第9話 過去編④

—4—


 2005年4月



「なんでやめたんだ大学。勿体ない」

「親戚のおっさん気取りかい」

「そういうんじゃない」

「説教かましにきたなら祠にかえれ」

 俯いたまま団子を丁寧にひっくり返す小倉山環に、龍神はそれ以上何かを言うのをやめた。

 京都の誇る最高学府に通う秀才が一族から出たとあって、当時は大いに盛り上がった。父親など三日三晩酒宴を続けたほどだ。当然、龍神の記憶にもそれは新しい。あれほど祝われたことならこそ、自ら手放すのが実に惜しいことのように思えた。

 嵯峨野の龍神には代々仕えている神職の一族がある。その跡取りである小倉山環はしかし、許嫁との縁談も学問に専念したいからと破談にし、その上で大学をやめてしまった。怒り狂う父親のもとを離れて一人、嵐山の観光地で団子を炙る環のもとへ外回りついでに龍神がやってきたのは、自らに仕える小倉山の一族を無碍にできなかったというのが大きい。ちょうど外回りの仕事が片付いたばかりだった。小倉山の名義で契約した携帯電話は仕事用だが、専ら電話をかけてくるのは小倉山その人だった。龍神が人の世に本格的に混じり始めて15年の月日が流れていた。


 15年も経つ。龍神が世俗を覚え、人の世に感化され、清掃社を設立してからそれだけの時間が経ったが、相変わらず彼はどこかがずれていた。

 元々が千年近く山に引きこもって雨を降らせるだけだった無害な龍である。突発的に何人かの人間と交流を持ったこともないではないが、遠出は滅多にしないし、友人の墓参りにたまに西宮か神戸あたりまで出向くのがやっとだ。洛中で狐狸の類や同族のものと交流を持つことはないでもないが、彼らは同様に人の世に混じろうと苦心するではないし、そうして俗に染まろうとする龍神をどこか疎んじるような、呆れるような目で見ていることにも気付いていた。物好きな奴もいたものだ、と思われることには慣れている。どうあるのが正解かもわからない。幸いにして嵯峨野の山は都の外れであることも手伝って手付かずのままで残っており、どう生きるかは文字通り龍神の匙加減ひとつで決められると言ってよかった。

 龍神は清掃社の設立に恩のある小倉山の一族を捨て置くことができなかった。それどころか、当主の子が駄々を捏ねるのを宥めにくる始末である。これではどちらが仕えているのかわからない。その神としてのプライドの低さがまた環の機嫌を損ねていく。

「これ食うたら帰り。親父ずっと切れとるやろ」

「ブチギレだ。手が付けられない」

「子が意のままになるわけあらへんやろ。龍神かて、機嫌悪なって土砂降りの雨降らしよる。天気も意のままにならへん」

「それはそれだろう。ちゃんと戻ってやれ。子供の言い訳じゃなく、本当のことを言えばいい」

「何やの、本当のことて」

 龍神は言葉に窮する。環が親に秘匿していることは龍神にはわかっていたが、それをどう言語化したところで環の機嫌をさらに損ねることがわかる。知ったような口をきくべきではなく、本人の言語化を待つべきだ。十年ほど前に見たドラマでこういうやりとりがあった。地上波のドラマは龍神にとって、世のことを学ぶに格好の教材だった。進言したのは蛇島であり、ことに俗世間の些事に関して龍神は蛇島にある種の先達としての憧憬があった。

「ええねん。おっさんは黙って団子でも食うとりゃ」

「……焼いてくれたのか」

「おごりちゃうで」

「違うのか」

 龍神はまた、この十五年で学んだものがあった。甘味である。この京という街は日本最大の観光地であることも手伝って、こと喫茶、甘味に関しては話題に事欠かない。さらに大阪、神戸、芦屋、西宮といった阪神間は押しに押されぬ洋菓子の聖域であり、名だたる名店が軒を連ねる日本有数のスイーツ先進地でもあった。時を同じくして、近年高まりつつあるスイーツ需要と情報化の加速が次々と龍神の欲求を満たしていく。緑茶、抹茶のスイーツが近年は殊に浸透し、観光地では確実にそれらの需要が高まっていた。

