第41話 時効寸前の逮捕 福田和子

 福田和子は1948年(昭和23年)、愛媛県松山市に生まれた。

 幼くして両親が離婚、母親に引き取られ愛媛県川之江市(現:四国中央市)に移る。

 母親は自宅で売春宿を経営していた。その後母は漁師と再婚、来島に移るが島の排他性に耐え切れず、母子で今治市に移る。

 愛媛県内の高校に入学するものの、交際中の同級生が事故死し、自暴自棄になり3年生の1学期に退学した。

 18歳の時、福田は高松市の国税局長の家に同棲していた男と一緒に強盗に入り、逮捕された経歴がある。

 福田はこの罪で松山刑務所に服役した。


 ところがこの刑務所内で、福田はある事件に巻き込まれる。

 当時松山市では暴力団の抗争が激化しており、一連の抗争で50人以上のヤクザが逮捕され、松山刑務所に服役中であった。


 ヤクザたちは看守を金で買収し、刑務所内でも自由に振る舞い、ついには看守から女子房のカギを借りて女子房に忍び込み、なんと収監されている女性受刑者たちを強姦するという事件が起きた。


 その時、女子房にいたのは3人で、その中に当時18歳だった福田和子もいた。福田は、刑務所内で強姦されるという考えられないような目にあい、この事件は後々深く心の傷として残った。


 この事件が発覚した後は、国会でも取り上げられるほどの不祥事として大問題となった。


 事件を起こしたヤクザたちの処分は当然として、買収に応じた看守たちも厳しく取り調べられた。これらの看守のうち、一人は首を吊って自殺し、一人は刑務所内のゴミ焼却場の煙突から飛び降りて自殺した。


 国家権力も自分を助けてはくれない。頼れるのは自分だけ。

 肉親も恋人も全てが敵となった福田がそう考えるのも無理からぬことではあった。



 昭和57年になると福田は松山市内のスナックで働いていた。

 このころ福田は、ローンの支払いなども含めて、月に10万ほどの支払いに追われていた。


 自分の収入だけでは足りずに、あちこちのサラ金会社から借金をするようになった。

 あまりにあちこち借金を重ねたため、そのうち自分の名前では借りられなくなり、友人知人の名前を借りて借金をするようになり、経済的にかなり追い詰められていた。


 借金の総額は200万円にもなり、毎月なんとか利息だけを返済している状態だった。


 こうした状況の中、福田は店を変わり、また新しい店にホステスとして雇ってもらうこととなった。

 昭和57年2月から4月までの、わずかに二ヶ月間しか働かなかった店であるが、この店で、後に福田に殺害されることになる安岡厚子と知り合うことになる。


 そんな折、つきあっていた彼氏が「俺、神戸に転勤することになった。」と言い出した。

 福田にとってはかなりショックなことではあった。

 なんとか転勤した後でも彼氏に時々松山市に来てもらい、これまで通りの関係を続けたかった。


 福田が住んでいる家は彼氏に面倒をみてもらった所であり、合いカギも渡してある。


「転勤になっても、いずれは必ず私に会いにこの地へ来てくれるはずだ、その時までに、彼を迎え入れる家として、今のような貧相な部屋ではなく、家具も揃えてもっと豪華な部屋にしておきたい。」


 彼氏がこの地を離れると聞いて、急に自分の部屋を彼のために作り変えたいという欲望が沸いてきた。

 しかし福田は生活するだけで精一杯であって、あれこれ買い揃えるような金はない。


 そして昭和57年8月19日、福田はある決意を抱いて店で同僚だったホステスの安岡厚子の家を訪問する。

 福田自身、厚子と一緒に働いていた店は辞めてしまっていたが、2人の関係は続いていた。


 厚子の部屋に行ったのは、金銭的な相談をすることが目的であった。

 厚子の家に上がって、2人で酒を飲みながら世間話などに花を咲かせた。


 前々から福田は、厚子が多くの金を貯めており、部屋の家具もう豪華なものを揃えているのを知っていた。


 酔いもまわってきたころである。

 もともとは金を借りるつもりだった福田に「厚子を殺して、この女の金や家具を私のものにすればいい。」という考えが突然沸いてきた。


 14時過ぎになるとソファーに座っている厚子は、酔いと眠気で半分ウトウトしており、福田は厚子の前に立つと首に帯締めをすばやく巻きつけ、力一杯絞め上げた。


 正面から首を絞められれば、普通の人間であれば激しく抵抗することも十分可能であるが、後の検死結果によれば、厚子は帯締めに少し指を置いた程度でほとんど抵抗も出来ずにそのまま絞め殺されている。


