5 あなたのいない世界

5-1

夏休みが終わり、暑さの残る九月の図書室は相変わらず冷えていて気持ちがいい。


栞は窓側の一番奥の席から三つ目の席に座っていつものように本を読む。いつもと違うのは、堀北が一番奥の席に座っていないこと。


堀北はまだ学校に来ていない。たまに連絡が来たり、栞から連絡をすることもあるが、毎日というわけでもない。


堀北がいることが当たり前になっていたが、これが栞にとっての日常だっただのだ。ただ学校に来て、本を読んで帰る。薬物中毒のように、一度知ってしまった喜びは失うと前よりも喪失感を抱く。堀北のいない世界はこんなにも退屈なものだったのだと思い知らされる。


しかし前までの日常と違うこともある。栞は家の最寄り駅に着いてから本屋へは寄らず、夕飯を作るようにした。自分の分と両親の分。両親のものはラップをかけてテーブルに置いているが、今のところ手をつけてはもらえず、毎朝栞が捨てている。


それでも栞は毎日三人分の食事を作るようにした。食べてもらえなくても、栞にとっての両親はこの世であの二人しかいないのだから。


本を読んだ後は記録を取るようにした。読んだ日付と簡単なあらすじ、自分が感じたことと考えたことをまとめ、堀北が好きそうな本は分かりやすく別の場所に置いておいた。


あともう一つ、栞はなにもしない時間を作った。何もしない時間はどうしても考え事をしてしまう。しかし、今の栞にはそれが必要だと判断した。現実について、これからについて、ちゃんと考えることから逃げないために、家の近所を散歩したり、最寄り駅より一つ前で降りたり、一つ先で降りたりして歩いて帰っている。


いつものように本を読んでいると、近づく気配を感じて栞は顔を上げると、そこには堀北のクラスの担任である木下が立っていた。 図書室ということもあり、栞に手招きをした木下は栞が立ち上がると廊下へと誘導した。


「急に悪いな」


「いえ、何か私に用が?」


「ここだとあれだから場所を変えよう」


生物担当の木下は生物準備室に栞を連れていった。栞に椅子に座るよう促し、木下は机に寄りかかった。


「単刀直入に訊くが、堀北と仲が良いだろう?」


「はい、堀北は友人です」


「じゃあ、彼の病気のことは知っているな?」


「……はい」


木下はふぅと短く息を吐き、腕を組みながら言葉を選んでいるようだった。


「俺は堀北の担任だからあいつとたまに連絡を取っているんだ。それで花木、君の話を聞いた」


「はぁ」


栞はこの話がどこに行き着くのか見えず、曖昧な返事をした。


「堀北の病気のことは二年の先生、あとは花木しか知らないことだ。まずはくれぐれも他言しないように。これは堀北の望みでもある」


「心配しないでください。学校に友人はいませんから」


「そうか……」


木下は友人がいないと堂々と孤立宣言をする生徒に何を言えば良いのかわからず困った様子だった。


「あとは、これは万が一の話なんだが、堀北がこのまま入院を続けるようなら、あいつは留年するかもしれない。これは、制度上避けられないことだ」


話を聞きながら、なぜ木下が栞にこんな話をするのかわからなかった。堀北が留年してしまうのならそれは仕方のないことだ。


「すまん、俺も上手くは言えないんだが、あいつは気丈に振る舞って、もともとしっかりしているやつだ。だが、私から見ればやはり高校生だ。あいつの口からはよく花木の話が出る。だからだな……その……」


木下は膝にてを置いて頭を下げた。


「堀北とこれからも仲良くしてやってくれ。これは教師として、そして一人の人間としてのお願いだ。あいつは今頑張っている。そして花木をとても信用している。こんなことを言うのは教師としてもどうかと思うし、大人として情けない。だがどうか、あいつを見捨てないでやってくれ」


木下は教え子が重い病を抱えているという状況に置かれたことがないのだろう。それは多くの人がそうだと思う。木下も何もできない自分に不甲斐なさを感じているのかもしれない。


「木下先生は、良い先生ですね」


栞の言葉に顔を上げた木下は怪訝な顔をしていた。


「これだけ生徒を思っているんだから、堀北も幸せだと思います。もちろん、私は堀北の友人を辞めるつもりはありません。たとえこの先、どんなことが起ころうとも」


「……驚いたな」


「何がですか?」


「いや、周りの先生から聞いていた人物像と全然違うからな。やはり生徒とはしっかり向き合って話さないとわからないものだな」


木下が驚くのは無理もない。恐らく花木栞という生徒に抱いている先生の印象は間違っていない。ただ栞が堀北と出会って、少し変わったということなのだろう。


話は終わり、木下と生物準備室を出た。


「すまなかったな、急に呼び出して」


「いえ」


「あとこれは少し野暮なのかもしれないが……」


木下は言いにくそうに口ごもっている。


「なんですか?」


「その、花木は堀北と付き合っているのか?」


栞は驚いて否定した。堀北が恋人など考えたこともなかったし、栞では堀北に釣り合わない。


「そうか、いや、なんというか、彼女だからとか友人だから辛いという話ではないのはわかっているんだが、もしそうなら男の俺には理解力が及ばないかもしれないから女性の先生とも話してもらおうかと思って」


そこまで生徒について考えている木下なら十分だと栞は思った。今まで人に無関心だったのだから教師についてもきちんと考えたことはなかったが、大人の中にも人のことを思い遣ってくれる人がいるのだと知れただけ良かった。


木下と別れ、栞は再び図書室に戻って本を開いたが、頭は別のことを考えていて内容なちっとも入ってこなかった。


頭を巡っているのは堀北を恋愛対象として見ているのかということだ。栞はまだ恋をしたことがない。そもそも人に興味を持っていなかったのだから妥当と言えるが、今まで読んできた物語にはもちろん恋愛ものもあった。


しかし、登場人物が抱くような誰かに憧れを抱いたり、期待をしたり、それが理由で喜んだり、苦しんだり、という感情を栞は知らなかった。


今、栞は堀北に対してどのような感情を抱いているのだろうか。友情、尊敬、信頼、憧れ。これらは果たして恋愛感情に含まれるのだろうか。考えても答えはでなかった。


栞は本を閉じて立ち上がると、誰かに相談したくなった。人を頼りたいと思ったのは初めてかもしれない。


堀北本人に尋ねるわけにはいかない。では栞には誰が残っているだろう。話を聞いてくれる第三者。


その時ふと一人の顔が思い浮かび、栞は急いで荷物をまとめてその人のもとへと向かった。

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