 小倉山が焼いている団子も、かつてはみたらしと、よもぎがあれば十分贅沢だったのだ。だが今は抹茶のアイスともなかのセットが一番人気だと言う。龍神は甘味なら何でも好んだが、抹茶アイスよりは抹茶と茶菓子の古風な取り合わせがより良いと思っている。本音を言うなら洋菓子には目が無い。しかしこの茶房では、気の利いたバウムクーヘンやガトーショコラなどがあるわけでもない。

「神さんて、酒が好きなんやと思うてたわ」

「酒も好きだ。甘味も好きなだけだ」

「おっさんみたいなん、両刀言うんやで。両刀使い」

「ふうん」

「とにかく親父には帰らんて言うてくれる」

 伝言を言付かっている間、環は店を放っていた。あのう、という控えめな声がしたのに先に反応したのは、軒先に視線を泳がせていた龍神だった。どう小倉山の父親に言い訳をしようか思案していたのである。渡月橋に程近い一角の通り沿いにはバス停がいくつもあって、嵐山を目指してやってくる観光客の目にも留まりやすい。特に休みでもなく繁忙期でもないからと言って店を放置するなどもってのほかだと思いながら、龍神は小倉山に声をかけた。

「あ、すんまへん。お待たせしました」

「こちらのお団子を二つ」

「はい。お持ち帰りですか」

「いえ、ここで。焼いてもらえるんですよね」

「もちろんです。お茶サービスで出しますさかい、掛けてお待ちください」

 龍神は黙ってベンチ席の片方を開けた。立ち去ろうかと思ったが、まだ茶は熱いままだった。不似合いなくらいの熱湯で出してくるのは小倉山の嫌がらせなのか。冷めるのを待って、客の女性に譲るのが自然な流れだ。

「すみません」

「いや」

「あ」

 女性は龍神の湯飲みをじっと覗き込み、茶柱が、と言った。確かによく見ると茶柱が立っているようにも見えなくもない。

「初めて見ました」

「……吉兆だと言いますね、こういうの」

「ですよね。でもどうやったらなるのか全然知らなくて」

「目の粗い茶こしで安い茶を入れるとなりやすいんですよ」

 龍神は茶柱の立て方を初対面の人間の女性に懇切丁寧に説明した。元は安価な茶を売るための世俗の方便であった、とも。遠回しにこの店の茶がそれほど上等のものではないと言うことに繋がるが、無料の茶であれば然もありなんである。女性があまりに興味深そうに覗き込んでいたので、龍神は手付かずの湯飲みを茶托ごと譲った。

「どうぞ」

「え?」

「縁起が良いと思うのも、これまた信心からです。鰯の頭も、と言いますから。俺はそういうものに関心がないので。手付かずですし、そろそろ冷めて飲みやすい頃合いです。ここの茶は熱すぎるので」

「お店の方じゃないんですね」

 それはそうだ、と思った。今の龍神の装いは外回りの後で、つまりは半分作業着だった。服装には社名こそ入っていないが、普通のサラリーマンの装いではない。女性はありがたく、と深々と頭を下げて茶を受け取った。案外熱いものが平気らしく、団子が焼ける前に飲み干してしまう勢いだった。

「お待ちどおさまです。ありゃ、お茶先に持ってきた方がよかったですか」

「いえ。縁起の良いお茶を譲っていただいただけです」

「ほんまどすか。へぇ。ほな、ごゆっくり」

 小倉山の目が何か言いたそうに龍神を刺したが、龍神は黙って受け流した。立ち去ろうとするが、女性はそっと茶托のくっついたままの茶を差し出す。

「こちらはぬるめで飲みやすいので、よければ」

 自分にはいれたての熱くて飲めない茶を。女性客にはぬるくて飲みやすい茶を。環の嫌がらせに龍神はぐっと眉根を寄せつつ、客商売で鍛えた愛想を何とか保った。

「ありがとうございます」

 そもそも茶托がくっついている。頭はいいが一般常識の欠けた従属の一族の跡取りを憂う気持ちは、父親ほどではないが龍神にもかすかにあった。


「つかぬことをお伺いしますが」

「はい?」

「私その……待ち合わせ相手に、約束を反故にされまして。突然のことだったので、今日は一人で嵐山に来ることになったのですが、一人でも楽しいところでしょうか、ここは」

 串が皿の上に散らばった頃、女性はそのようなことを言い始めた。龍神は思わず時計を見る。今は午後、日没まではあと3時間といった頃合いだ。寺社仏閣は多くのところが16時半には門を閉ざしてしまう。そうでなくとも、半ば山の麓に広がるこの一帯は日が暮れてからおいそれと出歩くものではない。一人でも十分に楽しめはするが、時間帯の妙があった。

