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図書室の扉を開けると、堀北は窓際の一番奥の栞が自分の席と勝手に決めていた席に座っていた。堀北は真剣な表情で本を読んでいた。


栞も昨日と同じく一つ席を空けた隣に座った。栞が椅子を引くと、堀北は顔を上げて、栞が貸した本を鞄から取り出した。


「すごい良かった! 感動した!」


「もう読んだの?」


本を読み始めたのは最近からと言っていたが、先ほどの堀北の表情からしてもともと読書は好きなタイプなのかもしれない。


「帰ってからずっと読んでた。あ、そうだ」


堀北は本のページをパラパラと捲り、真ん中の辺りで見開いた本を栞に向けた。


「俺このシーンすごい好きだった。これから戦いに出る主人公と、それを待つ恋人の束の間の一時ひとときってやつ? 『これから苦しい思いをすることはわかっているけど、だからこそ笑って過ごしたい』ってもうさ、枕びしょびしょ」


「私もそのシーンは好きだな」


「ホントに!」


しかし栞がそのシーンを好きな理由は恋人同士の境遇が切ないとか、主人公が良い台詞を言ったとかではなかった。このシーンの描写が好きだった。文章を読めば、澄んだ空に浮かぶふわふわとした雲、時折吹く風に芝がなびき、野草の花がちらほらと咲いている穏やかな景色が、ありありと想像できて、あたかも自分がその場所にいるような感覚が味わえた。栞にとって登場人物の心の機微よりも、物語の世界が鮮やかな方が好きだった。


「なるほど」


栞の解釈を聞いた堀北は何度か頷いた。


「本の話するのって楽しいね。違う見方があるんだって思えて面白いよ。花木さんは心が豊かだね。文字を読んだだけでそんな素敵な景色が見えるんだから」


栞は堀北の言葉に驚き否定した。栞の心が豊かなはずはない。親に愛されず、友人もいない、現実から逃げている栞の心は冷めきった石ころのようなものだ。


「私の心は豊かじゃない。他の人より少し想像力が豊かなだけであって、人を思い遣る心も、愛する心もわからない。登場人物に興味がないんじゃなくて、共感できないの。私にはその気持ちが文字として理解できても、どういうものなのかわからない」


思わず語気に力が入り、堀北を見ると案の定驚きの色が伺えた。栞は小さくごめん、と言って当てもなく図書室に視線を泳がせた。


「そんなことないと思うけどなあ。実は俺、花木さんが毎日図書室に来てること知ってたんだ」


栞は驚くと同時に、続く堀北の言葉に不安になった。いつも一人でいる孤独な人だと言われる気がしていたが、栞の予想は外れた。


「俺実は野球部だったんだ。ほら、髪短いでしょ? 日焼けもしてるし。たまに練習中に図書室の窓見るとさ、校庭を見てる人がいるなーって思ってた。しかも結構な頻度でいてさ。その人は羨ましそうだけど、どこか諦めてるというか、目が虚ろだったんだよね。確かにそこにいるんだけど、別の世界に目を向けてるみたいな。それでこの前初めて花木さんに会って、あ、この人だって気付いた」


「よく、そんな人に話しかけたね」


栞なら、いや、大抵の人はそんな暗い空気をまとった人に話しかけないだろう。栞は概ね堀北の思った人物像に当てはまっていたし、やはり堀北は変わっている。


「でも話してみたらもっと興味が湧いてきた」


堀北はそう言うと目に痛いほどの笑顔を栞に向けた。栞はその時、人の笑顔を最後にしっかりと見たのはいつだっただろうと考えていた。


「ちょっと来て」


堀北は立ち上がり、栞に窓の外の景色を見るように促した。


「雲が流れて、風が吹いて、校庭には部活をしてる生徒がいて、時間が流れてる。現実も悪くないと思わない?」


栞は堀北に見透かされているような気がして急に怖くなった。栞が物語に逃げ込む弱虫だと言われているようだった。


「でも、現実は変わっちゃう。物語は変わらないけど、現実は物語みたいに進み方も終わりも決まってない」


「だからいいんじゃん! 一瞬一瞬がそれきり、もう二度とやってこない。こうして今花木さんと話してる時間ももう二度と戻ってこない。だから儚くて、苦しくて、尊いものなんじゃないかな。俺は、今を精一杯生きたい。後悔したくない」


普段の栞なら、堀北の言葉を暑苦しいものだと嫌気が差していたかもしれない。しかし、堀北の言葉にはそれ以上に重みがあった。まるで、生き急ぐ人のようだった。


「大丈夫。花木さんは心が豊かだよ。だからさ、もう少しだけ現実を、今を生きてくれると俺は嬉しいな」


なぜ友人でもない堀北が栞をそこまで気にかけるのか理解できなかった。


「でも私は今まで人と関わらないで本ばかり読んでた。そんな私の心が豊かなはずがない」


「だからだよきっと。本の中のたくさんの世界が、物語が、花木さんの心を豊かにしていたんだよ。物語は変わらないって言ってたけど、変わらないたくさんの世界が花木さんの中にあふれて色褪せないんだよ。完結した物語も、活字の中で、花木さんの中で生き続けてるんだよ」


栞は堀北の口から出てくる言葉に尊敬の意を抱いていた。堀北のように前向きに物事を捉え、こうして素敵な言葉で相手に伝えることができる堀北を素直にすごいと思った。


「あ、ごめん、今日はもう帰らないといけないんだ」


堀北は時計見てから借りていた本を栞に返し、それじゃあと言って栞から離れ、図書室から出る前にもう一度振り返って栞と目を合わせた。


「また明日ね」


堀北が出ていって空っぽになった空間を、栞はしばらく見つめていた。

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