第22話 星の夢

 その午後、鳴沢は自室にこもっていた。基本的に自室に居るべきだったし、GPS のリストバンドが他の住人の目に晒されるのも嫌だった。しかし、スマホが使えないので、時間つぶしもできない。ホームでは Wifi が使えなかった。誰も部屋から出て来なくなってしまうからだ。仕方なく、誰も居ない時間を見計らって、共用スペースに置いてある本棚を覗きに行った。小説はすぐ眠くなってしまう。本の背を見ていくと、「宇宙を見る方法」という本があった。内容を見ると、異なる波長の電磁波を観察することで宇宙の様々な側面がわかる、というものだった。自分は担当していなかったが、工場の作業に電子機器用の電磁波シールドめっきの仕事もあったので、電磁波と聞いて、ああ、あれかと思った。それだったらわかるかも知れない、と思いその本を手に取った。本によると、レントゲンに使う X 線も、可視光線も、こたつで暖を取れる赤外線も同じ電磁波だという。普段は目には見えない可視光線以外の電磁波を視覚化することで、宇宙の異なる現象を観察できるということが書いてあった。

 夜になると、鳴沢はボストンバッグから星座図鑑を取り出した。アパートを出る時に見つけた、子供の頃に買ってもらった星座図鑑だ。どうしても置いていくことができなくて必需品と一緒に持ってきたのだった。久しぶりに星座盤を回して星を探してみた。部屋の電気を消して、畳に寝転がってガラス窓越しに空を見上げた。意外に多くの星が見えた。星を見上げながら、父親が二回だけ、近くの緑地公園まで一緒に星を見に連れて行ってくれたことを思い出した。どちらの晩もめずらしく素面だったな、と思った。そして、昨日の自分の失態を思い、父も酒への誘惑と戦ったり、飲んでしまった翌日に後悔したりしたのだろうかと考えた。


 気が付くと、鳴沢は暗闇の中を旅していた。遠くにわずかに星が瞬いているのが見える。ふいに左手が眩しくなって振り向くと、小さな惑星同士がぶつかり合って散り散りに光線が放たれたところだった。周りを見回したが、上も下もない宇宙空間にいるようだった。自分自身が惑星になっているようだが、星の一部としてぼんやりと自分の身体を意識することはできた。衝突した惑星たちは徐々に後ろに移動していき、自分が緩やかな速度で前進しているのは分かったが、前方は暗く、どこに行こうとしているのか、この先に何があるのかも分からなかった。

 不安になって背後を振り返った。後ろの方ではいろいろなことが起きていたようだった。鳴沢の惑星は、波のような軌跡を残して動いていた。波は暗く、波の両側に見える星影を吸収していくようだったが、その揺らめきの向こうにマグマのように熱を持った仄暗く赤い光がちらちらと見え隠れしていた。

 自分の来た軌跡を視線で遡っていくと、途中から銀色のパチパチとした花火のような軌跡が重なっているのが見えた。花火の軌跡を残した惑星を探した。今は離れてしまったらしい。相変わらず花火を飛ばして航行しているようだ。その惑星をじっと見てみると、風間であることがわかった。鳴沢の方には目もくれずに遠くへと進んで行く。

 鳴沢は、自分の軌跡に目を戻した。風間と重なった軌跡の先に暗く沈んだ惑星が漂っていた。その惑星は、もうどこにも向かわず、このままそこに残されていつかは消えていくように見えた。惑星には誰も見えなかったが、鳴沢には、その星が自分の父親だということがわかった。だとすれば、母親の惑星もどこかにあるのだろう。自分の軌跡を更にたどる。遠くに淡い桃色の霞のような軌跡が重なっている。桃色の霞の行く先を探したが、遠くに消えて何も見えなかった。

 今度は桃色の霞の軌跡の来たほうを辿ってみる。自分の軌跡が始まる前に、暗い星となってしまった父親の軌跡と重なっている。というより、父親の惑星の引力に桃色の霞が引き寄せられて来たように見えた。自分の軌跡も似たようなものだった。父親の惑星の重力に引かれながら、近くを素早く通り抜けた彗星のような風間の引力にも引かれて蛇行していた。鳴沢の星は今どちらの軌跡からも外れて、一人で宇宙を彷徨っている。俺はこれからどこに行くのだろう、と思った途端に頭上で声がした。

「鳴沢!」

 見上げると少し離れたところに明るく輝く惑星が移動していた。白っぽいオパールのような星で、遠くから受ける光の反射が、桃色のようにも淡い緑のようにも見えた。軌跡も明るく輝いていて眩しいくらいだった。惑星の中に中学の同級生だった音羽雛乃が立っているのが透けて見えた。彼女は中学の時の制服姿のままで鳴沢に笑いかけた。

「そんなところに居ないで、こっちに来なよ!」

「行くったって……、どうやって行けばいいんだよ」

「惑星の重力を変えるの!」

「変える? 何を?」

「重力! 前に言ったでしょう?」

「前に?」

 そもそも重力って何だ? と思ったところで、ふと雛乃の惑星の向こうに別の惑星が見えた。透き通った緑で真っ直ぐな軌跡を残している。惑星の中に真面目そうな少年が見えた。やはり中学のときの制服を来ている。誰だったか……、としばらく考えて、はっと思いついた。雛乃のボーイフレンドだった須田だ。

