2話  絶食系男子が語る愛

 美央子の告白を無事断り終えて学校から帰宅し、ようやく辿り着いた愛しの我が家。その玄関を開けた瞬間のことだった。


「優太、ちょっと話がある。今すぐ部屋に来い」


 僕が「ただい」と全てを言い切るよりも前に、リビングから顔を出した彼女は言った。どうやら今日は「ちょっと話」が良くある一日らしい。それとも人は、何か重大な話をする前フリとして付ける言葉なのだろうか。だとすれば「ちょっと」ではなく「大事な」と付ければ良いのに。


 皺の寄った眉間、切長の目元は通常よりもやや鋭さを増している。僕と彼女は隣近所の幼馴染であるが、付き合いがそれほど長くなくとも不機嫌だろうということは容易に理解出来る様子だった。


「まずは手を洗ってくるよ」


 上取円香かみどりまどかが僕の家に居ることは、今更何か言う必要も無い。きっと訪ねて来た彼女を、母がいつものように招き入れたのだろう。


「分かった……でもすぐ来てよね」


 円香はいつも通りの仏頂面で厳しい視線の後、踵を返して階段を昇って行く。


 淡い緑色に染まった、ふわふわ揺れるロングヘアの毛先を見てふと、まだ黒髪だった頃の彼女とその笑顔を思い出した。以前はもう少し表情に機微があった気がするのだが……これも時代の流れかな。飾りの無い姿こそ美徳であり清楚であり、常識だった時代も終わりを告げたわけだし。今ではもう日本人らしい髪色を街中や学校でも見つける方が難しいくらい染色は一般的だ。別に嫌悪を覚えたわけじゃないし否定するつもりもない。ただそれほどに、この国の普通がカラフルに変化する程には時が過ぎたと実感しただけ。それもたった十数年しか生きていない僕がそう感じるのだから、余計に恐ろしい。


 そうして一頻り昔を懐かしみ慈しみ、時代の変化する速度は一定ではないと戦慄しながらで、僕は廊下を進んだ。


 台所で夕食の支度をする母に声を掛ける……今日はカレーか、きっと円香が来たから量を作れる料理にしたのだろうな。久しぶりに賑やかな夕食になりそう。鼻腔に残った特有の香りに、腹の虫を鳴らしながら洗面台の蛇口を捻る。手早く洗浄を済ませると、階段を上がった。廊下の奥、妹の部屋の扉には『就寝中』の札が。いつもながら寝坊助、今日もというか毎日晩飯前には声を掛けねばならない僕の身にもなってくれ。


 心中で愚痴りながら自室に入ると、円香は僕のベッドに腰を下ろしていた。シーツにかなり皺が寄っている、枕の位置が変わっている。きっと先程まで横になって全力で寛いでいたに違いない。僕の足音を聞いて慌てて、体勢を変えたのだろう。


「で、なんで美央子をフったの?」


 僕が鞄を勉強机に置いて椅子に腰掛けた瞬間。見計ったように彼女は唐突にそう言った。


「どうして君が知っているんだ? 告白を受けたのも交際を断ったのもついさっきだよ?」


 加えて美央子の告白を断ったことに、どうして円香が不機嫌なのだろうか。


「私はあの子からこの1年間ずっとずーっと相談を受けてたから、ついさっき連絡が来たの。連絡というか報告がね。全く、一体私が今日までどれだけ下らない話を聞かされてたか知ってる? 寝ても覚めても学校でも休日でも、やれこんな事があったとかあんな事を言ってしまったとか、何度も何度も何度も何度も……」


 円香は溜息混じりに、過去の記憶を掘り返すように視線を上げる。それから彼女は『お前のせいだ』と言わんばかりに僕を真っ直ぐ見つめて言った。


「本当に死んでほしいくらい鬱陶しかったんだから。フラれやがってざまあみろあの馬鹿女」


 円香の遠慮無く容赦無い発言に、僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。その暴力的な口調がクラスで浮きまくっている原因だと知っているだろうに。とはいえ彼女が苛立っていた理由は分かった。要するに……これは八つ当たりに近い。今までに溜まった鬱憤を吐き出したい、愚痴りたいとそれだけだろうな。であれば本当の怒りの矛先は僕ではなく、美央子の方か。


「まあまあ……というか、相談? 君がそんなことをするなんて驚いたな」


「そりゃ優太の恋愛嫌いは昔から良く知ってるけど、でも断り切れなかったの。今まで似たような頼みを百万回は断って来た私がだよ? どれだけ望み薄だって伝えてもあの子は一歩も引かなかった。相当本気だったのか、自信過剰だったのか何なのか」


「あのね、僕は別に恋愛が嫌いなわけじゃない。どちらかと言えば好きだよ」


 許容出来ない部分を訂正すると、円香は呆れ顔をした。


「あーはいはい」


 彼女は如何にも『私は分かってますけどね』的な感じだ。


 自分だって僕に……告白したくせに、どうしてそんな振る舞いが出来るのだろう。あの、中学の出来事を忘れたわけじゃないからな。当時などは信頼していた者に後ろから突然刺された気分で酷く憔悴したものである。別に責めるつもりも無いけど、本当にびっくりしたんだ。


