第九話 勇者殺しの条件④

「……おや?おやおや?」


 緑の布で覆った目を指でなぞりながら、エヴァが僅かに眉をひそめる。


 今現在、エヴァの直接的な視界は封じられている。しかし生まれ持った肉の視界を封じることにより、エヴァは地中……正確にはこの町を走る地脈の中心へと埋めた義眼を核として、魔力で繋がった全ての精霊憑き達と視界を共有していた。


 例え寝ていても、この町で起きている全てはつぶさに見て取れる。死角らしい死角は殆ど無かった。


 その目に映るのは、一人の男。


 赤い鎧、黒い髪、ぎらりと光る狼の様な双眸。その男が並み以上の手練れであることは、精霊憑きの狂った瞳を通しても容易に感じ取れた。


「……どこかで見たような、どこにもいない様な」


 その動きと影の黒さは明らかに、血と汚泥の中で絶えずうごめき続けた兵士だけが獲得するものである。


 いくさばたらき……それも相当に後ろ暗い汚れ仕事ウェットワークへ従事した人間とエヴァは見立てた。


 ――いずれにしても、あのマージェリークソガキが飼える様なシロモノじゃあない筈なんだがなァ……。


 ものの数秒で四体の精霊憑きが祓われた事は、当然彼女も把握している。最後の一体は『落とし』によるものだという事は分かる。


 だがその前の三体が、という事は、彼女にとって少し想定外だった。


 大公領の赤備えの甲冑。極限まで磨き抜かれた剣技。そして盾を用いぬ左短剣マインゴーシュと長剣の二刀流。


 ――特徴だけを見るならば、まるで戦場の御伽噺だな……。


 鉛の様な暗い予感が、エヴァの心中に生じる。


「ちょォォーーーッと不愉快だなァこれは……イライライライライライライライライラさせやがってさ」


 中身の無い左の眼窩が、じくじくと傷む。こめかみの皮を爪の先が突き破る感触を、彼女は僅かに感じた。


 ――落ち着け、数は圧倒的にこらちが有利だ。計画通りにじっくり追いつめて締め潰せば、何も問題ない……!


 泉の様に湧き出す予感を、エヴァが無理矢理飲み下す。


 迷えば死ぬ。臆せば死ぬ。驕れば滅ぶ。


 氷の様な冷たさと、炎の様な激しさが戦場を生き抜くために必要であることを、彼女は先の大戦を通じてよく知っていた。


 既に三人のいる宿屋は十重二十重とえはたえに囲んである。町にいた人間の殆どは既に精霊憑きに変えてしまった。一階から廊下の端まで隙間なく埋まった怪物の群れには、あの長物では太刀打ちできまい。


「…………ん?」


 変化が起こったのは、それから間もなくの事であった。


 境界で隔たれていない唯一の出入り口……宿の窓から、例の男が姿を現した。屋根を滑り、石畳の上を転がりながら、精霊憑き達の間を縫うようにして矢の如く駆けてゆく。


 彼を追いかける様にして、津波の様な勢いで怪物の群れは殺到する。


 瞬き一つの僅かな瞬間ときでも遅れれば、すぐに喰われる状況。


 にも関わらず、男の目には恐怖や焦りは全く見られなかった。


 ――陽動? いいや、それだけじゃない……!


 気がかりなのは、彼の目だった。


 命を狩るという意思に満ちた背中が、手駒の目を通して視界いっぱいに広がる。


 刹那、いかずちに打たれた様な感覚がエヴァの全身を駆け巡った。


 運命の相手に出会えたのだという、至上の相手に巡り会えたのだという確信が、エヴァ・テッサリーニの全身を激しく打ち据えた。


「…………」


 ふ、とどこか間の抜けた音が、エヴァの口から洩れる。


 そして音楽が響くように、何かが腹の底から込み上げてきた。


「……シ、ニシシシシシシッ、ニシシシシシシシシッッッッ!」


 やってきたものの正体は、興奮。


 不意に湧き上がる興奮に、エヴァの口元からは笑みが零れる。


 ――これだ。これこそ僕が長年探していたものだ! こういう狂人ひとを、僕は待っていた!


 命を握られる恐怖、他人の命に手を掛ける愉悦、互いの心臓を掴みあうひりひりとした興奮。


 それこそが、彼女が戦場に忘れてきた……そして聖職者として擦り減らしてきた、兵士の本質とでもいうべき感情であった。


「さあ来い! 早くこっちにおいでよ赤いきみ!」


 足元に広がる魔法陣が、より一層強く輝く。


 彼女の中で擦り減り失われていた戦は、今ここに始まった。




「――以上が作戦だ。それじゃあ行くぞ」


「待って! 待ちなさいよクリフ!」


 長剣を担いで窓枠に足を掛けたクリフを、マージェリーが引き留める。


 肩を掴む彼女の手には、必要以上に力がこもっている。半分は焦り、そしてもう半分は緊張から来ているものだった。


伊達だて酔狂すいきょうで言ってる訳じゃないって言うの!? !! こんなの、生き延びる確率よりも全滅する確率の方がよっぽど高いじゃないの! これじゃあ、これじゃあまるで――」


