第6話 罪と罰(1)

「すみません。お待たせしました」


 栞さんは日に焼けた畳が敷かれた和室の客間に、丁寧に正座して俺を待っていた。


 俺は学生鞄を脇に置く。


 それから、こたつ――今はただの脚の低いテーブルになっている――を挟んで、正座で彼女と向かい合う。


「こんにちは。ごめんなさいね。急なことで驚いたでしょう」


 久々に会った彼女は、前に見た時よりも一気に十歳は年老いたように見えた。


 前は月明かりのような静謐な輝きを放っていた胸の真珠のタマイシが、今は新月のように漆黒に変わっている。


「いえ……。その、俺の方こそ、ごめんなさい」


 俺は深々と頭を下げた。


 土下座しようかとも思ったが、それは逆にわざとらしい気がして、ただ深く下げた。


 茜を傷つけたことは間違いない。


 俺には俺の事情があって、それはいくら問い詰められようが話すことはできない。


 色んな意味を含んだ『ごめんなさい』だった。


「頭を上げてちょうだい。私はあなたを責めにきた訳じゃないの。あなたと茜の間に何があったかは知らないけれど、若い時には失恋の一つや二つあるのは当たり前のことだわ」


 黒い真珠が、一瞬、不吉なブラッドムーンのように赤く濁る。


 その挙動で、栞さんの言葉は嘘だな、と分かる。


 彼女は俺に怒っている。


 しかし、嘘だとしても、わざわざこう前置きを口にするということは、本当に、俺を責めるのは主目的ではないことは確かだ。


「はい……えっと、それで、あの、用件とは?」


 俺の問いに、栞さんは大きく何回か深呼吸する。


「……茜が急性の無人病にかかりました。余命は三ヶ月だそうです」


「えっ……」


 俺は絶句した。


「精神科医の息子さんならご存じよね。無人病が原因不明の難病だということ。そして、明確な治療手段は確立されていないことも」


 俺と譲二の間に血縁関係は皆無だが、今はそんなことはどうでもいい。


「はい。知っています。徐々に感情を――タマイシの色を失っていく病で、最終的には全ての心を失い、生きる気力をなくして食事もとらず、動かなくなり、衰弱死に至る、と」


 知識だけはスラスラと口から出てくるけれど、まるで現実感がない。


 茜が無人病?


 あんなに感情豊かった茜が?


「ええ。その通りよ」


「あの、移植手術は? 確か、この前、無人病が複数のタマイシの欠片の同時移植手術で治ったという記事を見ました」


 俺は記憶を手繰り寄せ、希望を呟く。


 でも、冷静なもう一人の自分は、客観的に状況を理解していた。


 無人病は治る可能性が〇パーセントの病ではない。しかし、逆にいえば一人治っただけで世界的なニュースになるほど、治りにくい病だということだ。


「ドナーの順番は、何千人待ちだそうよ。ましてや、茜は全ての感情を移植しなければいけないから、全てのドナーを見つけることは、事実上不可能だとお医者様から言われたわ」


 栞さんは悔しさを噛みしめるように、唇を真一文字に引き結んで呟いた。


 それはそうだろう。


 タマイシの普及率が上がるに伴って、それ以前の人類史には存在しなかった病も増えた。


 タマイシの欠片――自分の心の一部を分け与えるというのは、通常の臓器のドナーになるよりも精神的なハードルは高い。そして、ドナーとなるには誰でも良いという訳ではなく、それぞれ、移植すべき感情を人よりも過剰に有していなければならない。たくさん持っていなければ、人に分け与えることはできないからだ。


 ましてや、ただでさえ、臓器移植後進国の日本である。圧倒的に需要が供給を上回っている現状は、いわば必然だった。


 わかってる。


 そんなこと、わかってる。けど、聞かざるを得なかった。


(ああ、これは罰だろうか)


 俺の世間様には顔向けできない俺がやってきた『仕事』への。

 分不相応な茜と付き合って、傷つけたことへの。


 そもそも、俺が産まれてこなければ。


 どうして、俺じゃないんだ。


 罰するなら、茜じゃなくて、俺だろう。


「……そうですか。それで、俺はなにをすれば?」


「茜に、会ってやって欲しいの。あの子が全ての感情を失う前に。お医者様に言われたのよ。少しでも、感情に良い刺激を与えてあげてくださいって。だから、茜が、好きだったあなたに会えば、何か変わるかもしれないって思ったの。迷惑で、勝手なお願いだとはわかっているのだけれど、何とか時間を作ってもらえないかしら」


 栞さんが視線を伏せる。


 真珠が黒と白の中間の灰色に曇る。それが示すのは、疑念。


 栞さん自身も、自分の吐き出した言葉が示すような都合のいい未来を信じられるほど、楽観的ではないのだろう。


 もしかしたら、心の奥底ではもう駄目だと思っているのかもしれない。それでも、せめて娘にしてやれることはないかと奔走しているのだ。


「……俺が行ったら、茜の病状をさらに悪化させることにならないでしょうか」


 俺が懸念するのは、ただその一点だけ。


 無人病は原因不明の病だ。


 とは言っても、何かしらの心的な衝撃が引き金になっているとするならば、まず一番に考えられる病因は俺だ。


「それは、ないと思うわ。茜は今でも、いつもあなたとの思い出を見つめてるもの。スマホのラインのやりとりとか、写真とか、そういうものばかり」


 栞さんは、瞳を潤ませ、鼻をすすりながら答えた。


「……わかりました。会います。会わせてください」


 俺は栞さんを真正面から見据えて、そう宣言した。


「ありがとう! 本当にありがとう。交通費は、ここに置いていくわ。封筒の中に諸々の連絡先も入れてあるから、着いたら連絡をちょうだい」


 栞さんは身を乗り出して、俺の手を力強く握る。それから、ポーチから取り出した封筒を、テーブルの上に置いた。


「はい。あ、でも、交通費は自腹で大丈夫です。これでも、バイトで結構貯金はあるんです」


 俺は封筒の中から連絡先が書かれた紙だけを取り出して、封筒を返す。


 治療費も馬鹿にならないはずだ。


 少しでも向こうに負担はかけたくない。


「そう。わかった。なるべく早くお願いしたいのだけれど――」


「今から行きます」


 今日は金曜だ。


 無論、今日が平日だとしても俺は気にせず行ったが、学校に余計な連絡をしなくてもいい分だけ、土日に見舞うのがちょうどいい。


 というか、多分、栞さんも俺がそうすることを期待して、今日訪問してきたのではなかろうか。


「本当にありがとう。あのね。さらに、こんなことを言ってはなんだけれど、できれば、私と一緒に行くんじゃなくて、純くん一人でお見舞いしてあげてくれる? 私が連れて来た感じになるよりも、茜が喜ぶと思うから」


「はい。是非そうさせてください」


 俺は栞さんを見送ってからすぐ、スマホで航空券の予約を入れた。

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