第三十二話 呪いの子③

 ミケルセン邸の地下には、幾つか牢として作られた部屋がある。


 魔術師として触媒となるものを管理する為、というのが表向きの理由ではあるが、時間を操る魔法の完成を一意に目指すミケルセン家に生物の触媒は必要ない。


 例えばそれは、体内時間の操作に失敗して急速に肉体だけが壊れてしまった者。


 例えばそれは、体感時間の操作を誤り意識だけが不帰かえらずとなってしまった者。


 例えばそれは、時間の加速を目指して情報に耐えきれず狂ってしまった者。


 地下牢ここはそう云った者たちを閉じ込め、永久に無かったものとして扱う為の場所。


 ミケルセン家の中では侮蔑と憐憫、そして忘れようにも魔法に至らぬ限り屈辱を忘れることのできない皮肉を込めて『勿忘草わすれなぐさ』と呼ばれている。


 しかしミケルセン家が次第に魔術師を輩出できなくなっていることや、数年前に魔術の素養を持った男子が全て死に絶えてしまった事により、『勿忘草』に現在人はいない。


 ……その最奥にある薄暗く黴臭い一室に囚われた少女、マージェリー・ミケルセンを除いて。


 かつん。かつん。


 そして今や誰からも忘れ去られた地下に、二人分の足音が闖入ちんにゅうする。


 闖入者は少女の囚われた檻の前までやって来ると、口元だけを動かして実に嘘臭い笑顔を浮かべてみせた。


「やあ、ご機嫌如何かな? 可愛い可愛い、おれの小鳥」


「…………ユークリッド……!」


 闖入者……ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスとその従者バンコー・アウグスティヌスを、マージェリーがぎろりと睨みつける。


 血走った、怨みと殺意の籠った両目。まるで射殺す様なその視線を茶化す様に、ユークリッドはひとつ軽快な口笛を吹いた。


「なんだ、久しぶりに顔を見たけど随分と元気そうじゃないか。今日はまだ脱走しようとしていないんだって? 食事も摂っていない様だし……体調でも悪いのかな?」


「……赦さない……! アンタは、アンタだけは絶対に絶対に許さないわよユークリッド……! ……!」


 マージェリーの放った言葉に、ぴくりとユークリッドの眉根が動く。


「今、何と言った?」


「フリーデは必ず返して貰うわ……! 忘れない事ね、絶対に償わせてみせるんだから……!」


 ――妙だな。


 ユークリッドの魔法は【存在ウーシア】。存在の強さや性質を操ったり、存在そのものを消したり複製したりすることができる魔法。


 そして存在が消えるということは、対象となったものがそのまま、つまり初めからその世界には存在しなかった事になる。


 ありとあらゆる記録や記憶から対象の存在は失われ、魔法を使った本人であるユークリッド本人以外は思い出す事が出来なくなる。


 ユークリッドが消したフリーデ・カレンベルクという女は、初めから世界にいなかった事になっている。


 ユークリッドがイシュタリアとの交渉の中でフリーデの話題を出した際にも、彼女はフリーデという言葉には全く反応を示していない。彼女とフリーデは大戦時に同じ部隊にいたにも関わらず、全く思い当ってはいなかった。


 何より、。彼女が憶えていないなら、この世の誰もフリーデ・カレンベルクを憶えていない筈なのである。


 だがしかし、マージェリー・ミケルセンはどういう訳かフリーデのことを憶えている。


 それが何故起こったことなのか、どうしてマージェリーが……それがユークリッドにはどうしても解せなかった。


 ――記憶違いか? もしくは最期を看取ったから、まだ僅かに残滓があるのか?


「ねえ、小鳥マージェリー。その……何だ、フリーデ? とかいうのは一体誰のことだい?」


「……っ、ざっけんじゃないわよ! 元魔女狩り部隊イノケンティウス三番隊隊長、『緑の歌うたい』第四席、『聖者の左腕セファ・ガズラ』フリーデ・カレンベルクを忘れたとは言わせないわよ、ユークリッド! アンタがつい先日、消したばかりの人間でしょうが!」


 ――やはり、かなり鮮明に記憶が残っているのか……妙だな。


魔女狩り部隊イノケンティウスの三番隊隊長はニケ・カヴァリエーリだろう? 妙なことを言っておれを困らせるのは――」


 ぱん。


 ユークリッドが一度手を叩くと、瞬間彼の姿はバンコーの隣から消え、格子一枚隔てた牢の中へと現れる。


 ぞっとする程に冷たい視線がマージェリーを捉え、彼女は僅かに後ろへと退いた……否、退こうとした。


「妻としては減点せざるを得ないね」


 後退は適わなかった。蛇の如く素早く伸ばされたユークリッドの手が、マージェリーの首を捕らえて締め上げたからである。


 魔力で強化された握力によってあっという間に気道と動脈が堰き止められ、マージェリーが白目を剥いて手足をばたばたと動かして踠く。


「が……ッ、アッ……!」


? おれが存在を消したものは、文字通りこの世界から消えて失せる。対象への記憶も丸ごと無くなる筈だが、どうしてお前だけはフリーデのことを憶えているんだい?」


「…………ッ、……!」


 マージェリーの肌が土気色になっていき、口の端からあぶくが垂れる。


 もう間もなく、彼女の意識だか命だかが途切れるであろうその刹那……彼女の身体の中で、


「な――っ」


 ばちん、と音を立てて、ユークリッドの手がマージェリーの肌から弾き飛ばされる。それは丁度彼女の、何らかの力によって、彼の力の全てが拒絶されたかの様に、その時ユークリッドには感じられた。