 酒のおかげでとっさの行動が出来ないような状態になっており、福田としても、厚子がそういう状況になったと確認した上で犯行に及んだのである。


 厚子の死を確認した後、福田は10万円の入った財布と通帳2冊と印鑑を奪い取った。

 死体を埋めた後、福田は今度は男友達2人に電話して厚子の部屋の荷物の運び出しを頼んだ。

何も事情を知らないこの友達たちは、20時ごろから22時ごろまで、約2時間をかけて福田のために家具や家財道具など、合計334点の品々を運び出し、福田の家に運んでやった。


 そして翌日、福田は厚子の預金通帳から現金76万円を引き出した。

 自分が降ろしたことがバレないようにと、払い戻しの申請手続きは別の女性にやってもらった。

 書類に自分の筆跡を残さないように気をつけたのである。


 殺害から5日後の昭和57年8月24日、福田は友人たちから「厚子がいなくなった件で、うちに警官が訪ねて来たよ。」という電話を2本もらった。


 厚子の行方不明の件で捜査が行われていることを知り、福田は逃亡することを決意する。

 翌日である25日の朝、厚子から奪った現金59万円を持って列車に乗り、松山市を逃げ出した。


 行く宛てのない出発だったが、結局石川県金沢市で降りた。松山駅から金沢駅までは距離にして658.5km。

 この金沢市は福田にとっては誰も知り合いがいない場所であり、まずはここを潜伏先に決めた。


 この日のうちに金沢市内のスナックに面接に行き、その店で採用されることとなった。翌日からここでホステスとして働く。名前は「小野寺忍」と名乗った。


 そしてそのわずか5日後の8月30日、整形手術を受けて顔を変えた。


 この年の11月ごろ、福田は、スナックの常連客でBさんという男性とも親しくなっていた。

 この後しばらくして福田は、Bさんから生活費をもらって金沢市内で生活するほどの仲になった。このBさんは、石川県根上町(現在は合併により能美市根上町)にある和菓子屋の経営者であった。

 Bさんと付き合い始めてしばらく経った時、Bさんは離婚してこれまでの奥さんとは別れた。

 この機を逃さず、福田はすぐにBさんと同棲を始めた。

 この後2年8ヶ月の間、福田はこの店を手伝いながらBさんと一緒に暮らすこととなる。もちろん、本名は教えていなかった。

 指名手配されていながら、かなり大胆な行動である。


 福田はお客の受けも良く、一生懸命働き、店は繁盛して、改装まで行えたほどだった。

 メジャーリーガーの松井秀喜選手はこのときの福田を覚えており、「愛想のいいおばさんだった」と語る。

 やがてBさんは、「同棲ではなく、本当の妻になって欲しい」と、福田に正式に結婚を申し込んだ。

 だが、福田はなかなかOKしない。結婚となれば当然入籍のために戸籍や本名などを教えなければならず自分の正体がバレてしまう。

 すでに一緒に住んでいながながら再三に渡るプロポーズをはぐらかし、どうしても結婚を承知しない福田に対し、Bさんも親戚も不信感を抱き始めた。

「ひょっとして彼女は結婚出来ない、何かの理由を隠しているのではないか?」

 指名手配されている福田和子の写真にどことなく似ていると親戚の人が気づいたのはそれから間もなくだった。

 親戚が警察に「あの女性を調べて欲しい」と依頼し、昭和63年2月12日、連絡を受けた捜査員たちがBさんの和菓子屋に向かった。

 この時たまたま福田は葬式の手伝いのために近所の公民館に行っており、捜査員たちが自分を探してすぐ間近にいることに気づいた。

 福田は一瞬で全てを捨てることを決断し、すぐに近くにあった自転車を盗んで逃走した。

 とりあえず友人の家で2万円借りてそのまま行方をくらませた。捜査員たちがBさんの和菓子屋に到着したのはその30分後だった。

 この時の関係者らの証言により、警察は、福田が整形手術を行っていたことを初めて知った。このことは週刊誌でも報道された。


 その後大阪・近畿・中国・北陸の各地を転々とし、キャバレーに勤めたり飲食店に勤めたり、モーテルで清掃員をしたりなど、仕事も住所も短期間で変えて決して一か所にはとどまらず、巧みに警察の捜査から逃れていった。

