第二章 夭鳥の目

夭鳥の目 1

 父の遺体が見つかった。その連絡を受けても、どこか実感がなかった。今朝までくだらないことを喧嘩して別れた父が死ぬはずないと、認めることができなかった。

 身元確認が終わり、遺体の引き取りができるまで二週間ほど待たされた。群馬から母方の祖父母が駆けつけてくれた。父方の会ったこともない遠い親戚からも連絡があったが、よく覚えていない。現実味のない時間をぼんやりと過ごした。

 その後、父の葬儀が行われたが、そこで絵莉はようやく父と対面することができた。しかし、顔はとても見せられる状態じゃないと止められた。

 それでも親戚たちの目を盗み、父の顔を見た。顔の半分が包帯で巻かれていたが、死に化粧でさえ隠しきれないほど皮膚には亀裂が入っている。包帯部分はおそらく、欠損しているのだろう。父は頭から何かで刺し貫かれたようにして死んでいたという。

 ようやく父の死を実感し、その場で吐き気を催した。


 司城絵莉はあの日のことをたびたび夢に見る。半分しかない父の顔を思い出しては胃がひっくり返りそうになり、洗面所へ駆け込む。涙よりも吐き気が先に出てくることに情けなさを感じるのも何度目か。四年半の月日が経っても体はあの過去を受け付けない。

 早朝四時。事務所のソファで寝落ちしていたのだが、おそらく三時間ほどしか眠っていないのだろう。やけに目が冴えてしまえば再び眠るのも面倒になり、電気ケトルに入れっぱなしだった水をそのまま沸かした。インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れ、湯を注いで飲む。

 無意識に神経が昂ぶっているのだろう。父が死んでから患った鬱病も寛解段階で、今では自分の状態を分析することができるが、コントロールの有無はまた別問題だ。

 熱すぎるコーヒーを一口飲み、タバコに火をつけてゆっくり吸った。濁っていく肺を感じながらも脳が穏やかになっていくのを感じる。

 そしてスマートフォンを出し、地図アプリを開いた。今日のルートをシミュレーションする。

「長旅だなぁ……バスで寝られたらいいけど」

 煙を吐いて独り言つ。車はあるが、ペーパードライバーなので滅多に動かさないのだ。

 それから気が済むまでタバコを蒸し、空き缶に灰を落として溜息をついた。冷たい部屋の電気を消し、背伸びをしてリビングへ戻る。テレビの電源を入れた。朝の情報番組が放送中で、快活なアナウンサーの声が流れる。

 急激に冷えを感じ、盛大にくしゃみをした。

「あー……やっべぇ……風邪引いたら大変だ」

 鼻を噛みながら不安になる。カーディガンを羽織り、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。

 父の死後は母方の実家に引き取られた。その際、父の両親の持ち家だった自宅は祖父母や親戚たちに頼んで残してもらっていた。高校を卒業し、祖父母の家を出てこの実家に戻ったのが二年前の春。その頃にはいくらか精神が落ち着きを取り戻したが、まだまだ正常とは言い難かった。

 父が死んだ理由を知りたい。その決断に至るまで絵莉の心はもぬけの殻だった。

 幸いにも父は母の死の真相を知るために膨大な資料を遺している。父の遺産である貯金を切り崩し、片っぱしから資料を読み漁り、たまに図書館へ出かける日々を過ごした。

 それからまもなく休業していた探偵業を再開させた。舞いこむ依頼の多くが浮気調査と人探し。そこで改めて父がどんな仕事をし、人となりだったかを知った。他人の生活を覗き見て秘密を暴く仕事は気持ちの良いものではなく、心はどんどん濁っていく一方だが、おかげで度胸と覚悟はついたと思う。

 人探しのノウハウがある程度身についた頃、絵莉はを探そうと思い至った。調べはすでについている。もっとも、彼を探す気持ちはあったが、会うと冷静でいられる自信がなかったのでわざと遠回りばかりしていた。しかし、いよいよ彼の力が必要かもしれないという状況になったので、重い腰を上げた次第だ。今日、これから迎えに行く。

 もう一度一服し、電気ストーブの熱で温めていた服に着替える。黒のタートルネックの上からオーバーサイズの赤いウールカーディガンを羽織る。それでも寒いかもしれないと思い、ダウンジャケットを着た。一月の山奥は寒さも厳しい。厚手の靴下とレッグウォーマーを履き、ジーンズを穿いてマフラーを巻けば準備万端だ。

「タバコとスマホとー、あと金。鍵。うん、これでよし」

 ショルダーバッグに最低限の私物を詰め込む。リビングに置いた両親の遺影を一瞥し、ブーツを履いて家を出た。


 電車を乗り継ぎ、東京駅まで向かったら新幹線に乗り換える。まさかまた群馬まで戻ることになるとは思わなかったが、うっすらと土地勘があるので良かった。途中で朝食を食べていないことに気が付き、駅弁を買おうと思ったがどれも胃もたれしそうだったので緑茶だけ購入した。