「どうだろう。今日はもう、天龍寺でも見れたら御の字かもしれませんね。時間的な意味で」

「ああ」

「天龍寺は庭が広く見応えもあります。いかにも嵐山、という場所でもある」

「地元の方ですか?」

「最近のことには疎いですが、まあ一応は」

 嘘は言っていない。龍神は仕事で使っている書き込みばかりの地図を取り出して、今の店から天龍寺までの道を簡単に教えた。と言っても、道はほぼ一本だ。天龍寺の前を中心に嵐山という観光地が発足しているようなものである。よほどでなければ迷うことはないだろう。

「ありがとうございます。助かります」

「いえ。じゃあ、良い観光を」

 龍神は今度こそ立ち去ろうとした。が、立とうとした拍子に頭をぶつけた。この店の軒先には異様に背の低い天井があって、それを普段座らない方に詰めたが故に失念していたのである。がん、と思い切りのいい鈍い音を立てた龍神に、思わず女性が手を伸ばす。

「大丈夫ですか」

「……おそらく」

 普通の人の身ではない。さして大した怪我でもない。そういう龍神の頭を思わず、本当に思わず女性が撫でたとき、龍神の体に激震が走った。比喩表現で逆鱗に触れる、という言い方をすることがある。言わずもがな人の怒りの根源を揺さぶる暴挙を冒すことだ。しかし今、この状況下で、それは全く異なった意味合いを帯びていた。そのようなものが自分にあるとは思わなかった。あくまで感覚的で、概念的なものだ。それでも女性の手は確かに、龍神の「逆鱗」に触れた。

「は、」

「えっ? 本当に大丈夫ですか?」

「……大丈夫は、大丈夫なんですが」

 龍神は女性の心配そうな顔を見上げる。人間の美醜は神である龍神にはよくわからない。わからないが、もはやそれ以外の選択肢が存在しないようにしか思えなかった。食い入るように見つめてしまった。その視線に女性は居心地悪そうに、そしてやがて次第に目を潤ませる。直視。それは即ち、所有することに同じ。多くの宗教で神はその姿を人間に知覚されない。姿を見るということはそれだけ、互いの距離が近すぎることに他ならない。

「な、何ですか、あの」

「いや、俺にもよくわからないんだが……」

 手を引いてもらい、軒先に立ち上がる。頭をぶつけてよろめいたせいで、串は足元に散らばってしまっている。環が大丈夫かーおっさんと呑気に声をかけてくるが、龍神の耳には届いていなかった。おそらく、目の前の女性にも。

 見つけた。はっきりと、確信を持って龍神はそう思った。それはあまりに唐突で、前触れのない邂逅だった。




 結局、天龍寺には二人で連れ立って足を向けた。

 どちらから誘ったわけでもない。ただ、そうなるのが極めて自然であるように思えた。

 女は春海と名乗った。人影のまばらな天龍寺の庭を眺めながら、龍神の頭に刻み付けるように漢字を説明している。春の海。春の凪いだ海のそばで生まれた。母親が里帰り出産だった。元は丹波の出。龍神は春海が語る言葉に耳を傾け、その度に感じたことのない感覚に戸惑っていた。

「京都には大学進学で来て、今で二年目」

「住まいは?」

「今出川の辺り。今日は市営地下鉄で、太秦天神川からバス」

「そこまでしたのに、反故にされた」

「ひどい話でしょう。まあ、私もよく知らない人だったから……縁がなかったんですよ」

「よく知らない人間と、こんな時間に、嵐山」

「担がれてたのかもしれません。いいんです、友人の顔は立てたから」

「春海さんはあまり怒らないんですね」

「近しい人にしか。知らない人に怒っても疲れるだけで」

 龍神は春海さん、と呼ぶとき、かすかに焦れるような心を感じていた。もっと相応しい呼び方があるはずだ、とすら思った。まだ自分の方が名乗っていなかったことに気づき、慌てて名刺を出す。龍神清掃社。登記登録の際に運用し始めた泰貴、といういかにもそれらしい人間の男の名がこれほど役に立つことも今までになかった。