 さらに逃亡中に美容整形を何度か受けて顔を変え、髪型を変え、化粧を変えて次々と変身しては住所も変える。

 使った名前は、高橋和子・今井和子・高井はつ美・中田初美・・など20種類以上で、逃亡中の約15年間で、警察から公開された手配写真は22枚にものぼったという。


 当時の殺人罪の公訴時効は15年であった。

 時効成立まであと1年と迫った平成8年8月19日、愛媛県警察協会が100万円の懸賞金を提示して市民からの情報提供を求めた。


 また、翌年の平成9年7月23日には、福田の整形手術を行った美容外科が、「結果的に逃走を助けたことになり、責任を感じている。」として400万円の懸賞金を提示した。

 これらの懸賞金のことはまだ制度が始まったばかりということもあり、テレビや新聞で大きく報道された。


 一方、時効まで半年と迫った平成9年1月ごろ、福田は福井県福井市にいた。この地でホステスをしながら、時効成立の日を待っていた。

「もう、捕まるはずはない。」ほぼ確信していたという。


 このころから、一人でぶらっとJR福井駅から200メートルほど離れたおでん屋に時々立ち寄るようになっていた。このおでん屋の主人や常連客とも親しくなっていた。


「パチンコが好きなの。」よくそう言っていた。この店では、「仕事はエステサロンで、名前はレイコ」ということになっていた。


 一方、テレビでは、時効を間近に控えた福田和子の事件がワイドショーなどで取り上げられており、世間の注目を集めていた。


 ある日、ちょうど福田がそのおでん屋にいた時、自分の事件の特集番組が放送されており、画面に映し出された自分の顔を見てレイコは「私に似てる。」などと言っていた。


 時効間近となった油断か、バレるはずがないという自信からか、

「私、福田和子に似てるでしょ。この前そう言われちゃった。頭きちゃう。」

と、笑いながら、顔が似てることを会話のネタにすることもあった。


 あれほど細心の注意を払い逃亡していたのに、なかなか居場所を変えなかったのは寂しさからであった。

 逃亡生活の孤独が、彼女から身軽さと決断力を奪っていた。


 そして平成9年7月24日、このおでん屋の常連客であり、レイコと顔見知りにもなっている男性客が福井警察署に通報した。

 決め手となったのはテレビで放送された福田の肉声だった。


 福田元受刑者の電話音声:

 楽しみにしとるんでしょうが…私が捕まるのを。そんなドジはしない。切るよ、あぶないあぶない…


「福井駅近くの飲食店に出入りしている女性客が、手配中の福田和子に似ています。調べてもらえませんか?」


 男性客がいつものようにまたそのおでん屋に立ち寄っていた時、店内のテレビではたまたま福田和子の特集番組「時効まで一ヶ月」が放送されていた。

 店の主人と共にテレビを見ながら「おでこのあたりと、ぽっちゃりした感じがレイコさんに間違いない。」と、2人で確認しあった。


 3日後である27日、レイコは再びこのおでん屋にやって来た。

 だがこの日レイコが帰った後、おでん屋の主人はあらかじめ捜査員と相談の上、レイコが持ったビール瓶とグラスをさし出していたのである。

 瓶やグラスから検出された指紋を照合した結果、福田和子のものだと断定された。


 おでん屋の主人や常連客に疑われ、警察に指紋を取られていることなど知りもしない福田は、29日、またもやこのおでん屋に現れた。

 レイコにとっては今日も普段通りの生活を送るはずだったが、この日は違った。帰ろうとして店から出た瞬間、張り込んでいた捜査員たちに声をかけられ、任意同行を求められたのだ。

「ちょっと聞きたいことがある。」約15年間に渡る逃走生活が最後を迎えた瞬間だった。

 警察署に連行されたレイコは、最初は「自分の本名は『なかむらゆきこ』です。」と、人違いであることを強調していたが、ビール瓶から検出された指紋が福田和子のものと一致したという結果を伝えると

「間違いありません。」

と、観念したのか、本人であることを認めた。


 逮捕されたのは、時効まであと21日という時期だった。


 和歌山刑務所に無期懲役で服役中だった福田は、ある日刑務所内で倒れ、和歌山市内の病院に運ばれたが、平成17年3月11日、脳こうそくのため、57歳で死去した。

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