第26話 犬が走る

 奈良と言えば……。

 ええっと……。

 奈良と言えば……?


「あれ? 奈良と言えば何だ?」


 愛車のシエンタを転がしながら、鹿目征十郎しかめせいじゅうろうは首をかしげた。さすが奈良、見事に何も思い浮かばない。


 鹿目は今、大和川に架かる橋を東へ渡って、赤の点滅を続けている信号の下を通り抜けた所だ。

 さびだらけの車が数台、玉突き事故を起こしたままの形で、道の脇に放置されていた。


 菜月のお使いの為に、お隣の大和郡山市やまとこおりやましや王寺町へと、斑鳩町いかるがちょうを飛び出して西へ東へ動き回った。ずっと、国道二十五号線上を行ったり来たりしているだけなので運転は楽なのだが、主要道路がこれだけしかなければ、大層混雑するだろうと鹿目は思った。

 車で観光に来た家族連れは、まず、渋滞にはまって体力を奪われ、疲れた家族からのクレームによって、あるじは気力をけずられる。

 旅行とは、元来そういうものだと思えるならそれでいい。だが、せっかく来てもらったのだから、次もまた来てもらえるように、気分良く帰ってもらうべきだ。


 鹿目は、どうでもいい事を考えているのに気が付いた。

 魔都化が進んでいるせいで、国道を走る車など、ほとんどいない。

 渋滞など異次元の出来事だった。


 助手席や、収納スペースに段ボールが積まれている。

 充分な量とは言えないが、菜月から頼まれた食材を残らず集めることが出来た。車が故障して立ち往生なんて事も無かった。

 順調と言えるだろう。

 汗水垂らして働いていると、奇妙な充実感に包まれて、鹿目は知らずのうちに笑顔になる。

 神使しんしを辞めたら、こんな生き方も悪くないと、ふと思った。


 運転席側にはドアが付いていないので、スピードを落としながら車を走らせていた。

 帰りにまた法隆寺の南大門なんだいもんへ続く、松並木まつなみきの前を通る羽目になるが、最終目的地の前を、何度も通り過ぎるのには慣れてしまった。もう、なんの感情もわかないだろう。


 

 暫く走っていると、鹿目の視界の右隅に白いものが映った。

 サイドミラーが右側にはないので、気付くのが遅れて接近を許してしまったと思った。

 急いで振り向き正体を確認すると、雑種と思われる白い犬だった。大きさはそこまで大きくない。荒い息をつきながら、鹿目のシエンタと並走している。今にもこっちに飛び移ってきそうな勢いだった。


「ワンちゃん。危ないから離れてくれよ」


 風の音に負けないように鹿目が声を出すと、ワンと一言、犬は返事をするように吠えて鹿目を追い抜いて行った。

 速度計を見ると四十二キロだった。

 犬は、こんなに速く走れるのかと鹿目は驚いた。


 白い犬は、矢印のように進みながら、鹿目の車の前を右から左へと横切る。百メートルぐらい先に見えてきた法隆寺の松並木にさっさと辿り着くと、そのまま南大門へ続く参道に消えていった。

 一連の動作が全て、どこぞの諜報部員のように洗練されて見えた。


「お、お~い……。そっちには法隆寺がいるぞぉ。危ないから気を付けてねぇ……」


 まさか、化け物が憑りついた法隆寺も、犬一匹を本気で相手にする事はあるまいと、鹿目は松並木の前を通り過ぎる。

 過ぎる際に、参道の途中で立ち止まって、舌を出している白い犬が見えた。

 一瞬であったが、犬の両脇に生えている松の並木が、動き出したような錯覚がした。

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