 嘘の様に開いた、一瞬の空白。その空白の間に、マージェリーの身体は血と空気を取り戻し、ユークリッドの意識は沸き立つ様な苛立ちを湛える。


「……くそっ、このめす餓鬼がき……!」


「ユークリッド様ッ!」


 ぱり、と乾いた音を立てて、ユークリッドの手に魔力が奔る。


 それを見逃さなかったバンコーが鋭く叫び、その声によってユークリッドの意識は正常なものへと引き戻された。今ここでマージェリーを殺してしまえば、全ての計画は台無しと成ってしまう。何より、先程のニケと同じ轍を踏むのは彼の矜持プライドが許さなかった。


「ユークリッド様、これ以上は。お立ち退きを」


「……チッ、どうにも加減が難しいな」


 ぱん。


 ユークリッドが再び掌を叩くと、彼の姿は牢の中からバンコーの隣へと再び戻る。


「おい、マージェリー」


 ぜえぜえと喘ぎながら横たわるマージェリーを睨みながら、ユークリッドが言葉を続ける。


「今日は何も聞かないでおいてやる。ニケが来たこともあって、おれは今虫の居所が良くないんだ。うっかり殺してしまっては計画が台無しだからね。だから――」


 すい、とユークリッドの手が牢の格子をすり抜ける。まるで幽霊の様な彼の手がマージェリーを指し、爪の先は淡く緑に輝いた。


「だから、つまらない事はこれ以上考えるなよ。これ以上加減を間違えると、本当に殺しちゃうから……さ」


「ぐ……はッ、はッ、はッ…………」


 ――こんな小娘ひとりに、おれと母さんの世界を邪魔立てされて堪るものか……!


「明日また来るよ。その時にはもう少し、夫婦の生活へ協力的になってくれると嬉しいな」


 そう言い残して、ユークリッドがバンコーの肩に触れる。瞬く間に二人の姿は消えて、気配や魔力も地下から失せる。


 後に残ったのは、かびの匂いと静寂だけ。


「…………」


 湿った空気を吸って、マージェリーが自分の首元へと触れる。あの時、ユークリッドに首を絞められた時……何かの気配が自分の中にあることを、彼女は確かに悟っていた。


 その気配は、喉元と腹の辺りにある。喉と腹、そこが何を指すのかを……彼女はつい先日、身を以てっていた。


「フリーデ……?」


 喉と腹。それは先の戦いでマージェリーがフリーデに切り裂かれ、魔力を注がれた場所である。その場所には未だフリーデの魔力が胎動しているが、それ以外にも何か別の気配がある事を彼女はたった今感じていた。


〈――私には、……!〉


 頭の中で、マージェリーがフリーデとのやり取りの全てをなぞる。


「……馬鹿。ほんとに、ほんとにどうしようもない奴ね、フリーデ……!」


 やがて頭の中で一つの結論を出したその時……マージェリーの目元からはひと筋の涙が溢れた。



 その夜、大きな物音を聞いてマージェリーは目を覚ました。


 耳を澄ませば頭上ではばたばたと大勢が駆け回る足音が聞こえ、壁に手を付けて意識を研ぎ澄ませば気配や魔力があちこちへ動き回っているのが分かる。どうやら地上うえでは何か大きな騒ぎが起きているのだろうという事を、彼女は瞬時に理解した


 ――まさか、クリフ達がここへやってきたの?


 最初に考えたのは、クリフとノエルがここへと攻め入った事。それが最も確率が高い……否、それ以外の可能性はあまりにも薄い。だから真っ先に考えるべき可能性はそこだった。しかし屋敷のどこへ意識を巡らせても、クリフ達の気配や魔力は感じられない。


「クリフ達じゃない……勿忘草ここからでは状況が全く分からないわね」


 苦々しく、マージェリーがそう呟く。


 変化が起こったのは、その次の瞬間だった。


「――――ッ」


 ふと、誰かがこの『勿忘草』へと入ってくるのを感じ取って、マージェリーは素早く身構えた。意識を屋敷全体から勿忘草の中へと移し、彼女は僅かに唇を嘗める。


 ――魔力は感じないし、殺気も感じない。誰なの?


