第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」④
「落葉さん、こんにちは」
近づいて声をかけてみたものの、落葉さんが振り向く様子はない。
書き終えた木簡を右の山に置き、左の山から新たな木簡を取って筆を走らせる。ただひたすら、この動作を休みなく繰り返している。
とはいえ、落葉さんの塩対応はいつものことだ。このくらいで
「今日は空が綺麗ですね」
「うん」
「落葉さんがこの辺りにいるの、珍しいですね。何してるんですか?」
「うん」
「……僕の声、聞こえてますか?」
「うん」
会話が成り立つ気配すらなく終了した。
(これは、どっちだろう)
声をかけてほしくないのか、単に集中しているだけなのか。どっちにもとれる状況なので、逆に反応に困ってしまう。
とりあえず、もう一声かけてみることにした。
「何を書いてるか、聞いてもいいですか?」
「命」
落葉さんが、再び左の山に手を伸ばす。
指が触れた拍子に山頂が少し崩れるものの、気にする様子は微塵もない。
「命を燃やしてる」
「い、いのち?」
「魂を刻み込んでる」
「たましい……」
やっと文章で返ってきけど、今度は別の意味で反応に困ってしまった。どうしよう……よく分からないけど、軽々と触れていいものではないことだけは分かった。
「葉月様」
後ろから、菜飯さんに声をかけられた。
「お時間が迫っておりますので」
「あ、そうですね」
実際にはまだ余裕があるけど、僕の顔色と逃げ場のない状況を察して、
自ら作り出した魔の時間から脱するべく、菜飯さんのさりげない気遣いに甘えることにした。本当に助かった……!
「邪魔しちゃってすみません。それじゃあ」
「うん」
落葉さんは終始、頭どころか視線一つ動かさずに書き続けていた。僕のことを認識していたかすら怪しいけど、それはさておいて。
彼の姿が見えなくなる頃合いで、僕は歩きながら菜飯さんに声をかけた。
「あの……落葉さんって、一人の時はいつもあんな感じなんですか?」
いくらマイペースな彼でも、巫女同士の集まりの時はあそこまで酷くない。何かに熱中すると周りが見えなくなるタイプなのだろう。
「えぇ。暇さえあれば何かを書いておられるみたいですよ。それこそ寝食を忘れるくらいにのめり込まれると、
「なるほど」
落葉さんはいつも、従者である鹿男君に起こしてもらっているという。
執筆にのめり込む主人を引きずり出す鹿男君の姿が、まざまざと脳裏に浮かんだ。鹿男君は毎日、あの塩対応と戦っているのだ。すごい。もう尊敬に値する。
「葉月様は、初めてご覧になられましたか」
「はい。そもそも、巫女の集まり以外では初めて見かけました」
「普段は御部屋に
「部屋に籠って、書いていると」
「えぇ。おそらくは」
「そうですか……」
幼い頃、僕もあんな風に物語を書いていた。
物語といっても、父を主役に
今思えば、父に褒められたい一心で物書きの真似事をしていたに過ぎないけど、それでも僕は熱中した。幼いなりに本気だった。
書いている時は、物語の世界に入り込んで、いろんな登場人物になって、キラキラと輝く父を間近で見ているような気分になれた。
現実ごと自分の存在が溶けていく、夢のような感覚が好きだった。
書いている間は、自分が無力な病人であることを忘れていられた。
(……落葉さんは、どうなんだろう)
命を燃やす。
魂を刻み込む。
返す言葉を失うほどに強く、執念に満ちた言葉だった。同じ物書きでも、僕がかつて体感した世界とは根本的に違う気がする。
ふと立ち止まり、後ろを振り返る。
短時間でさらに赤みを増した日光が、長い廊下を焦がすように照らしていた。
***
翌日、僕は花鶯さんの前に立っていた。
「では、始めます」
その言葉と共に、意識を切り替える。
花鶯さんから、赤みを帯びた桜が花開いた。
床を踏みしめ、ゆっくりと歩を進めていく。手にしている
桜の木を、僕の歩みで囲んでいく。
単純だけど、
一周したところで歩みを止める。鈴の音も止み、世界が沈黙に包まれた。
桜の木の正面に立ち、刃を構える。
紅白の線が、無数に
僕の目を惑わせるかの如く絡み合って、蛇のように
(まだ……まだ……)
焦ってはいけない。粗末に扱ってはいけない。
今から切るのは、人の気だ。花鶯さんの気だ。絶対に判断を誤ってはいけない。
目を凝らし、赤と白の
生き物のようにうねる赤い線を、切るべき線を、この目で確実に捉えるために。
ひときわ濃い赤を、見つけた。
(――――いま!)
