トイトイトイ。

柴田 恭太朗

それは幸せのおまじない

 初めての発表会。三歳だった。

 ステージの様子はよく覚えていない。

 でも、楽屋で小さくて四角いチョコをもらったことは覚えている。


「トイトイトイ。チコちゃんがじょうずにバイオリンを弾けますように」


 バイオリン教室の『お姉さん先生』が私の手にチロルチョコを握らせてくれた。子犬の絵柄が可愛らしくて嬉しい。それまでシクシク痛んでいたお腹がウソのように治った。


 母が言うには、ステージの私はじょうずに「きらきら星」を弾いたらしい。十六分の一と呼ばれる冗談みたいに小さな幼児用バイオリンを構え、子供なりに立派な演奏をしたという。客席からの拍手がしばらく鳴りやまなかったそうだ。私はまったく覚えていないけれど。お姉さん先生からもらった子犬のチョコは、発表会の後で食べた。甘くておいしかった。


 トイトイトイ。きっとそれは魔法の言葉。子ども心に私は理解した。


 ◇


 何度目かの発表会。八歳。

 ステージには慣れてきた。


「トイトイトイ。チコちゃん、がんばって」


 いつものように魔法のおまじないを聞いて、ステージに上がる。ヴィエニャフスキの「オべルタス」を弾いた。曲はちょっと難しかったかな。バイオリンのサイズは二分の一になった。まだまだ子供用の楽器だけど、サイズが変わるとまったく音が違って聞こえる。少し大人フルサイズの音に近づいたことが嬉しかった。


 トイトイトイ。無事うまく行きますようにの願いがこもった言葉。周りの人たちから、私が愛されていることを実感できるおまじない。トイトイトイを耳にすると、気持ちがホワッとする。


 ◇


 全日本ジュニアバイオリンコンクール。十歳のとき。

 よく覚えている。

 

「トイトイトイ! チコ、がんば!」


 バイオリン教室の仲間の声援に送り出されて、ステージに上がる。フロアの中央に立つと、固唾をのんで待ち構える観客の顔がうっすらと見えた。しかし、私はまったく緊張しない。トイトイトイのおまじないが効いているから。曲はモーツァルトの「バイオリン協奏曲第三番」。4分の3バイオリンを華麗に操って私は一位の座に輝いた。


 ◇


 東都音楽コンクール。十五歳になった。

 ここでチコさんのバイオリニストとして人生が決まるかもね。先生はそう仰っていた。「かもね」ではなく「絶対」そうに違いないと私は感じ取った。


「トイトイトーイ! 知子チコリン、ファイト!」


 舞台袖で、教室の親友五人が大きく手を振ってくれた。コンクールに参加しない子たちだ。コンクールに出る子はどうしてたかな? 同じ場所にいたはずだけど、応援してくれたかどうかは知らない。でも名前は憶えている、堀井リエといった。そばかすが目立つ、色白の子。あの子も仲間だけどライバルだ。たぶんじっと黙って私を見つめていたと思う。私もリエにはそうしていたし。


 コンクールはピンと張りつめた綱渡りのロープ。最後まで上手にキレイに渡りきった子が一位となる。ロープを渡る子は皆ライバル。口には出さないけれど、互いに相手がバランスを崩せばいいと思っている。


 楽器は大人と同じ四分の四、中学入学と同時にフルサイズになっていた。バイオリンの大きさだけでなく、中学三年にもなると、気持ちは完全に大人だ。演奏技術だけでなく、音楽の理解も進んだ。曲をどう解釈し、どのように歌えば聴衆に気持ちが届くのか分かるようになってきた。


 弾いた曲はチャイコフスキー「バイオリン協奏曲」。定番中の定番。チャイコの気持ちは分かるし、メロディは子供の頃からそらんじている。思う存分感情を乗せて歌い込んだ。


 結果は一位。嬉しい気持ちより、ストレスから解放されホッとした安堵感で半日泣いた。一方、ライバルのリエはといえば、彼女は入賞圏外。私の視界から去って行った。


 私の人生は順調そのもの。

 それもこれも、すべてトイトイトイのおまじないのおかげ。魔法の言葉は、いつだって身近にある。


 でも。

 もしかして、ひょっとしてと疑念が浮かぶ。


 もしステージ前におまじないをかけてもらえなかったなら、いったい私はどうなるのだろう?

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