 まるで、戦って死にたいだけじゃないの。


 そんな言葉が、マージェリーの舌先から零れ出そうになる。


 大公領の赤は血の赤。大公領の人間は血に渇いたケダモノ。そう教えられてきたマージェリーにとって、クリフは未だ恐るべき未知の存在であった。一寸先は闇、一秒後に何をしでかすか、彼女にはまるで分からない。


 しかし喉まで出掛かったその言葉を、彼女は吐き出すことができなかった。


 触れた指のひとつひとつから、熱い何かが伝わってくる。


「伊達や酔狂で戦いに臨む訳無いだろう。!」


「――――ッ」


 突如張り上げられたクリフの声に、マージェリーがびくんと肩を震わせる。


「どうあっても必ず取り戻さなければならない太陽が、俺の行く手にはたった一つあるからだ。その日までは…………!」


「クリフ……」


 マージェリーの手が、クリフの肩から離れる。


 それは彼女が初めて見る、狼の激情だった。


 優れた魔術師には高い感応力が求められる。触れただけで魔力の流れを感じ取り、おおよその感情を読む事ができる。


 今、彼から感じる感情は……激しい怒りと悲しみ、そして深い深い絶望だった。面の様にかしこまった皮一枚奥には、底なしに暗い深淵がある。


 ――文字通り、太陽を失ったって感じね……。


 クリフは、戦うだけのケダモノではなかった。


 そう確信した時、張り詰めた弓の弦が如く強張っていたマージェリーの口元は僅かに綻んでいた。


「だから、生き延びたければ俺の指示に従え。俺が拓いた道を、勝手に着いてくるといい。……なぁに、しくじっても楽しいお友達になるだけだ」


「しくじったりなんかしないわよ、誰に向かってモノ言ってんの?」


 どん、とマージェリーが拳でクリフの胸を押す。鎧の表面で硬い音が鳴り、クリフがはっと息を呑んだ。


 握った手がほどけ、クリフの前へと差し出される。


「アタシは世界最高の魔術師になる女よ。必ず成功させるわよ、!」


「……ああ!」


 差し出されたマージェリーの手をクリフがしっかりと握る。握手が終わると同時にクリフがもう一度踵を返し、窓から身を乗り出した。


「それではこれより、状況を開始する! 必ず生き延びるぞ!」


 砲弾の様な勢いでクリフが飛び出し、真下にいた精霊憑きの身体を、脳天から股間まで一息に割った。稲妻の様な轟音が鳴り響き、他の精霊憑き達が一斉にクリフの方を見る。


 町にいた人間の数は、しめて五千人弱。精霊憑きとなったのはおよそ三千五百人。三千五百に掛けること二の、七千の瞳がクリフを探していた。


 が異変を理解し、クリフの姿を認めるまで、かかる時間はおよそ三秒。


 異変が起こるよりもずっと早くクリフは動き出し……遅れを取って追いすがる形で、異形の軍勢は進撃を開始した。


【――――――――――ッッッッッッッッ!!!!!!!!】


 言葉にならぬ、声にすらならぬ怒号が、クリフの鼓膜を震わせる。


 建物を破壊し、同胞はらからを押しのけ、目に映る悉くを勢いで四方八方から怪物達の手が伸びる。爪が割れようとも、指がへし折れ骨が皮を突き破ろうとも、全く勢いは止まらない。


 だが同時に、クリフの勢いもまた止まらない。重い甲冑を着込んでいるにも関わらず、まるで空を翔ける様にして地面や壁を蹴り、町の中にある全てを利用しながら逃げ続けていた。


「これだけ大勢の精霊憑きは初めてだな。これだけ使兵ならば教会も禁止しなければ良いものを……!」


 その身体からは時折淡い輝きが放たれ続けており、それが魔力に由来することは明らかだった。しかしその動きには独特の癖がある。


 ――絶影ぜつえい


 赤の躰術たいじゅつ、足運びがひとつ、【絶影ぜつえい】。


 猫の様にしなやかに。しかしかもしかの様に素早く動く。それが絶影の極意である。


 しかし順調に逃げている様に見えても、クリフの逃げられる場所はじりじりと減ってきていた。


 現在クリフは町の外周をぐるりと回り、その後は町の中心へと向かって渦を描くように、細い路地を通りながら駆けている。


 しかし四方八方からクリフを求めてやってくる精霊憑き達によって、その退路は町の中心へと絞られつつあった。


 左右は水路、そして前後からは大勢の足音。まさに前門の虎後門の狼。


 しかし大きく目を見開いて……クリフは笑った。


「……さて、ではそろそろ行くぞ!」


 クリフが懐から取り出したのは、一枚の札。その札には複雑な幾何学模様が描かれており、血判が捺されている。


 取り出した札を後方の精霊憑き達へと鋭く投げつけると同時に、クリフは地面を蹴っていた。水路を眼下に望む中空にて、クリフが口を開く。


「――【爆ぜろ】!」


 短く、そして素早く。それが刻印魔術を詠唱する鉄則である。


 彼の手を離れひらりと舞った札に、電光の様に一条の紅い光が灯った。

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