File:1-3_逃避少女とおりゃんせ=Spirited Away/


「っ!?」

 人を好まず、吐き気がするほどの好青年に加え明らか不審という危険信号ダブルパンチ。そして何よりも、私の名前を知っていることが決定打となった。

「ちょっと話に付き合ってくれねぇか。あぁ、俺は――」 

「ひぃんっ」とこれ以上ないくらい情けない細い音が喉奥から発したと同時、とうとうその場から走って逃げる。


「あっ、ちょっ! おい待てって!」

「おい」って言った。絶対陽キャだ。それ越えてパリピだあいつ!

 しかもあの口から私の名前を口にしていたのも恐怖でしかない。鳴園奏宴って確かに言っていた。どうして知っている。これまで認識した人間を思い返しても誰一人該当しないし完全に他人だろあいつ。えっ、裏垢身バレした? いやそれとも――。


 とにかく必死に走った。人混みにぶつかることなくかき分け、子どもの遊ぶ公園を走り抜ける。

 腓腹筋ひふくきん前脛骨筋ぜんけいこつきんをはじめ、脚部に疲労カリウムイオンが溜まっていく。カルシウムが蓄積されたリン酸と結合する実感があるのはおそらく世界中で私だけだろうと大脳皮質の隅っこで考えていた。

 私は硬派だ。根暗の陰キャだ。あんなネックレス添えのワックスマシマシV系バチコリクソパリピに色気出してホイホイついていけばどんな目に遭うか。

 それ以前に、出す色気もないけど。


「ぜぇ……はぁ……えふっ、げほっ……お゛ぇ」

 女性レディらしからぬ息切れをするが、吸っては吐く空気の急流に喉がむず痒くなり、喘息のように咳き込んでしまう。ちょっと胃液も出たし足も攣りかけている。息苦しさを少しでもなくすためにマスクを外すも、寒気立つ空気が肺を刺激する。徹夜明けも手伝って頭がガンガン痛むし、涙もじんわり出てきた。

 だがなんとか振り切れたようで、とりあえずほっとする。

「怖……なんなのあいつ」


 突然の声かけ。しかもタイプではないが中々に顔がいい男。思い返せば二.五次元的な俳優やレイヤー素養のある美青年に見えなくもなかった。しかし今どきナンパする男なんてマッチングシステムの発達や自然選択世間の流れによって絶滅していたかと思っていたが、まだ生き残っていたか。あるいは何かしらの勧誘か。

 そもそもただの男にしてはおかしかった。いや、

「なんで解らなかったの……?」


 "解らないエラー"。

 精神が正常であるにもかかわらずだ。こんなこと今までなかったはず。

 生理的か本能的かはどうでもいい、その人間から解るはずの思考なかみが得られないにとどまらず、体組織の情報すらも読み取れないという事態が、関わってはならないと脳が警鐘を響かせたのだ。未知にして異常な存在という馬鹿げた解答しか、今の私には導き出せなかった。

 いや、急な出来事だったから解らなかったのも有り得る。近くにいる様子はないし、もう考えるのはやめよう。


 ビルの路地裏の角で力尽きた私は膝に右手をつけ屈み、パーカーの胸元をパタパタさせる。ほんと最悪、スポブラにすればよかった。病んだオタクのくせに見栄張ってちょっといいやつつけたのが災いした。

 脈動がなかなか落ち着かない。息切れをしながら壁に背をつけ、へたり込む。見上げた空は相変わらず狭苦しい。

 視線を前へと向け、左右へと見やる。

 無限のデジタルの迷路と有機的な建築が融合したような都市に紛れ込んだ化石のような住宅街。車二台ギリ通る狭い交差点。取り残された電柱と連なる電線。野良猫が塀の上でこっちを見ている。見せもんじゃねぇぞと睨みを利かせるとどこかへと去っていった。


「……ここどこだっけ」

 焦ったりパニックになるとすぐこれだ。安直な考えで行動する上に記憶もあまりない。過度に疲れたおかげで頭も働かない。酸素が足りない。糖が欲しい。コーラ飲みたい。このことをSNSでつぶやきたい。

 私は息を吐き、ポケットに左手を入れる。


 こういうときのためのI-visionアイヴィーだ。ひとり一台の所持を義務とする個人証明端末にしてあらゆるデバイスやサイバーシステムと連動・拡張の役割を担う万能機器。最近はこういうカード型でなく腕時計型ウォッチ角膜接触型コンタクト内蔵型インプラントが普及しつつあるが、こっちの方が肌に合う。


 義務付けられているだけあって、電話やインターネット、音楽やゲーム等、多種多様のアプリケーションを備えたそれは、この時代でいう存在証明証アイデンティティと同義。電子財布や学生証等の会員証、何もかもがこの手のひらサイズの端末に入っている、まさに個人情報の塊。もう一人の自分と例えてもいいほどだ。そんな至極当たり前のことが頭のなかで勝手に説明される煩わしさも、一瞬のことだからと息をついた。


 タップ操作でマップのアプリケーションソフトを展開させることもできるが、面倒に思う私はSNSで今の泥みたいなお気持ちを表明ポストしながら、「家までのルート出して」と、その端末に向けて声に出した。


 視野選択性の立体映像ホログラムとして浮き出てきたマップとライン引きされたルート。それは、今日歩いてきたルート履歴と自宅までの最短ルートの二種類が表示されている。最悪だ、私の家はここから六キロほど離れている。外出自体珍しいのに、ここまでの長い距離を散歩したのは初めてだ。もちろん走ったこともいつぶりか。


 ビル裏に無造作に置かれていた自転車や積み上げられた白い換気扇を横目に、ルート通り私は重い足取りで家を目指す。


 歩いて十数分。まだ朝の時間帯ともいえるので、多少寄り道しても雨が降る前には帰ってこれる。親戚の話を聞かなきゃいけないことに苛立ちと憂鬱さを感じるが。

 先程かいた汗が引いてきて、少し身震いをする。秋の肌寒い風が吹き、紅葉の街路樹は葉を擦り合わせる音を奏でる。マフラーでもしてくればよかった。


 街乗り用の公共電動自転車を無料レンタルしたいところだが、こういう時に限って見当たらないし、ルート近くにもない。バスストップも同様、ルート沿いに隣接してないという運の悪さ。皮肉にもこの端末は私の運動不足解消に対して非常に良い貢献をしている。


 高架下、ガタゴトと聞こえてくる音は京城線。赤蜻蛉が数匹、私を追い抜いていく。その視線の先は屋根まで飛ぶシャボン玉の数々。木々と鉄網を挟んだ先から聞こえるかごめかごめ。さび付いたスピーカーから音割れして流れる夕焼け小焼け。赤い傘を差した女の子がランドセルを背負って乾いたアスファルトの上をスキップする。それを横目に鳥居がぽつんと見える細道へと。


「……」

 本当にこのルートで合っているのか?

 立ち止まった私は前を見る。子供たちが歌う童謡とおりゃんせを背に、ひっそりと佇む鳥居がぽっかりと黒い口を開けていた。その先に見えるのはなんてことない神社があるだけ。ホログラムガイドもその先を示しているし、マップにも「淺海神社」と表示されている。


 この完全完璧主義時代、とまではいかないものの、技術の正確さ、精巧さは企業の書類契約よりも高く保証できる。特にこの国の科学技術を疑う方がどうかしていると精神異常を訴えるほどだ。

 それでも疑った。ちゃんと根拠はある。


 私の方が正確だからだ。

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