと、ぐっと上へ持ち上げる。べり、とかすかに糊か何かを剥がすような音がして、弟の頭は胴体から完全に離れた。

 あるはずのものが無くなって、人間がヒトの形から変わっていく。眞澄は仕事で、そういうご遺体を山ほど見てきた。けれど、それはあくまでご遺体だ。


 弟は立って、動いて、話して、それから自分で自分の首をもいだ。死んだのに動いている、生きていないのに死んでいない、それなら、これは何?

 弟だった死体を、まだ弟が使っている、二律背反にねじれた矛盾が脳を締めつけ。


 羽咋眞澄の意識は、そこで途切れた。



 風鈴に描かれた金魚は、硝子の中でそのまま窒息しているのではないだろうか。目を覚ました時に聞こえた風鈴の音に、ふとそんな考えがよぎった。


「……道眞!?」


 眞澄が目を覚ましたのは、布団の上だ。どうやらあの弟は、ご丁寧に自分を寝室に運んで寝かせたらしい。枕元には、コピー用紙に書きつけた手紙があった。

 内容はほとんど、羽咋葬儀社の引き継ぎに関することだ。当面の間は病気で入院したことにして、ゆくゆくは姉に取締役を継いで欲しい、と。


『死んだのなら僕の体は、そっちに置いていくのが正しいんだと思う。けれど、僕にはまだやることが出来てしまったから、それが終わったら誰かがうちに持ってきてくれるかもしれない。でも、あまり期待しないで。僕が帰ってこなくても、いつか誰かが、何が起きたか話しには来てくれるかもしれない。本当に、ごめん。』


 追伸に、『あんな物を見せて悪かった思う。けれど、どうしても姉さんには僕が死んだって納得してもらいたかったんだ。』とあった。


 すべては午睡の悪い夢ではないか。

 眞澄のそんな思いは、手紙を読み終えるころには散り散りになって消えていた。和紙が水に溶けるように、かすかな繊維だけ残して。


「……置いて行かんといて」


 けれど、彼女も分かっていたのだ。ただ認めるのが嫌だっただけ、怖いのではなくて、失いたくなかったから。父も母も弟も、家族はみんな居なくなってしまった。


「置いて行かんといて、道眞……!」


 硝子の中の金魚が、ちりりん、と風に任せて鳴く。

 その声を、嗚咽がかき消した。

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