第26話 新しい星の夢

 気が付くと鳴沢はいつか見た夢の宇宙空間を再び旅していた。規則正しく並んだ街灯は遠くでぼんやりした光を放つ惑星に変わっていた。流れ星もなく、近くにはほかの惑星も見えない。自分の軌跡を振り返ってみたが、父親だった動かない惑星も、母親の桃色の霞のような軌跡ももうどこにも見えなかった。自分の残す軌跡は以前よりも明るい青の波になっていたが、その奥にたゆたう暗い赤の光は変わらずそこにあった。しかし、それだけだった。何の星とも交わらず、どこに進んでいるのかもわからない。

 鳴沢は自分の星が進むに任せた。もう、どうなってもいいと感じた。大切にしたいと思った彼女とは仲違いばかりで終わった。仕事も失った。ぼんやりと腰掛けて、顔に当たる風を感じた。このままどこでも流れ着く先に流れていけばいいと思った。

 どれくらいそうしていたのかはわからない。ふと、なにかまとわりつくものを感じた。くすんだ桃色の煙のような、それがそのまま糸になって絡みつくようなそんな感覚だった。それがどこから来るのか見回すと、少し離れたところに女の影が見えた。長い髪で派手なドレスを着ていた。赤い唇がネオンサインのように光った。

「陽くん」と赤い唇が言った。そして鳴沢に向かって両手を広げた。

 鳴沢は女を見た。顔は暗くてよく見えなかった。

「陽くん、あたしのこと忘れちゃったの?」

 女は母親のようにも見えたが、まるっきり知らない赤の他人のようでもあった。

「おいで、さあ」

 広げた腕を更に広げるようにして女は言った。

 導かれるように鳴沢はその腕に抱かれた。その温かい胸に顔を埋めた。柔らかな乳房が鳴沢の鼻先に押し付けられた。しかし、そこにはなぜか安らぎが感じられなかった。

 二つの乳房はじわりじわりと鳴沢の呼吸を妨げた。息を継ごうと、水面に顔を出すように顎を突き出すのだが、女の両腕は力強く鳴沢の顔を自身の乳房に押し付けた。鳴沢は息ができなくなり、どうにか女を退けようとその乳房に噛み付いた。女はびくともしない。

 鳴沢は怒りが湧き上がってくるの感じ、獣のように荒々しく再び乳房に食いついた。引きちぎるつもりで顎をねじ上げた。女は叫び声をあげるでもなく、不快感に身体を撚ると鳴沢を突き放して、仰向けに倒れ込んだ。やっと鼻と口を塞いでいた肉が無くなり、鳴沢は喉の奥を大きく広げて音を立てて息を吸い込んだ。荒い息をしながら、鳴沢は女を見下ろした。女は鳴沢の足元に後ろ手をついて座り込んでおり、恨めしそうに鳴沢を見上げていた。

 女の顔は変わらず暗くぼんやりとして、目鼻をはっきりとは識別できなかったが、鳴沢にはそれが確かに母親だということがわかった。彼に父親の呪いを埋め込んだ女だと思った。そして無造作に彼を捨てていった女だと思った。憤りと悲しみが鳴沢の心を支配した。女を切り裂きたかった。それと同時に懐かしくて無性に甘えたかった。矛盾する二つの感情の間で身動きできずに鳴沢は叫んだ。

「どうして俺を置いていったんだ。お前にとって俺は連れて行くほどの価値も無い子供だったのか。

「あの男が怒鳴るので俺は泣くことも許されなかった。

「もう俺の前にはいないくせに、なぜまだ俺を苦しめる?」


「じゃあ……、どうして欲しかったの?」


 女は思いの外優しい声で尋ねた。

 ……どうして欲しかった……?