 ああ、やっぱりあいつらの星は俺とは違う軌道を辿るんだ。

 ぼんやりと考えていると、また頭上で声がした。雛乃を呼んでいた。

「お姉ちゃん」

 子供っぽい声に聞き覚えがあった。見上げると、雛乃の星の中にまだ幼い菜々未がいた。

 鳴沢が初めて菜々未を見たのは、鳴沢が中学校の三年生で菜々未が一年生のときだった。

 当時、鳴沢は教室の後ろ側の出入り口から二列目の最後尾の席に座っていて、雛乃はその隣の入り口のすぐ横に座っていた。

 学校では聞き慣れない呼びかけ方に鳴沢がそちらを見ると、出入り口にいかにも新入生といった少女が立っていた。まだ、制服も着慣れていなくて、大き過ぎる上着が初々しい感じを強調して可愛らしかった。

「どうしたの? 菜々ちゃん。大丈夫?」

 雛乃が自席から立ち上がって、その少女の方に走り寄った。

「あのね……、体操着忘れちゃった。貸してくれる?」

 少女は小声で恥ずかしそうに言った。その言い方に鳴沢はまじまじと少女を見た。言葉遣いは標準語だったが、イントネーションが自分の母親と同じ東尾訛りだったからだ。

「えー、いいけど……。もう着ちゃったよ、今日。汗かいて湿っぽいよ?」

 雛乃は少女を見下ろした。そう答える雛乃にもわずかに東尾の訛りが混じった。普段の雛乃には訛りは無かった。二人の家族に東尾の人間が居て、家庭では東尾訛りで話すのだろう。

「いい。大丈夫」と少女は首を振ると、「貸して?」と言って少し首をかしげて雛乃を見上げた。

「貸して?」の「か」の音が鼻濁音気味で少し伸びる感じ、「て」の語尾が余韻を残しながら上がるところが、鳴沢の母親の言い方にそっくりだった。そして、少女の首を振る様子と雛乃を見上げる仕草の中に、無防備と言えるほど手放しで姉を頼っている無邪気さが見て取れて、鳴沢はそれを危ういと感じると同時に守りたくなるような気持ちになった。

 雛乃は席に戻って、机の横のフックにかけていた体育着入れを手に取ると、少女の方へ戻った。

「はい、どうぞ。また持ってこなくていいからね。そのまま家に持って帰って」そう言って、体育着の入った袋を少女に手渡した。

 少女は「ありがとう」と言った後、「洗って返すね」と屈託なく、おかしそうに笑った。

 雛乃は「ばーか。どうせお母さんが洗うんでしょ」と笑い返した。

 少女は小さな声で「じゃね、バイバイ」と言いながら、手を振って走って行った。

 雛乃は少女を見送ると、一つ息を吐いて、自席に戻るために振り返った。そのときに、鳴沢と目が合った。

「何よ」

 雛乃が言った。

 鳴沢は一瞬戸惑って、それから言った。

「……お前の妹か」

「うん、そう。菜々未っていうの。今年一年生」

「そうか」

 鳴沢はそっぽを向いた。

「何よ」と再び雛乃が言った。

「何でもない」

 鳴沢は頭を掻きながら投げやりな様子で答えた。

 雛乃は不可解な面持ちで鳴沢を見た。


 その時の菜々未の印象が鳴沢の中に残っていたので、援交パーティーの運転手を風間に頼まれ、その参加者の中に菜々未を見つけた時の鳴沢の動揺は大きかった。だから思わず「なんであんたがこんなとこにいるんだ」と言ってしまったのだ。しかし、舞依は菜々未が自分で来ると言った、と主張した。念の為に、車に乗せる前にもう一度菜々未に来るのか聞いてみたが、やはり菜々未は自主的にパーティーに参加するようだった。

 そうか、彼女はもうあのときの無邪気な少女ではないのだ。大人になれば人は変わる。がっかりはしたが、仕方がないことだと鳴沢は思った。

 コウタの家の玄関口で皆の脱ぎ捨てた靴を一人で揃える菜々未を見た時、鳴沢は少し嬉しくて、同時に恥ずかしかった。コウタの家に屯するような自分たちとは違う、菜々未の育ちの良さを感じたからだ。だから、菜々未が本当に自分の意志でここに来たのか再び疑問に思った。上がり框に腰掛けた菜々未に近づいてみると、サンダルのボタンを外そうと必死になっていた。怖がられているのはわかったが、見過ごすわけにもいかず手を貸した。そして、鳴沢の何気ない言葉に反応して、初めての合コンなので可愛くして来たかった、とふくれる様子にあの無防備な信頼を人に預けてしまう危うさを再び見つけて、つい保護欲が刺激されてしまった。だから風間の体面よりも、彼女を救う方を優先させたのだった。そして菜々未を自宅まで送る車の中で、菜々未は自分の名前を呼んだ。

「鳴沢先輩」

 少し甘えたような口調にどきりとして再び雛乃のいる惑星を見上げると、高校生になった菜々未が雛乃の足元に座っていた。まだ中学生のままの雛乃の膝の後ろから覗き込むようにして鳴沢を見ていた。姉の雛乃より大人っぽく、なぜか夏の装いで、袖のない白のコットンレースのワンピースを着ていた。はにかんだ笑顔で両膝を立て、その膝を両腕で包み込むように座っている。スカートの裾から両脚が覗いていて、その先の素足が目に入った。血管が透けて見えるほどの白い素肌の足の甲とピンクに染まったつま先が目に入った瞬間、鳴沢は目を覚ました。

 既に朝になっていた。床に起き上がったが、心臓が早鐘のように打っていた。床の脇に置いたままになっていた星座図鑑が目に入った。頭を振って、両手で顔を拭った。




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