第3話

 残業もそこそこに仕事を切り上げて、家に帰宅する。

 リビングからはシチューのいい匂いがして、スーツのまま玄関から直行した。

「ただいま」

「あら、お帰り。遅かったわね」

「うん。それより飯、先に食べる」

「はいはい、温めるから手を洗ってきなさい」

 母がテーブルで読んでいた本を閉じて台所に行き、鍋に火をつける。

 ソファーには膝の上に猫を乗せて、父がのんびりと音楽番組を見ていた。テレビを見ながら、何気なく父が口を開いた。

「奏翔。このバンドの出身校、お前の行ってた大学らしいぞ」

「へぇ」

 父の言葉に、また胸に鈍い痛みが走る。

 知っている。僕の憧れの人達だ。音楽を続けていたのは、彼らの背中を追いかけていた影響もあった。自分もいつかテレビやラジオに出てみたいと思っていた。だが、それも今となってはもう関係がない。今日は、何故かやたらと音楽の話をされる。

 正直、もうあまり考えたくないのに。

 僕は、逃げるようにリビングを出ていく。背後から母の呼び止める声が聞こえたが、返事をせずに自分の部屋の扉を音を立てて閉めた。

「ふぅ」

 鞄を床に放り投げ、首元のネクタイを緩めてベッドに飛び込む。何も考えたくない。折角ギターと一緒にクローゼットに押し込めていたのに、の姿が思い浮かんでしまう。

 僕の奏でるギターの音に合わせて、楽しそうに身体を揺らして笑う彼女。

『奏翔がキダーを弾くとまさに名前の通り、音が翔ぶように楽しげに奏でられてて、わたしは好きだなっ』

『そんなこと言うのは、琴音ぐらいだよ』

『えー、そんなことないっ。奏翔の音楽に魅了される人は他にもいるよ!』

『だといいけど』

 彼女はいつも笑っていた。そして、僕に夢を与えてくれたのだ。

『奏翔は将来、歌手になりたいとか思わないの?』

『歌手かぁ。考えたことなかったな』

『奏翔なら歌手になれると思う! 弾き語りも上手いし』

 琴音は僕のことを褒めちぎった。当時、褒められて嬉しかった僕はその言葉を真に受けて、本気で歌手になろうと思った。ただ、恥ずかしかったから本人の前では少し嘘をついていた。

『んー、そうだなぁ。でも音楽関連の仕事はしたいな』

『うん、いいと思う! もし奏翔が歌手になったら、歌を作ってね』

 何故か、最後の彼女の言い方に引っ掛かりを覚えた。だが、琴音へのメッセージを込めた歌を作ってほしいということなのだろうと勝手に解釈して、深くは考えずに僕は返事をした。

『わかった』

『約束だよっ』

 彼女は今までで一番嬉しそうに、満面の笑みを浮かべていた。

 けれども、その会話を最後に彼女は公園に来なくなった。その時になって初めて連絡先もどこに住んでいるかも、何も彼女のことを知らなかったことに気付き、後悔した。公園に行けば、ずっと毎日会えるものだと勝手に思い込んでいたのだ。

 確信はないけれど、音楽を続けていれば、いつかどこかでまた会えるのではないかと不思議と思えた。

「琴音、元気かな……」

 音楽とは関係ない道を選んだのは、自分だ。

 約束を果たすことができない僕には、琴音に会いたいと思う資格はない。

 だけど、一度でいいからもう一度彼女に会いたい。

 無性に、彼女と話したい気持ちが募る。

「琴音に会いたい……」

 昔の彼女の姿を思い出しながら、そのままゆっくりと目を瞑る。癖毛のショートカットで、音符柄の白いワンピースをよく着ていた。いつも真っ直ぐに僕を見つめる茶色い瞳。

〈奏翔、見損なったよ〉

 ぼんやりとが耳元で聞こえた気がした。

 ああ、そうだ。こんな声だった。

〈ねぇ、聞いてる?〉

 聞こえるはずのないが、やけに近くで響く。

 少し、仕事で疲れているのかもしれない。

 ちょっとだけ眠ろうと思い、寝返りを打った時だった。

〈ちょっと、いつまで目閉じてるのっ〉

 さっきより鮮明にがした。

 慌てて目を開けると、懐かしい姿が目に入る。



 


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