第34話

「……ねえ」


 声に沈んでいた意識が覚醒していく。

 花翠。あの孤高な少女の声……。

 目を開けるといつもの天井が見えた。雀のさえずりが聞こえるここは椎名のアパートだ。

 そして隣にいたのは花翠ではなくホノカだった。


「ホノカ……」


 体を起こした椎名はホノカの手を握った。

 ホノカは生きていたのだと、心から安堵した。自分は悪い夢を見ていただけだ。


「レナが死んだわ」


 ホノカの言葉に呼吸が止まった。ヒューヒューと口から息を漏らし、やっと声が出た。


「なんで?」


「フラグが立った。そして立ってはいけないものだったのよ。だから……」


 ホノカがちらりと窓を見た。開いた窓の柵には蝋人形のようなナナが座っていた。

 戦いは中断された。だがそれはレナの死によってだった。


「でもおかしいの。私はこの時代に跳び、ノゾミが来てからも調べたわ。これ以上フラグが立たないようにってね。フラグという目印が立つにはある程度の関係が必要。一ノ瀬兄妹が入れ替わっていることに気づかなかったのはミスだった」


 ホノカが語る横でナナは沈黙したままだ。分身ともいえる妹を失ったのだ。


「でもね、他にフラグが立つような存在はいなかった。だからレースがあるとしても定員はこの四人までだと思っていたの。ねえ、どういうこと?」


 ホノカから昨日の詳細を聞いた。いきなりレナが消えたこと。そしてその後に中庭で倒れていた椎名を連れてここに戻ったこと。


「どういうことって……」


 自分は昨日何をしていた? なんだか思い出そうとすると頭がキリキリと痛む。

 ……そうだ。いつもつらいときに頼ったのは彼女だった。


「彼女だ」


「え?」


 ホノカとナナが椎名を向いた。


「俺の幼馴染とのフラグが立ったとしか思えない」


 色々な出来事がありすぎた。そしてそれらの情報はすべて尖っていた。耐え切れずに椎名は幼馴染に寄りかかり無防備に触れ合ってしまった。その時にフラグが……。


「そんなわけないわ」と、ホノカは首を振る。


「いやそれしかない。俺の責任だ」


 少女たちのレースをさらに混沌とさせてしまい、そしてついに死者まで出した。


「嘘よ」


「嘘じゃない。ホノカやノゾミのことも相談して、今回もまた頼ったんだ」


「そんなはずないわ。だって、私はその幼馴染を知らない」


 ……なんだと?


「私はこの時代に来てから、ほとんどの時間をあなたの監視に費やした。でも、幼馴染と話している場面を見ていない」


「そんなわけ……」


 その言葉を飲み込む。顔が思い出せない。彼女はどんな顔だったか。そしてどんな声だったかも。そもそも、名前すら思い出せない……。


「……ジャミング」


 この部屋で初めてナナが口を開いた。


「揺らぎの原因はそこにある」


 ナナの瞳は怒りで濁っている。


「私たちからノーマークだった存在。明らかに怪しい」


 三人は椎名の幼馴染の家に向かっていた。


「確かに俺と幼馴染はそんな関係じゃない。親友というか家族のような感じで」


「そんな問題じゃないの。私たちに認識されなかったというのが問題」


 その理由を探りに彼女の家に行く。


「まずは休戦でいいわね」


「ええ」


ホノカの問いにナナがうなずく。


「あれがいた場合、まずは協力して殺す」


 ナナの体が揺らいで見える。感情とリンクした魔力が揺れている。


「待てよ、もしもフラグが立ったならばそれは俺の……」


「そんなレベルじゃないの。あれは厄災よ。複雑なデータすぎるゆえに全部こっちに来られていない。だから先に確認しなければいけない。魔法を使える幼馴染か、それとも彼女を利用している何者かを」


 ホノカは何を言っている? 彼女が魔法を使えるわけがない。現に彼女の家の場所も知っており、まぎれもなく一般人だ。

 椎名のアパートから川へと向かい、路地に入る。多摩川の近くの住宅街。緑の多いエリアの一角に彼女は住んでいる。花咲く庭にはテラスがあり、日よけを兼ねたブドウの棚がある。


「ここだ」


 椎名はそんな建物の前で立ち止まり、息をのむ。


「本当に、ここ?」


 ホノカが顔をしかめる。目の前の一軒家に表札はなく、庭は雑草で荒れていた。


「ここの、はずだ。何回も来たことがある」


 庭を見るとブドウ棚もあった。そして風雨にさらされ薄汚れたテラスも。


「用意して。中を調べる」


 ナナが魔力で武器を構築する。同時にぼやけた。認識阻害のジャミングの効力だ。


「まて、俺が行く。俺がまず話し合う」


「そんなこと……」


「言うことを聞いてくれ!」


 ホノカを一喝した。幼馴染の彼女とは何があっても話し合えるはずだ。


「何があっても大丈夫だ。彼女は絶対に敵じゃない」


 そう言い、玄関扉のノブに手をかけるが鍵がかかっている。


「知ってる。この植木鉢の下に鍵があるんだ」


 玄関横の植木鉢をどかすと、無防備に鍵が置かれている。

 その鍵で開錠し、今度こそノブがガチャリと回った。扉を開くとよどんだ空気を感じた。ずっと停滞していたすえた空気。そして薄黒い廊下があり、玄関には靴も何もない。

 靴を脱ぐのも忘れて廊下を進む。

 ぎしぎしと音が鳴る。この一階の突き当りが彼女の部屋だった。椎名はその扉を開く。

 その部屋にはたった一脚だけ椅子があった。その木製の椅子は誰かが最近まで座っていたことを感じさせる。……だが、それ以外に何もなかった。

 空っぽの空間。

 こんなはずはない。彼女が暮らしていた家がこんな空虚なはずがなかった。

 だが思い出そうとすると頭が痛み、椎名はがくっと膝をつく。

 彼女はどこに行った? 先手を打たれて何者かにさらわれたのか……。

 ぎしっと音が聞こえ振り向いた。


「あなたたちもここにたどり着いたのですね」


 ノゾミだった。



※次回更新は12/10です

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