第二十四話 謀反と誅伐⑥

【――血の匂いがする。あの時確か、あなたはそう仰いましたね。


 なるほど確かに、私の身体はさぞ強く香ったことでしょう。何せ私は断頭台、人を切る事の他に知るものなど無かったのですから。


 斬って、斬って、斬って、ただ斬ってただ殺す。


 そこに理由は無いのです。信仰、理想、金、政治……そんなものは後付けの言い訳でしょう。人の行為に理由は無い。人を殺す理由など、悲しいほどに何も無いのです。私の生きてきた世界は、そうした血と闇の世界でした。


 だから初めて出会ったあの日、奥様の後ろに隠れたあなたが感じた恐ろしさは、決して間違ったものではありません。私の手は血と脂がべったりとこびりついた、断頭台の刃なのですから。


 ……あれは確か、或る暖かい春の日のことだったでしょうか。


 旦那様と共にお庭で遊んでいらしたあなたが、花を一輪持ってきたことを、私は昨日のことの様に覚えています。きっと似合うから、もっと可愛くしなさい、と。


 それだけの何でもないことですから、あなたは何も覚えていないでしょう。ですが私を変えたのは、私が命の使い方を定めたのは、きっとあの時なのですよ。


 それは、とても暖かくて懐かしい、遠い遠い春の日の思い出――。】




 星明りを吸ったスキールニルの切っ先に、淡い光を放ちながら魔力が集まっていく。先程までのマージェリーとは比べ物にならない程に、魔力の流れは素早く淀みない。


 心象結界の中では、使用者の発揮しうる全てのポテンシャルが引き出される。今のマージェリーはそれまでとは一線を画す、もう一段先の存在へと成長していた。


 頭の中からは、まるで初めから知っていた様に、世界の動かし方が溢れてくる。


 まるで何十年も繰り返してきたように、ごく自然な動作で、マージェリーがスキールニルを振るう。


 切っ先の軌跡は弧を描き、魔力の粒子はふわりと舞い上がる。


「――【迅くヴィヴァーチェ】」


 短く、そして正確に。マージェリーが言葉を発する。


 彼女の言葉と同時に周囲は青く輝き、辺りの木々や草花が揺れ始める。


 一拍遅れてフリーデの身体が動き出し、一瞬前まで彼女のいた場所を茨の群れが呑み込んだ。茨の一本一本にはマージェリーの魔力が走り、青く染まっている。


 彼女を逃した茨の群れは再びその後を追い始めたが、状況を把握したフリーデの左腕によって全て正確に切り裂かれ始めた。根を断ち、蔓の動きを先読みして境を置き、瞬く間に茨の動きは止まった。


 かけた時間は二秒足らず。聖者の左腕から逃れることは、心象結界の中であっても適わない。


 ただし、それでもなお、マージェリーの優位は揺るがない。ここはあくまでも、マージェリー・ミケルセンの心の中なのだから。


「【鋭くスタッカート】」


 浮かび上がった光球から、細い光の束が高速で射出される。しかし光の束は途中で二分され、ほつれた魔力の光は散らばって無力化された。残った光の球を、フリーデの指先が指している。


 ――鋭い! 先程までとは全く魔力の質が違う!


 ぶつ、とフリーデの頬が小さく切れる。つうと垂れてきた血を、舌を伸ばして彼女は舐め取った。


「【段々迅くアッチェラレンド】!」


 それはまるで、交響楽団オーケストラを指揮するように。マージェリーはスキールニルを振るい、世界を震わせる。


 彼女の言葉に合わせて、茨と光がフリーデへと降りかかり、フリーデが迎撃する。しかし聖者の左腕による境の最大顕現本数は十本。どう対処しても足りない。


 光球の数はなおも爆発的に増加し、ぐるりとフリーデを取り囲んでいく。


 切断し損ねた茨の一本が、フリーデの足首を捕らえた。


「く――」


「その左腕、厄介だけどそんなには狙えないでしょう!? 聖者の左腕の弱点は――」


 フリーデを取り囲んだ光球が、ひときわ強く輝く。


「全方位からの一斉同時攻撃!」


「……お見事です、お嬢様」


 フリーデが右手を開き、天へと翳す。稲妻の様に鋭く魔力が駆け巡り、きんと高い音を立てて円形に放たれる。放たれた魔力は音を越えた速度で薄く拡がり、瞬く間に結界の中を駆け巡った。


 静かに息を吸い、フリーデが瞼をそっと閉じる。


「――裁きなさい」


「……っ、段々迅くアッチェラレンド!」


 嫌な予感が走り、マージェリーが攻撃を開始する。全方位からの光線が一斉にフリーデへと降り注ぐが、しかしフリーデは未だ動かない。


 ――え?