「で、どうしてフったの? 相当イチャイチャしてたらしいじゃん。夏休みに海に行った時も、二人で仲良く線香花火なんかやっちゃってたらしいし。あの子にやたらめったら優しかったんでしょ? 学園祭も体育祭もバレンタインも何でもかんでもいつも一緒にいたって聞いたけど」


 言って円香は口先を尖らせた。それこそ彼女なら聞かずとも分かっている筈だろうに……というか記憶と少し差異があるな。確かに一緒に居た事はあったけど、二人っきりという機会はそこまで多くなかった筈で、イチャイチャなどはした覚えが無い。夏休みも学園祭もクラスの皆だって同じ場所に居たし……僕の思い違いか?


「君が何を聞いていたかは知らないけど、僕は美央子に特別優しくしていたつもりはないよ。人として凄く好きだったから一緒に居ただけで」


 だからこそ、正直僕は告白された事を少し不思議に感じていたりもする。過去、美央子と恋愛話になった時に「彼女は作らないの?」と聞かれた事があった。僕は当然きっぱりと否定した筈。なのに、どうしてだろう?


「勿論優太がそういう人間だって事もあの子には伝えてあった。それでもちょっと、いやかなり……怖いくらいに聞く耳を持たなかった。話が通じなかったと言っても良いかも」


「そっか。あんな良い子にそこまで思われていたんだね。僕はとても幸せ者だったみたいだ」


「良い子って、あれが? 人の話ちゃんと聞いてた? ただのヤバい奴でしょ」


「相談を受けてた人の発言とは思えないねそれ」


と、円香の乱暴な人物評はこの際置いて、僕は美央子との思い出を振り返った。それは何も幸福なものばかりではない。苦難もあれば涙もあったが、確かに充実していた数々の輝かしい記憶。それらは今でも昨日のように鮮明に思い返せたが、やがて音が聞こえる程に大きな彼女の溜息で、僕の脳内から吹き飛ばされてしまった。


「とにかく……誰にでも優しいのは確かに良い部分ではあるけど、でもそれはもうやめて。思わせぶりで勘違いさせるそれ。優太だってとっくに気付いてるでしょ? 顔も、まあそこそこ良いんだから余計に自覚して」


 と彼女はどこか気不味そうに語る。加えて表情には若干の緊張が滲んでいるように思えた。こうした話題、特に恋愛に関する話は僕らの間で暫く避けられていたものだった。彼女の方が強烈に嫌っていた……多分、僕が円香の告白を断ったあの日からだ。それでもこの口数の多さから察するに、当人はずっと話したがっていたのだろう。さて、褒め言葉で締め括ってくれたことは嬉しいが、これも幾つか反論したい部分がある。


「でも友達には優しくするのは当たり前じゃないかな。それに僕が何かして喜んで貰えるなら一番良いよ」


「それって結局は女の子に囲まれてたいだけじゃないの? 優太にその気が無くたって、好意で縛り付けてるのと一緒じゃん」


「じゃあ僕は初対面の相手に会う度に『やあどうも! 最初に言っておくが君とは付き合う気が無いけどそれでも良いならよろしくね!』と自己紹介しなきゃいけないってこと? そりゃあまりにクレイジーじゃないかな」


 もしそんな事をした暁には『え何こいつ』と顔を引き攣らせる、まだ見ぬ友人の姿が容易に想像出来る。


「いいじゃん。そうしてよ」


 なるほど、どうやら悲しいことにこの世には無償の愛というものは存在しないらしい。みんなとただ仲良くしたいと思うことはそんなに妙なのだろうか……いや、僕だって分かっている。自分が何かしら間違っているのは知っているんだ。


「確かに、僕はみんなと友達のままが楽で良いと思ってるけどさ、でもこれってそんなに悪いことなのかな? 恋愛以外にもこの令和の時代には楽しい事だって一杯あるんだから、僕にはそれで充分だよ」


 恋愛の素晴らしさを書いた小説を読んだ。尊さを描いた映画を観た。切なさを歌った曲を聴いた。幾つかの告白を受けた。そしてそれは、どれもこれも素晴らしいもので、でも……どうにもピンと来なかったのだ。色々試行して思考を重ねたけど結局僕は、どうしても自分でするべき理由が思い当たらなかった……理解しているけど、どうにも煩わしく思えてしまったのだ。 


「この気持ちは理屈じゃ語れない。僕の感情が一人で気楽に居ることを望んでるんだ。色々と面倒でやりたくないからしないと決めた」 


「はいはいもう分かった分かった。優太はとてつもない面倒臭がりでとんでもなく面倒臭い社会不適合のクズ男だって事は充分分かったから」


 円香は両手を突き出して、僕を制止した。表情には若干ではない程の『ドン引き』の色が窺える。心外な態度だが悔しいけど……認めるしかない。確かに僕には『ドン引き』される理由があるのだろう。


