亡郷の血

小谷杏子

序章 忘却の海

忘却の海

 真っ黒な波に揺られている。背後では黒煙が上がる。炎がじゃくじゃくと木材を喰む音が鼓膜を突き抜ける。生々しい惨劇が現実のものだと実感していく。

 少女は耳を塞いだ。両親の苦痛に歪んだ顔が溶けていくおぞましい映像が頭から離れず、ボートの中で丸まって嘔吐えずいた。一方、目の前に座るもう一人の少女──姉は場違いなほど柔らかな声で言った。

福子ふくこちゃん」

 弾かれたように福子は顔を上げた。

「福子ちゃん、大丈夫。もう心配いらないわ。これからは私が守るからね」

「でも、洋江ひろえちゃん……」

 福子は唇を震わせながら姉の顔を見た。炎を背にした洋江の頬には血糊がべったりと張り付いている。真っ黒な髪の毛は濡れそぼり、血なのか海水なのか判然としない。

 洋江は福子の体に触れた。姉のぬくもりが、冷えた肌に触れた瞬間、福子は幼い日々を思い出した。否、それは姉が思い出す映像のようだった。

 福子が帯刀たてわき家の次女として生を受けた瞬間のこと。父は福子を抱き上げ、すぐさま別室へと消えた。母はゆっくりと目を閉じた。いや、誰だ。見知らぬ女だ。知っている母の顔ではない。誰だ──

「それがあなたのお母さんよ」

 福子の心を読んだように、洋江が頭を撫でながら優しく言う。

 福子は耳を塞ごうとした。しかし、洋江の腕がしっかりと巻き付いており、身動きが取れない。

「じゃあ、あの、私たちと一緒に住んでた〝お母さん〟は誰だったの?」

「あれは……身代わりの人。私たちを育てるお役目の人」

 はっきりしない言い方をする。姉はいつもそうだ。もう十六歳になったというのに、いつまでも幼い子ども扱いをするのだ。

 そして口で説明するのを面倒くさがり、記憶や気持ちをこうして伝えようとしていく。姉だけに備わった不思議な能力だ。

「洋江ちゃんっ」

 福子は堪らず姉を抱きしめ返した。ボートはどんどん沖へ流れていく。別世界みたいな黒海をただよい、島から遠ざかれば遠ざかるほど言い知れぬ焦燥に駆られた。

「わたし、怖いっ……本土に無事行けたとしても、わたしたちだけでこれからどうやって生きていくの? わたしたち、みんなをこ、ころ、殺し、ちゃったっ」

 無意識に息が上がっていく。苦しくなっていく。それでもなお洋江は穏やかに「うん」と頷く。

「ね、ねぇ、どうしよう。わたしたち、これからどうなるの? わたし、洋江ちゃんがいなかったらどうやって生きていけば──」

「大丈夫」

 洋江は福子の背を撫で、一層強く抱き寄せると額に唇を押し付けた。瞬間、福子の全身がビクリと跳ねる。

「ひ、ろえ、ちゃん……まって……」

 眠気に襲われる。その圧倒的な力にいつも屈してしまう。

 福子は薄れゆく意識の中、炎を背にして微笑む姉の顔を見つめた。

 彼女は本当に姉なのだろうか。なんだか知らない女の顔をしている。しかし、確かめることもままならない。強烈な眠気が頭上から降りていき、強制的に意識を奪われていく。

「大丈夫、大丈夫。だからね……もう、忘れなさい」

 その声の向こう側で、化物の啼声のような音が轟いた。島に火の手が回る。もうどうにもならない。朽ち果てるのを待つばかり。

「──さぁ、行きましょう」

 洋江の声を合図にボートがゆっくりと動き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る