 気配は肌で感じるもの。殺気は鋭く冷たいもの。相手を殺すと決めた時、人の心は温度をうしなう。マージェリーはそう、クリフから教わっていた。


 気配は次第に、こちらへと近づいてくる。


 魔術師として天賦の才を持つマージェリーは、その感応力で近くにいる相手の感情を波や音色として読み取ることができる。


 近付いてくる者に敵意は無い。感じられるのは焦り、そして使命感だった。


 とても敵とは思えない。そしてその波長は、彼女のよく知る親しいものに思えた。


 ふっと風が吹き抜けて、灯りが消える。程なくして気配の主はマージェリーのいる牢の前へと到着した。


 暗闇の中で、二人が向き合う。永遠の様な数秒を経て、マージェリーは辛うじて問いかけの言葉を絞り出した。


「誰、なの?」


 恐る恐る、マージェリーが尋ねる。


 彼女の言葉に返って来たのは、呆れた音色の嘆息。


「…………可愛くないわね。たった一週間会わなかっただけで、もう私のことを忘れたのかしら」


 かつん。


 硬い音が一つ鳴り、闇の中に小さく灯りがともる。辺りで一瞬魔力が爆ぜて、辺りは仄かに明るくなった。


 グローム鉱石。主に魔界をその主要な産地とする、魔力を多分に含んだ鉱物。


 通常、無機物に魔力は宿らない。魔力とは通常、生物の持つ意思によって練り上げられるものであり、物質化させて持ち運べるものでは無い。業物とされる武器や魔術兵装であっても、使用者が魔力を自分で通さなければ術式や能力は発動しない。


 そして、仄明るくなった景色に在るその人物に、マージェリーは確かに見覚えがあった。……なかろう筈は無かった。


 長く伸ばした白金プラチナの髪。橙の光に照らされながらも青く深い輝きの褪せない青玉サファイアの双眸。背の低いマージェリーとは対照的にすらりと高い身体に燃える様な赤いドレスを纏っている。懐からは短剣が一本覗いていた。


「ヘンリエッタ姉さま……! どうしてここに!?」


 マージェリーの口から飛び出したのは、ひどく間抜けな一つの問い。


 その問いに応えるように、ヘンリエッタは腕を組んで、呆れた顔で彼女を見つめながら微笑んだ。グローム鉱石を持っていないもう片方の左手には、古びた鍵束が提げられていた。


「変なこと聞くのねぇ。ここは私達ミケルセンの家よ? どこいたって不思議じゃないでしょ」


「いや、そうじゃなくて――」


 戸惑うマージェリーをよそに、ヘンリエッタが鍵束の鍵を一本一本当てていく。


 程なくして彼女は錠に合う正しい鍵を探し当て、かちりと音を立てて錠が外れた。


「ちょっ、何やってんの姉さま!」


「見れば分かるでしょ。牢にとざされた妹を助けてるのよ」


「駄目、今すぐ戻って! !」


「…………」


 つかつかと、ヘンリエッタが早足にマージェリーの方へと詰め寄る。


 その手からは鍵束が滑り落ち、自由になった瞬間に振り上げられ……マージェリーの頬を強かに打ち据えた。腰の入った一発が正確に頬を捉え、マージェリーの身体が僅かに吹き飛ぶ。


「いつまでもやかましいわよ、愚妹ッ!」


 ぴしゃりと言い放ち、ヘンリエッタがマージェリーの肩へ手を掛けて向き合わせる。ヘンリエッタの目は爛々と気が満ち満ちているが、マージェリーの目には僅かに恐怖で濁っていた。


「駄目、駄目よ姉さま……それ以上は……」


「いつまでウジウジ言ってるつもりなのよ、貴女はミケルセン家うちで一番の魔術師でしょうが! しっかり背筋伸ばしなさい!」


 彼女は、自身に降りかかる苦難でいれば如何様にも耐え忍べる。ただし、その苦難が自分ではない他人へと向いた時は……話は別である。


「駄目よ姉さま……このままじゃ、姉さまがユークリッドに殺されちゃう……。それに、お母さまやラヴィニア姉さま、マルティナ姉さまも……!」


「……案外優しいのね、マリー。私ちょっと、貴女のこと誤解してたわ」


 ぐっと近づいて、ヘンリエッタがマージェリーを優しく抱き寄せる。触れたところにじんわりと温かさが伝わって、マージェリーはほうと息を吐き出した。


「遅くなってごめん。もっと早く来るべきだったわね」


「……ううん、アタシこそごめんなさい。姉さまのことは、決然きっとアタシが死なせないわ。アタシが必ず、皆を守って……ユークリッドを斃すわ」


「いいえ違うわ、マリー。あいつは貴女一人で斃すものではないわ」


 ヘンリエッタがマージェリーから身を離し、はし、と彼女の手首を掴む。


「さあ、はやく出なさいマリー! もう時間は残っていないんだから!」


 ヘンリエッタがマージェリーを起こして引っ張り出し、牢を出た二人が駆け出す。


 マージェリーが囚われていたのは正味三日ほどであったが、随分と久方ぶりに外へ出た様に彼女には感じられた。


「さあ、まずは二人でここから出るわよ!」


「……ええ!」


 ヘンリエッタの言葉に、マージェリーが力強く頷く。


 高く強く、一歩一歩着実に、牢を出た二人は進み始めた。

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