「泰貴さん。龍神さん。社会人の方なら、苗字の方が多いですか」

「そうですね」

「じゃあ龍神さん……龍はここにもいますね」

「というかまあ……はい、そうですね」

「拝観が終わっていたのは残念でした。また来たらいつか」

「割といつでもやってるんですよ。秋なんかは人が多すぎる」

 天龍寺の特別拝観である天井の龍は、龍神ではないが彼にとっても馴染みの深いものではあった。龍神はその話をしながら春海のことばかり考えていた。先に触れられて、捕らえられて、逆鱗を掴まれてしまった。これほど心がざわついたことはない。これほど心が誰のものでもないと思ったこともない。先ほど出会ったばかりだ。しかし、この十五年、蛇島との出会いを経てから人の世に混じって生きると決めた時から、こんな存在があったことはなかった。人は美醜ではない。心根も神と人ではよしとされるものが異なる。では何を口実に、何を理由に「ひと」を選べばいいのか。生来が真面目な龍神は、その「えらび」の基準を憂いた。出雲に出向いた際、知己の神に問うたこともある。人間を娶るのに理由などいらないと、誰もが口を揃えていった。だがそれではしっくりこなかった。少なくとも龍神にとっては、それは全く違うことだった。

「日が暮れますね」

 春海がしみじみと口にする。日が沈んで、この寺は閉ざされて、また元のように知らない人と神に戻るのだ。それは自然なことだが、正しくはないことのように思えた。また目があった。今度はどちらも、互いに逸らすことのない視線がかち合う。

「馬鹿馬鹿しいとお想いになるかもしれないんですが」

「はい」

「先ほど、あなたに見られた時から、何かを勘違いしているような気がしています」

「というと」

「普通は嫌なんです。知らない男の人と言葉を交わすのも、こうして時間をともにするのも。今日だって昨日から嫌で、明日にならなければいいとずっと思っていて。午前だった午後に約束が変更になって、結局行けないということになって、私とても……とても気が楽になって。それくらい、嫌なんです。本当は。でもこうしてあなたと一緒にいる。あなたと一緒にいたいと思って。これは何かの勘違いでしょうか」

 龍神は春海の手を握った。ここにも逆鱗がある。触れるたびにおかしくなりそうだった。これは、他の人間にはなかったことだ。人ではないというだけでこれほどのことがあるのか。春海は龍神の手を振りほどこうとしなかった。勘違い、と言った唇が震えている。言葉など野暮だ。しかし龍神はここで言葉を紡ぐのが「人」であると思った。

「見てしまったので」

「はい」

「俺が、あなたを見た。見つけてしまったので、申し訳ありません。見なかったことにはならないのです」

「どうしても」

「これも、たった数時間で何を言ってるんだと思いますが、掴まれてしまいました。俺も、このように」

 春海の手を龍神が強く握る。指が絡み、細い指に込められた力がしなるように春海の掌を突き抜けていった。このように。春海の目が濡れて、赤く染まって、龍神の心を見透かすように揺れる。それ以上は続けられなかった。つながった、という感覚は、何も現象だけを指すのではない。

「何も知らないのに、申し訳ありません」

「謝らないでください」

 春海はそれ以上は無理だ、と言わんばかりに俯いて首を振った。閉門です、と僧侶の声がかかって、どちらからともなく畳を立った。固く手を握ったまま。

 何も成し遂げなくても、成り立ってしまった。龍神は不思議な気分だった。千年間で初めての感覚は、柔らかい女の掌そのものであるような気がした。

 ひとけのすっかりなくなった昇降口で靴を履き、春海が外に出る。先ほどまでの控えめな夕暮れの紅は姿を消し、にわかに立ち込めた暗雲から針のような雨が降り始めた。人の心を学べば学ぶほど制御の効かない己の力を恥じるように龍神が俯くと、先を行く春海が楽しそうに笑った。

「今日は変な日。天気まで変」

 口ではそう言いながら少しも疎む素振りがない。龍神は春海が冷たい雨に濡れないように、それでいて溢れ出るような思いを止められないまま、匿うようにして春海の肩を抱いた。止まないことがわかっているから、少しでも女を濡らしたくなかった。


つづく

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