 母親が出て行った日のことは何度も思い出した。スクーリングで知り合った彼女との生活の中でも、いつかこの彼女が母親のようにふいに居なくなってしまうのではないか、という考えがいつもどこかにあった。だから、彼女が秘密を持たないように常に見張っていた。そして、彼女に責められる度に、彼女を失わないように話を聞こうと思う反面、結局はいつか彼女も自分を捨ててしまうだろうという恐れとも怒りともつかない気持ちに捕われ、物に当たった。その恐怖が根底にあるとわかっていながら、その気持をどうしていいかはわからなかった。

 今、この母親らしき女は鳴沢に尋ねる。

「どうして欲しかったの?」と。



(愛して欲しかった)



 それが鳴沢の頭に浮かんだ言葉だった。

 その途端に、鳴沢はその言葉が自分の中で破裂し、何か熱い感情が滝のように溢れだしてくるのを感じた。


(ああ、そうだ。俺は、ただ、愛して欲しかった)


 ほかに何も要らない。子供がたったひとつ欲しいこと。

 そのたったひとつが得られなかった子供の自分。

 目の前に、小さな自分が泣いているのが見えた。

 まだ手足ばかりがひょろ長くて、独りで星ばかり眺めていた自分。

 不安げに、目に涙をためて大人の鳴沢を見上げた。

 大人のままの鳴沢は、子供の自分を引き寄せ、抱きしめた。


(辛かったな)


 そう小さな自分に囁いた。

 子供の鳴沢は、大人の鳴沢にすがりついて泣いた。

 大人の鳴沢の目にも涙が浮かんでいた。

(大丈夫だ、俺はお前を裏切らない。俺は、ずっとお前の側にいる)

 そう囁きながら、同じ言葉をいつか誰かから聞いた気がした。

 その瞬間に女の声がした。


「おいで」


 女は後ろ手をついたまま言った。

 子供の鳴沢は、大人の鳴沢の胸元から顔を上げ、女の方を振り返った。


「愛してあげるから、おいで」


 その言葉に、子供の鳴沢は大人の鳴沢の腕をついと離れると、女の方へ走っていき、その胸元に飛び込んだ。そして、まるで沼にのまれるかのように、とぷんと女の身体の中へ消えた。

 鳴沢は、唖然としてその光景を眺めた。

「お前もおいで」

 女は身体を広げたまま言った。母親が子供を受け入れる姿勢ではなかった。

 鳴沢はしばらく女を見ていたが、ゆっくりと女の方へ歩いて行った。女は身体を開いたままの姿勢で片手を鳴沢の方に差し出した。鳴沢は、女の手を取った。女は、鳴沢を引き寄せた。鳴沢の上半身が折れ、大して抗いもせず女の上に覆いかぶさった。女に口づけをし、その身体に自分の身体を預けた。女の身体はぬるりと溶けて鳴沢の身体を包んだ。今度は先程のように苦しくはなかった。自分のものか、女のものかはわからない、心臓の音が耳元に聞こえ、それが不思議に鳴沢を落ち着かせた。全身が、というより、鳴沢の全存在が温かいものに包まれ、眠いような、自分自身が溶けてしまうような不思議な感覚に捕われた。


「どうして黙って出ていったんだ」

 女の身体に包まれながら、鳴沢は女に呟いた。

「怖かったの」

 女は鳴沢の髪を撫でた。

「あなたが大きくなるのが怖かった。

「どんどん男の人になって、あの人と同じになっていくのかと思うと怖かった。

 私はあなたの母親になりきれなかった」

 女の唇が鳴沢の髪にあたった。その唇がそっと囁いた。

「ごめんね」

 鳴沢は顔を上げて女を見た。今度ははっきりと自分の母親の顔になっていた。そして、彼女は尋ねた。

「お弁当、美味しかった?」

 思わず鳴沢の両目が潤んだ。言葉にできずにただこくこくと頷いた。

「良かった」

 鳴沢は母親の胸に顔を埋めた。そして母に頼んだ。

(俺を愛していると言ってくれ)

 鳴沢の思い描いた母は優しかった。


「陽くんは甘えん坊だぁ。

「お母さんは、陽くんのこと、大好きさあ。愛してるよ」


 鳴沢の脳裏に母が最後に作ってくれた弁当のことが浮かんだ。息子を置いて行く日に、どんな気持ちであの弁当を作ったのだろうかと思った。すがりつこうとする息子の手を下ろさせながら、何を感じていたのか。あの作ったような笑顔。その奥の悲しそうな目。