 感じたのは、異質な魔力の動き。


 不審に思ったマージェリーが、フリーデへと意識を集中させる。先程まで彼女を捕えていた茨がいつの間にか切断されていることに気付いた頃には、光線は既に彼女へと届こうとしていた。


 ぱちりと、フリーデの瞼が開く。


 視界に映るのは、青と緑の閃光。


 聞こえるのは、何かがぶつかる音と何かが焼ける音。


 感じるのは、永遠にも似た一拍の間。


「流石はお嬢様、と言ったところでしょうね」


 ぱちぱちと乾いた音を立てて、フリーデが拍手を送る。


 ぶしゅ、と音を立てて、マージェリーの脇腹から血が噴き出した。


「――――っ!」


「正解です。概ね正解ですよお嬢様。確かに、【聖者の左腕】の弱点は全方位からの同時攻撃です。ですが、ほら」


 光線の直撃したであろう右手を、フリーデがマージェリーへと見せる。


 そこには軽微な火傷と切り傷がある程度で、致命傷には程遠いものだった。


 ふう、とフリーデが吐息を漏らすと、空気の流れに反応して何かがばちんと音を立てる。その音はちょうど、彼女が今まで作っていた境の音に似ていた。


「攻撃を躱さずしても、こんな魔術程度では……和らげるすべはいくらでもございますので」


 異質な気配が消え、フリーデが一歩踏み出す。


 打ち出した魔力によって周囲の状況を把握し、十本の境を組み合わせて防御の柵とする。元々が速度重視で脆い光線、この程度の防御であっても十分だった。


 フリーデ・カレンベルクは元魔女狩り部隊イノケンティウスの隊長。心象結界ほどでないにせよ、結界魔術を使う相手との戦闘も経験している。無論、結界に対する心得にも精通していた。


「初めてにしては上出来も上出来です。自然マナ嬰児みどりごたる妖精種エルフの原風景、といったところでしょうか」


 妖精種エルフ。魔族と人間の特性を備えた半魔種デミ。人の世に行きながらも交流を持たず、原生林の中で生きていた魔法使いの種族。人間の使う魔術は妖精種エルフの使う術を実現可能な範囲で理論化・単純化させたものである。


 現代において、純血の妖精種エルフは一人も観測されていない。人間の歴史の中で、妖精種エルフは絶滅されたものとされている。ミケルセン家の中でも妖精種エルフの記録は残っておらず、マージェリーも母から妖精種エルフにまつわる話を殆ど聞いた覚えはない。


 にも関わらず、マージェリーは妖精の原風景を明確に空想イメージできつつある。それは彼女の魂の奥底や、身体を巡る血の一滴一滴に刻まれた、妖精の記憶が呼び起されたことによるものだった。


 しかしそれでも、フリーデを屠るには一歩及ばない。


「心象結界術式は、とは、この程度ではないのです。もっと自由に、もっと正確に、己の空想イメージを広げなければなりません」


「言ってくれるじゃない……!」


 マージェリーの脇腹へ魔力の粒子が集まり、たちまちに傷が癒えていく。詠唱は聞こえない、つまり術式は展開されていない。ただ魔力だけを用いて傷を癒したように、フリーデの目には映った。


 ――妖精女王ティターニアの加護、ですか。本当に、理に適った心象ですね。


 ティターニアの加護。森林では妖精種エルフを殺すことは適わない。


 妖精種エルフは精霊の頂点。その領域たる森林の中において、全ての精霊は彼女に逆らうことはできない。妖精の女王ティターニアの加護により、を従えられるからである。精霊であっても例外ではない。


 大気中のマナを活性化させて傷を癒すこと、自然にあるものを操ること、森に在るものの位置を悟ること。その妖精種エルフが領土とする森の中で、できないことなど何もない。


 万能。されど


 今のマージェリーがやっていることは、ティターニアの加護の上澄みを掬い取っているだけだった。もっと奥、深淵にまで意識を潜らせなければ、心象結界はその真価を発揮しない。


