第19話 馬術師範、文華英

 蘇卑との戦を終えてから一月。

 この武定にも少し遅めの初夏が訪れ始め、民草は活気にあふれている。


 まあ、それもそうだろう。

 あれから蘇卑との交易が始まり、それぞれの民はお互いを行き来するようになったのだ。


 そのおかげで、涼の商人達も少しずつ武定に増え始め、日に日にここが豊かになっていることを実感している。特に武定の軍資金が。

 何より、蘇卑はその騎馬による機動力を活かして、はるか遠方にある西域とも繋がりを持っていたりもするので、非常に珍しい品物を手に入れたりすることもできるのだ。


 今までは、この涼との関係が友好的ではなかったこともあり、そういった交易ができなかったが、これからはどんどん交易に力を入れていかないと。


 ふふふ……これから先、いつもう一つの異民族国家である姜氏や崔と緊張状態になるかも分からないんだ。今のうちに稼ぐだけ稼いでおかないとな。


 などとほくそ笑んでいると。


「あ、あの……」


 いつの間にか月花が、不安そうな表情で俺の顔をのぞいていた。


「月花、どうしたのだ?」

「い、いえ……子孝様が、その……とても悪そうな表情をされておられたので、つい……」


 おっと、どうやら顔に出てしまっていたようだ。気をつけねば。


「はは……まあ、これからの武定の発展を考えていたら、ついつい……」


 俺はそう言って苦笑すると、月花が胸を撫で下ろした。

 とりあえず誤魔化ごまかせたようだ。


「それで、指示された書物の整理は終わりました」

「おお、すまないな」


 そう……実は、交易が盛んになったことでますます忙しくなったこともあり、月花に俺の補佐をしてもらっている。


 元々、先般のいしゆみの改良の際にも月花が優秀な人材であることは承知していたし、月花自身もこの俺を手伝ってくれると申し出てくれたので、これは渡りに船とばかりに雇い入れたのだ。


 いや、その時の黄さんの喜びようはすごかったな。ただ単に、月花の小言から逃げたかったというのもあるのだろうけど。


「さて……それじゃ俺は将軍に今月の政務の報告に行ってくるから、月花はのんびりしていていいよ」

「いえ! そういうわけにはいきません!」

「あ、そ、そう……」


 俺は鼻息荒く意気込む月花に、思わずたじろぐ。

 いや、優秀だしやる気があるのは結構なんだが、何というか、その……追い立てられているような気がして落ち着かない。

 黄さんも、月花のこういうところから解放されたかったんだろうなあ……。


「はは……じゃ、じゃあ行ってくるよ」

「行ってらっしゃいませ!」


 月花に見送られ、俺は練兵場へと向かうと。


「そこの騎馬隊! 長槍を構える歩兵部隊には側面から当たるように!」


 はは、今日も俺の・・将軍様は元気だなあ。

 だけど、今声をかけたらとばっちりを受けそうなので、それまではそんな将軍のお姿でも堪能してようかな……と思ったんだけど。


「おや? 子孝殿、遠巻きにお嬢……将軍を眺めて、どうされたのですかな?」

「ああ、漢升殿……」


 あー……どうやらそんな至福の時間も許されないようだ。そして漢升殿は、絶対に俺を揶揄からかってくるに違いない。


「いやあ……将軍は今、兵士達の訓練に熱が入っているようなので、邪魔しちゃ悪いかなあ、と」

「はっは、今ならそうでもないですぞ? あれをご覧なられよ」


 そう言って漢升殿が指し示す先を見ると。


「ほら! ちゃんと両脚で馬の腹を締めないと、振り落とされるよ!」


 ……あれは、蘇卑の姫君!?


「……ええと、どうしてあのお方がうちの兵士達に交じってるんですかね……?」

「姫君……いえ、華英様が、蘇卑からの馬術師範として派遣されたのでござるよ……」

「…………………………は?」


 い、いやいや、そんなこと俺、聞いてないのだけど!?


「ど、どうしてまた!?」

「……そのあたりは、思文殿に聞かれるがよろしかろう」


 そう言うと、漢升殿が兵士の指導に当たっていた思文殿を手招きして呼んだ。

 というか、彼も馬術師範として来たのか……。


「おお、これはこれは……挨拶が遅れ、申し訳ござりませぬ」


 やって来た姫君の部下である“かん思文”殿が、ご丁寧に拱手きょうしゅして挨拶をしたので、俺も慌てて頭を下げた。


「そ、それで、どうして姫君があちらに?」

「はあ……それが……」


 思文殿は眉根を下げながら、訥々とつとつと説明する。

 元々、馬術師範としてやって来るのは別の者だったらしいのだが、そこを姫君が、単于に馬術師範として名乗り出たらしい。

 で、単于としても姫君を後継者として育てる意味でも、それを認めたとのことだ。


「……まあ、うちの単于は姫様に大層あもうござりまして……それならばと、この私が姫様の補佐として同行することに……」


 そう言うと、思文殿は肩を落とした。


「は、はは……思文殿も、なかなか大変なご様子で……」

「ええ……もう慣れましたが……」


 ますます肩を落とす思文殿に、俺は乾いた笑みを向けることしかできない……。

 お、俺、将軍でよかったなあ……。


 その時。


「あーっ! 子孝!」

「げ」


 ……どうやら姫君に見つかってしまったようだ。


「君、どうして僕のところに挨拶に来ないのさ! せっかく馬術師範としてはるばるやって来たのに!」

「ええー……」


 いやいや、姫君が来たことを知ったの、たった今なのですが……。


「む……子孝、来ていたのか」


 すると将軍も訓練の手を止め、こちらにやって来た。

 あー……悪いことをしたなあ。


「え、ええ。俺は今月の政務の報告に来たのですが、姫君が武定へお越しだったことにたった今気づきまして……それで、ちょうどご挨拶を……」


 などと、将軍に対して言い訳めいたことを告げると。


「ああ。姫君と思文殿は、本日の朝に参られてな。聞けばお二方は馬術師範として蘇卑から派遣されたというではないか。ならばとこの練兵場にお連れして、早速騎馬隊に手ほどきをしていただいていたのだ」

「ほう……」


 将軍の言葉に軽く頷き、姫君と思文殿を交互に見やる。


「そうだよ! 僕達は最低でも来年の春まではここに留まるから、ちゃんとお世話するんだよ!」

「ひ、姫様!?」


 偉そうにふんぞり返りながら告げる姫君を、思文殿が慌ててたしなめる。

 はは……これは、これから思いやられるなあ……。


「ということで、よろしくね! 子孝!」


 そう言うと、姫君はにっ、と満面の笑顔を見せた。

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