 その目を見たときに、鳴沢はふいに彼女の気持ちを理解した。確かに、あの手弁当は彼女なりの母親としての最後の精一杯だったのだと。たとえ自分を置いて、去る事を選んだとしても。

 そして、自分の死後を鳴沢の上司に頼んでいったのは父親のできる限り。

 自分たちのことばかりを持て余して、家族という形をつなぎとめることもできなかった人たちだったが、鳴沢を思いやる気持ちは確かにあったのだ。自分の望む通りではなかったが、それでも自分たちは家族だった。そうだ、三人でプラネタリウムに行った。あのとき両親に買ってもらった星座盤がある。あれを頼りに俺は、この宇宙をまた進んで行けるのではないか……。

 鳴沢は、自身の涙と母の身体と共に溶けていった。まとわりついていた煙のような糸も一緒に溶けていき、層を成しながら鳴沢の惑星の一部となっていった。鳴沢の意識は薄らぎながら、一枚の写真のようにひらり、ひらりと深くへ落ちていった。



 鳴沢はいつしか暖かい光に包まれていた。閉じた瞼を通して、ちらちらと木漏れ日のように光がまたたく。

「ずいぶん遠くまで来たんですね」

 ふいにそう言われて目を開けると、目前に菜々未がいた。

 鳴沢は菜々未の言葉に周りの宇宙空間を見渡した。今は遠くに太陽のような眩しい光を放つ星が見えた。その光がここまで届き、暖かみを感じるのだった。鳴沢は、自分の星の軌跡を振り返った。軌跡の波は以前よりも透き通った青になり、光を受けてきらきらと反射していた。そして、その周りの空気にあたかもピンクゴールドの色が付いていて、風に揺らめく度に光を散らしているようだった。鳴沢の波が揺れるたびにピンクゴールドの瞬きが重なって、緩やかに渦巻いていた。

 そしてその瞬きを放っているのが菜々未だった。

 菜々未を見て、鳴沢は言った。

「どうして、ここにあんたがいるんだ」

 菜々未は何も言わなかった。ただ微笑んで鳴沢をじっと見ていた。鳴沢はある考えに至ったが、口にすることを躊躇した。否定されたくなかったからだ。しかし、やがてごくりと喉を鳴らし、勇気を出して尋ねた。


「……俺の重力は……変わったのか?」


 菜々未は、途端に笑顔になった。そして言った。


「変わるときは、重力なんて考えないんですよ」


 菜々未の笑顔が光に包まれた。ちらちらと移り変わる光に鳴沢の視界は満たされた。そうして、鳴沢は目を覚ました。自分のアパートのベッドの上で、仰向けになっていた。半開きになったカーテンの間から、鳴沢の顔に朝の木漏れ日が落ちていた。


 目が覚めた鳴沢が起き上がると、夕べのジョギングスーツのままで、腰から下はベッドの脇に腰掛けたようになっていた。ジョギングから帰って来て、ベッドの上に倒れ込んだところまでは覚えている。そのまま眠ってしまったらしい。長い夢を見ていた。特に最後の菜々未との会話は鮮明だった。なぜ菜々未のことを思い出したのだろう。最後に会ったのは十年以上も前のことだというのに。

 そんなことを考えながら、鳴沢はリモコンに手を伸ばしテレビを点けた。朝はいつも時計代わりにテレビを点けっぱなしにしている。ちょうど七時のニュースが始まるところで、アナウンサーが今日の日付を告げていた。そのままぼんやり画面に見入ったが、ゆっくりと日付が頭の中に戻って来た。何かあった気がした。何の日だったか……、と考えてはっと思い当たった。

 本間精工での面接日だった。

 カレンダーを見て日付と時間を確認した。間違いない。鳴沢はジョギングスーツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びるために風呂場に飛び込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る