 絵莉は新幹線の中でたびたびスマートフォンを操作し、ぼんやりと画面を見つめて物思いに耽った。

 四年半前、父が死んだ時のことを思い返す。それまで父がどんな仕事をしてきたのかよく知らなかった。母が死んで父が会社を辞めるまでの時間、ただ泣き暮らしていたものだから彼がどういうつもりで探偵事務所を開いたのか結局聞けずじまいだったことを今でも後悔している。

 祖父母が言うには、父は一人で娘を育てる覚悟をしていたのだという。何度も義実家と話し合いの場を設けたそうだが、彼は地元を離れず、娘を義実家に預けることもせず、二人暮らしを望んだ。それまでの父と言えば家にいることがほとんどない人で、顔を合わせてもろくに話すことはない。休みの日はぐうたらし、母と絵莉がたしなめることがほとんどで、幼い頃の絵莉は眠る父にまたがって頭や尻を叩いて起こしていた。家族との時間はとにかく面倒そうで、次第に父は仕事の方が好きなのだと思うようになった。

 そんな彼が母の葬儀で泣いた時は驚いた。それにつられて絵莉も悲しみに暮れた。あのときの父はまさにもぬけの殻だった。しかし、被害者遺族の会に参加し、たくさんの悲しみを受け取った彼の目には鬼が宿っていた。

『絶対に真実を暴く』

 そんな呟きが聴こえ、絵莉は思わず父の手を握ったのだ。なんだか父まで遠い場所へ行ってしまうのではないか──そんな気がして手を掴んだ。

『私、みんなが泣かないような世界にしたい。泣いてる誰かを助けたい。そんな大人になる』

 それは葬儀の際に父が涙を流したからとっさに出した言葉だった。父が泣かないように。そのために自分が強くなる。警察官を目指して猛勉強し、体も鍛えるために空手を習い始めた。だが、それもすべて無駄になった。何も手につかなくなるほど、父の死は絵莉にとって大きなトラウマとなっている。

 絵莉はうたた寝から目を覚ました。持っていたスマートフォンが膝に落ちている。拾い上げ、調べていたことを一つ一つ確認した。


 乗り換えのため軽井沢で降りると、外は雪が降っていた。息が凍りつくほど寒い。バスのりばまで歩く。

 到着時間が少し早かったので、バスの発車まで一服することにした。缶コーヒーも買う。それからしばらく暇を持て余し、ただ静かにぼんやりと時が過ぎるのを待った。

 ずっと会いたかった人物にこれから会うというのに随分と悠長だと思い、自嘲気味に笑うと脇にいた中年男性が不審そうに絵莉を見やってそそくさと離れた。

 運良く雪の量があまりなく、バスの運行は時間通りだった。ゆったりと進むバスの中は熱気が足りない。山奥へ向かうにつれ、車内は絵莉一人きりになる。軽井沢を経由して群馬へ入るも景色は大した変化はなかった。

 絵莉は最後列の席で外の景色をじっと眺めていた。何度かあくびをするが寝付けない。

 目標のバス停が近くなり、絵莉は長い溜息をついた。こころなしか心臓がドキドキする。

 彼と会うのは四年半ぶりだ。顔立ちが良かったから将来有望だなと呑気に考えていたものである。あれから一度も忘れられない。

 彼は父の死の真相を知る人物だ。地元中学と高校を卒業した後、その足取りがふっと消えたのだが、調べていけば当然のことだった。


 そこはとてものどかで真っ白な雪景色が拝めた。天気は曇りで、しんしんと雪が降り続く。

 絵莉は役場へ向かった。彼の所在を訪ねると、男性職員が快く車を出してくれるようでその厚意に甘えた。

 その職員いわく、一昨年の秋頃に突然現れたという彼は、悪い噂もいい噂も聞かないが至って真面目な青年だという。役場でアルバイトをしているそうで、主にデータ入力の作業を担当している。今日は休みだから家にいるのだろう。ただ、真面目な青年ではあるが、プライベートは一切分からない。

「彼、コミュニケーションが下手だから周囲の人からよく誤解されるんですよね」と職員は苦笑いを浮かべるばかり。

 山道が細くなっていき、車道もだんだん荒くなっていく。更に深い山道に差し掛かる間際で職員は車を停めた。ここから先は徒歩で行くしかない。

 絵莉は職員にお礼を言って山道を進んだ。雪で滑りそうになりながら登っていくと、山小屋のような一軒家が建っていた。だだっ広い庭には雪で埋もれたログテーブルが置いてあり、宿泊施設と思しき場所である。

 静かな白い視界の中、ふいにコンッと木材を叩き割る音が木霊した。視線を向けると、納屋の前で薪割りをしている青年の姿があった。頭からすっぽりかぶったジャケット姿はあの頃よりも背丈がぐんと伸びていて、黙々と斧を振りかざしている。

「椎羅くん」

 音の隙間を縫って声をかけると、絵莉の姿を捉えた青年は動きを止めて凝視した。

「探したよ。私、司城絵莉。覚えてるよね」

 近くまで寄るも彼は微動だにしない。そんな椎羅に、絵莉はすっと手のひらを差し出した。

「父さんのスマホ、返して」

 椎羅は眉をひそめた。持っていた斧を置き、呆然とする。

 四年半振りの再会は冷たい空気に包まれていた。

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