「大胆に、冷徹に、そして正確に、相手を殺すのです。己は一振りの剣、相手を殺すために空想を拡げ、束ね、編み上げるのです」


「……先刻さっきから、何だかえらく親切じゃない。とてもアタシを殺そうとしてる人間の言葉とは思えないわ」


骨肉こつにくあいかたきとなれど、お嬢様は我が主君あるじ。冥土の土産に面白い話のひとつふたつ、聞かせて差し上げますとも」


「ええ、随分と愉しい話を聞いたわ。愉しい話だけどね」


「……ええ、その通りですよ。お嬢様」


 ――あとは一つだけ。これでは最後です。


 フリーデが優しく微笑み、左腕をマージェリーの方へと向ける。


 次の一撃で、勝負が決まる。


 言葉で示されることは無かったが、二人の間にその状況は伝わった。次の一撃にお互いが全力を出し切ると、互いの身体が告げていた。


「……


 一度深呼吸し、マージェリーがゆっくりと瞼を降ろす。


 視界ゼロの闇の中で、彼女は肌がびりびりと痺れる程に、全身の感覚を研ぎ澄ませ始めた。


 地面の感触、緑の匂い、星の瞬き、大気の流れ、精霊の囁き、魔力の胎動。その全ては彼女の全身へと伝わってきていた。


 世界の表面だけではなく、地下の地下、上空の上空まで、意識を拡張していく。


 ――やってやるわよ。この世界は、アタシのものだもの!


 。理論ではなく、空想が優先される世界。


 まず先立つのは、想像イメージ。想うこと無くしてあらゆる事象は成し得ない。


「勝負は一度。悔いの無いよう、しっかりと研ぎ澄ませなさい」


「………………」


 マージェリーの口元から、つうと涎が垂れる。無我の状態になった彼女は、その体液を拭き取るいとまも無い程に、己の夢を編み上げることだけを想っていた。


 足元からはさっと青い魔力が立ち上り、森の全域を満たしていく。満たされた青い光は淀むことなく静かに流れ続け、緩やかに、しかし確実に狭まって纏まり始めている。


 マージェリーが現在持てる全ての魔力が、一点へ凝縮されつつあった。


 ――何と、深い集中……!


 フリーデの頬を、玉の汗がつうと滑る。左の掌へと反射的に、僅かに魔力が走った。


 ゆっくりと、滴が地面へと落ちていく。


 汗の滴が地面を叩き、濡れた音を立てて潰れた時……二人の身体は同時に動き始めた。


 フリーデの全身を魔力が巡り、さっと天を仰ぐ。


 聖者の左腕の全力稼働。散布した魔力で世界全体を俯瞰する様に認識し、


 視界に収めている時とは威力の桁が違う。世界は二分され、元の形を保てなくなる。天地を開闢させるほどの一撃。


 極端な話ではあるが、魔力が無尽蔵であれば現実世界を崩壊させられるほどの権能が、聖者の左腕にはある。しかしそんな魔力は魔王ノエルであっても持ち合わせていない。精々がフリーデの限界だった。


 今度こそ加減の効かない、必殺の刃を向けられた状況。それでもマージェリー・ミケルセンの表情は揺るがない。


 例えるならば、それは水鏡みかがみ


 揺らがず、されど淀みなく。澄んだ思考は迷いなく世界との調和を見せている。


 ――……正解です、お嬢様。さあ、仕上げを。


 優しくスキールニルを突き付け、マージェリーが瞼を開く。


「――【妖精女王の息吹イル・レシプロ・デッラ・ティターニア】」


 乾坤一擲。


 それは文字通り、一瞬の出来事。


 何かが通り抜ける気配を感じたフリーデが、ゆっくりと視線を下へと向ける。


 そこにある筈の腹部は、丸い穴へとかれていた。血さえも噴き出さない程綺麗に、鮮やかに、フリーデは身体の中心を穿うがたれていた。


「…………ぁ」


 フリーデの口元から、どろりと血の糸が溢れ出る。


 それは、不可視かつ必中必殺の一撃。世界に溢れる莫大な大気を纏めて縒り合わせ、限界まで加速させて打ち出す無色の槍。


 文字通りに世界の全てを叩きつける、マージェリー・ミケルセンの全力攻撃。


 視線をマージェリーの方へと戻すと、スキールニルの切っ先を突き付けるマージェリーの姿が見えた。全身から汗をかき、膝をがくがくと震わせ、展開していた結界を徐々に崩しながらも、彼女は少し驚いた表情でフリーデを見ている。


 それはフリーデが護ってきたお嬢様のマージェリーではなく、一人の魔術師として、そして一人の少女おとめとして立つ者の目だった。


 に、とフリーデの口元が緩む。


 ――嗚呼、成ったのですね……ようやく……。


「……お見事です。お嬢様……」


 急速に身体から力が抜け、フリーデが朽木のように力なく仰向けに倒れる。


 謀反は砕かれ、誅伐はここに相成った。

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