第2話 ぴえん超えてぱおん

「まじぴえんなんだけど」


 平和な町に響き渡る女の泣き叫ぶ声。この女、名は今井桃子という。死因は推しの車による轢死れきしとしておこう。

 死してなお、彼女は歌舞伎町ホスト桜庭レンのことで頭がいっぱいであった。


 おそらく、彼女が想像していたであろう、天国だか地獄が大河ドラマで目にしたことのある江戸の町によく似た景色が広がっているとは思いもよらなかったであろう。体も不自由なく動き、感情の起伏も彼女にとっては正常である。


 彼女はとにかく死んだ事よりも、桜庭レンの事でいっぱいいっぱいなのだ。


「あいつマジ何なん。誰のおかげで生活できてたか分かってなさすぎ」


大号泣したかと思えば眉間に皺を寄せ、怒声をあげる。そんな彼女を避ける様に通り過ぎていく町人達。

 彼女にとってはそんな事も気に留める必要がなかった。なぜなら、歌舞伎町でも彼女にとってそれが日常であったのだ。


 桜庭レンが別卓に着く時間が長かった日の朝は店前でしゃがみ込み、桜庭レンの痩身な脚を掴んで離さない。それを気の毒だ、と目を逸らし通り過ぎる街人達。何も変わらない。


「レンくんに会いたいよぉ!!」


 彼女はまた泣き叫び始めた。非常に忙しい女だ。


 すると、そんな彼女の肩に下心丸出しな皺ばんだ手が触れる。


「娘さん、大丈夫かい?」


 ねっとりとした男の声が彼女の耳元に囁く。途端に彼女は叫んだ。


「触んな!まじきもい。チカン!」


 肩に触れた手を払い除け、男を目にやると、その男の顔は見る見るうちに赤くなっていく。


「何なんだ!?この女は!こっちは助けてやろうとしたのに何だ!」

「はぁ?頼んでないんだが。てか何ムキになっちゃってんの。だから毛根も怖がって閉じてんだよ」

「お前‥!」


 男は片手で彼女の腕を掴み上げ、もう一方の手を振り上げた。

 彼女は殴られる。

 その場にいたもの全てがそう悟った。その時だった──


「おやめなさい」


 男が手を振りかざそうとした瞬間、女の凛とした声が響き渡る。



《注》

別卓:別席の事。基本的に指名ホストが被るお客さん同士は死角になる席に案内される。他のお客さんと指名ホストが仲良くしてる姿なんて見てて楽しくないもんね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る