「手を繋ぎたいとかくっつきたいとかそういうのも無いわけ? カップル見て羨ましいとか。クリスマスやバレンタインの時とか、一人で寂しいって思わないの?」


 これは意味の無い問い。自分が幸せかどうか他人と比べてどうするんだ? とは思うけど、どうにも真剣に聞かれているようなので一応、想像を膨らませて考えてみる。


「羨ましいとか寂しい、か。確かに思うことはあるかな……でも、仲睦まじいカップルを見ているとこう、何というか、どちらかといえば心が清らかになっていくのを感じる。例えばこの二人はどうやって付き合ったんだろうとか、好きになったきっかけは? 告白はどっちからだった? 伝えた手段は? 最初に手を繋いだシチュエーションはどうだった? そんなカップルが迎えるクリスマス、バレンタインは緊張と幸福のピーク。二人の内、彼氏の心臓はバックバクで財布の中身はすっからかん。何せその手には少々無茶をした高額なプレゼントがあった。喜んでもらえるだろうかという不安と後悔が押し寄せて、でもいざ彼女に渡した瞬間の笑顔を見た頃にはもうそれはどうでも良くなってしまったのだった。彼女は彼女で、前日の夜に鏡の前で入念にチェックしたであろう気合の入ったおしゃれを褒めてもらえるだろうか、何時間も悩んで選んだプレゼントや、喜ぶ顔を想像して一生懸命に作ったチョコは美味しいと言ってもらえるだろうかと……うん。そんな光景が頭に浮かんで、すると、まるで破壊されていた脳が再生していくような、そんな穏やかで暖かい感情が僕の胸に湧き上がる。羨ましいよりも微笑ましいが勝つ。いつまでもこの尊い二人を見ていたい、幸せであって欲しい」


 だが自分でやるとなると面倒という話。喧嘩とか浮気とかのいざこざを、当事者になればそういったデメリットも引き受けなければならないだろうし。


「キモっ」


 語りに語った後、見れば彼女からはこれでもか程のじとっと張り付く横目を向けられていた。


「もしかして頭の中ハッピー少女漫画で出来てるの? 現実に夢見過ぎ。女の子は皆がヒロインじゃないし、いつまでもプリンセスじゃない。もっとドロドロでぐちゃぐちゃで陰湿で残酷で……優太だって良く知ってるでしょ」 


 言って円香は窓に視線を送った。細められた視線は呆れか諦めか、どちらにせよ人を「不適合」や「クズ」呼ばわりした者の表情とは思えぬ程に憂鬱に染まっていた……そうだ、確かに僕は良く知ってる。君がそういう顔をせざるを得ない理由も。


 それから彼女は何かを思い付いたのだろう、「じゃあさ」と徐に口を開く。


「例えば、例えばだけど、優太には何も望まない。ただ傍に居てくれるだけで良くて、それで、そんなことを言う人が居たら優太は……彼女にする? 面倒って言うなら形だけでもとか」


 時折引っ掛かりながら最後は恥ずかしそう顔を背けて、そうして言い終わった後に足を組み直したりなどもしていて……もしかして誘惑でもしているつもりなのだろうか。それともただの緊張の現れか。どちらにせよ大変可愛らしいと思うけど。


「好きでもないのに付き合うのは相手に失礼じゃない?」


 だが僕が答えると、そんな愛らしさは一変し何処かへ消え失せた。


「この社会不適合者、こじらせ童貞のクズで女の敵め。いつか痛い仕返しを食らっても知らないから。精々夜道に気を付けなよ」


「……社会って生き難いね」


 善意を向けたら、好意という刃を受け取らねばならない世界は。誰かを恋愛的に好きでいなければ「不適合」と言われてしまうし。


「優太がそうしてるだけでしょうが」


 さて、疑問の幾らかは解消出来たのだろう。円香は額に手を当てた勢いのままで後ろに、足は床に残して僕のベッドに倒れ込んだ。しかし……スカートを履いていることは忘れているらしい。


「その体勢だと下着が見えるよ」


 指摘をしたら、彼女は勢い良く上体を起こした。頬が真っ赤に染まっていたから、今度はどうやらわざとではないようである。


「……デリカシー」


「君以外の相手ならもっと遠慮するけど。でも今更だよ。こうして僕が本音を言えるのは、家族以外では君くらいなんだから」


 僕が言うと円香は一度大きく見開いてから、何とも形容し難い表情をこちらに向ける。眉間に皺を寄せて視線を細く尖らせ、何かを告げようとした口を結んで開いたりして、


「私だってそうだもん」


 ポツリ呟くと、再びベッドに倒れ込んだ。但し今度は足までしっかり布団の上で完全に眠りに落ちる体勢。というかそもそも僕のベッドなんだけどなあ。それこそ別に今更だが……今更だけど円香はまだ、こんな僕を好きなのだろうか?


「あ、今日はここに泊まるから。そのつもりで」


 どちらにせよ春休みの始まりは、賑やかになりそうである。

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