第8話 海が見える病院にて(1)

 海が見える、クリーム色をした七階建ての病院だった。


 病院とはいえ、外観は普通のマンションか、ビジネスホテルのように見える。


 タマイシの病気の治療に特化したこの専門施設は、『病院であることを意識させない病院』というコンセプトで設立されている。患者になるべく自分が病気であることを意識せず、気楽に過ごして欲しいという願いからだ。――アクセスを調べるために訪れた病院のHPにそう書いてあった。


 病院の前まできた俺は、連絡先の書かれた紙を片手に、スマホに栞さんの電話番号を入れる。


 ワンコールで通話がつながった。


「久世純です。これから、茜に会いに行きます」


「そう。ありがとう。その、今更で申し訳ないんだけど、あの時言い忘れたことがあったの」


「なんでしょうか」


「茜は、もう負の感情の領域から、どんどん無人病が進行しているわ。すでに、『悲しみ』の領域は完全に失ってる。『不安』とかもかなり……、『怒り』はまだ一応残っているみたいだけど、ほら、茜は元々、あまり怒らない子だったから……」


 そう説明する栞さんの声は震えていた。


 無人病は、マイナスの感情から失っていくという特徴がある。


 本人にとってのストレスを軽減するための防衛機制の延長線上で治療の議論がなされているが、未だに特効薬は存在しない。


 細かい理屈は置いておいて、そりゃどうせ失うなら『嫌な気持ち』になるものを捨てた方が楽だよな、と人は無意識に思うのかもしれない。


「つまり、俺と別れたことを、茜は認識していない、ということですね」


 俺は先を汲んで告げる。


「そうなの。『きっと、純は引継ぎもバックアップもしないでスマホを壊しちゃったんだよ。純、そういうところ、ズボラだから。お母さん、純くんに私のラインを教えてきてって』だから、私は――」


 栞さんが涙声で呟く。


 音割れした通話が、俺の胸に刺さる。


(かなり病状の進行が早そうだな……)


 俺は唇を噛みしめた。


 茜が記憶喪失になったという訳ではない。


 彼女の脳の中に、全ての記憶は内包されている。


 しかし、茜は今、記憶へのアクセス権を失った状態にあるのだ。


 記憶にはかならず感情が付随しているので、感情を失うと、そこにあると認識できなくなるのである。


 例えば、記憶がパソコンで言うところのHDDに収められた、無数の鍵付きの圧縮ファイルだとする。脳がCPUだ。ファイルを開くには、専用の解凍ソフトと、パスワードが必要だが、その役割を担うのが感情という訳である。


悲しみの記憶には、悲しみの感情が、喜びの記憶には喜びの感情が――といった具合に、記憶を思い出すにはそれぞれ対応した感情が必要なのだ。


「わかりました。それでは、まだ別れていないというていで話します。幸い、俺はタマナシですから、茜にはバレないでしょう。茜は、自分が病気であるということは認識できているんですね?」


「ええ。認識できてるわ。でも、やがて負の感情を全て失ったら、それも厳しくなると思う」


「承知しました。あの、俺からも一つ、お伝えしなければいけないことがあります」


「なにかしら?」


「――俺は、茜を旅行に誘おうと思います。もし俺の存在が茜の刺激になるというのなら、新しい景色やイベントを用意した方が、効果があると思うので。もちろん、親御さんと茜本人に許可して頂ければの話ですけど」


 で茜を外に連れ出すことは。彼女が無人病だと聞いた瞬間から決めていた。


 もちろん、ドナー候補と直接会い、茜のタマイシがドナーのタマイシと適合するかを、その場で確認する必要があるというのが第一の理由だ。


 しかし、そういう理由を抜きにしても、俺は彼女と旅行したかった。


 成功率20%の手術が上手くいくと信じられるほど、俺は神様に期待してはいない。


 もし、茜が死ぬのなら、残り少ない彼女の時間を独占したい。


 それが、俺の自己中心的で、でも偽らざる願いだった。


「……私たちもね。旅行の提案はしたのよ。でも、茜は『旅行している間に、純が来るかもしれない』っていうから」


「すみません」


 俺は電話越しに頭を下げた。


「いえ。いいの。私たちにあなたを止める権利はない。それは、茜が決めることだわ。主人の方には私から言っておくから」


 栞さんはきっぱりとそう言った。


 本当は俺をぶん殴りたいくらいの気持ちだろうが、それでも茜の自主性を尊重するというその強さに、俺は『大人』を見た気がした。


「ありがとうございます」


「でも、いいの? あなたも、学校があるでしょう」


「どうでもいいです。茜も学校に行けてないんだし、俺がたとえ留年になっても、大したことじゃない」


「あなたの親御さんは許してくれるかしら」


「はい。もう許可は取ってあります。ちょっと小言を言われましたけど、なんとか」


「あなた、そこまで茜を……。それなのに、なぜ――」


「……すみません。あの、面会時間が」


 俺はそう言って誤魔化した。


 今は十九時。


 面会時間は二十一時までだから、会話を拒否するには微妙な理由だった。


「そうね。ごめんなさい。それじゃあ、茜のこと、よろしくお願いします」


「はい」


 栞さんとの通話を切る。


 そして病院へと足を踏み入れた。

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