構えた刃を、濃い赤へと振り下ろす。風を切る音と鈴の音が重なった。
切断された赤が、周囲の白と混ざり合う。赤みを帯びた花びらに白が広がり、本来あるべき姿を取り戻していく。
花びらが桜色に整ったことを確認してから、意識を切り替える。
花鶯さんの鮮やかな桜が、瞬く間に周囲の景色に溶け込んだ。
桜が消えた空間に、沈黙が流れる。
「どう、ですか?」
「――なんともないわ。合格よ」
一瞬、息が止まった。
呼吸が戻ると同時に、全身が沸騰した。
「よかっ……たぁ……!」
強張っていた全身から、力が抜けていく。
心臓の音がうるさい。体が熱を持っていることに、凄まじい緊張の中にいたことに終わってから気が付いた。これ以上気を抜いたら、足元から崩れ落ちそうだ。
初めて人の気を切った。発作も起きなかった。
かつてない高揚感が、緊張から解放された体を突き抜けていく。
視界が歪んだのは、まさにその瞬間だった。
「葉月くん!?」
蛍ちゃんの声で我に返り、派手に転倒しないよう踏ん張った。
ゆっくりと腰を下ろしたところで視界が戻り、内心で胸を撫で下ろす。
「葉月くん、大丈夫っ?」
「大丈夫。ただの
心配そうに駆け寄ってきた蛍ちゃんに、精一杯の笑顔を向ける。
「葉月」
花鶯さんもこちらに歩み寄ってくる。
そして僕を、じっと見つめ出した。
「無理してるわね」
単刀直入の一言だった。
ほれ見ろと言わんばかりに、花鶯さんが大きな溜め息をつく。
「あれほど言ったのに……自主練、私の指示以上にこなしてるでしょう」
「え?」
「あんたの気、前より赤くなってるわよ。体を酷使している証拠」
(あ、なるほど)
気が赤くなるのは、精神の高揚に限らない。単純に体を動かすことでも、陽の気は増えるのだ。現代日本風に言えば、交感神経が優位になっている状態だろう。
「酷使したつもりは、ないんですけど……」
「病み上がりのあんたにとっては、必要以上の自主練は酷使になるのよ。発作の度に桜を呼ぶわけにいかないんだから、無理は禁物。いいわね?」
「はい……すみません」
言い訳でしかないだろうけど、無理をしているつもりは本当になかった。
遅れを取り戻しつつ、発作が起きない程度にちょっと頑張ったつもりだったけど、それでもやり過ぎていたらしい。
(難しいなぁ)
頑張るというのは、本当に難しい。
別に一般的な精神論とかではなくて、単純に
「もっとも、第三の眼を自在に使えるようになれば、魂を通して身体の症状を和らげることくらいはできるけどね」
「えっ!?」
「あくまで和らげるだけよ。発作を止めることはできないから」
「そうですか……」
どのみち桜さんなしでは、あの発作を止められないということだ。
それでも、自分で対処できるというだけでありがたい。発作自体を避けられなくても、自分で和らげることで、少しでも桜さんの負担を減らせるだろうから。
「じゃあ、葉月は一足先に休憩に入って」
「はい」
「蛍はもう一度、頭から舞を通して」
「は、はい!」
蛍ちゃんが声を張り上げ、部屋の中央に移動する。それと入れ替わるように、僕は部屋の隅に移動して腰を下ろした。
花鶯さんの前に、蛍ちゃんが立った。
緊張を解すためだろう。目を閉じ、深呼吸をしている。深く、深く――――。
蛍ちゃんの目が、ゆっくりと開いた。
「それでは、お願いします」
二人の少女が見つめ合う中で、静寂が流れる。
蛍ちゃんの足が、動き出した。
鉾鈴を鳴らしながら、花鶯さんを囲むように歩みを進めていく。花鶯さんは微動だにせず、真剣な顔つきの新米巫女を見つめている。
先ほど僕がやったのと同じ、花鶯さんを国の気に見立てた舞の訓練だ。蛍ちゃんの瞳には、赤みがかった鮮やかな桜が映っていることだろう。
(……綺麗だ)
ほんわかとした彼女からは考えられないほどに流麗で、一切の無駄がない。この数日で、蛍ちゃんの動きは各段に巫女らしくなった。
今の彼女は、僕より前に進んでいる。
ただでさえ出発点が違うのに、昏睡していた短期間でさらに離されてしまった。蛍ちゃんの成長は本当に目覚ましい。
もちろん、分かってる。そうでなければ視察の旅に支障をきたすことも、今は絶対に無理をしてはいけないことも。
分かってるのに、早く進みたい。
蛍ちゃんと、早く並びたくて仕方がない。
(……焦ったら、駄目だ)
今の体は『健康』だ。自分で体調を整えることのできる、恵まれた体だ。
だからこそ、前みたいに倒れるのだけは絶対に避けなければならない。健康な体を得たのに、このままでは元の世界と変わらない。
あの人の夢を壊した、昔の僕と――――
「葉月くん」
ふわりとした声が、驚くほど近くで聞こえた。
いつの間にか、蛍ちゃんの顔が目前にあった。
「えっ!?」
驚きのあまり、間抜けな声を上げてしまった。
呆けた顔をしているであろう僕を、蛍ちゃんが不思議そうに見つめている。
「蛍ちゃん、舞はもういいの?」
「今は小休憩中だけど……」
「え?」
そういえば、部屋の中に花鶯さんの姿がない。
どうやら、小休憩に入ったことに気付かないほど考え込んでいたらしい。休憩前には、必ず花鶯さんの掛け声が上がるというのに。
「葉月くん、大丈夫? まだ
「大丈夫。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
場の空気を変えようと、とっさに笑顔を作る。
「蛍ちゃんの舞を見ていたら、
「え、私の舞で?」
「うん。この数日ですごく上達したよ」
「そ、そうかな……」
蛍ちゃんの丸い頬に赤みが指した。
本当に素直で可愛らしい。ころころと変わるこの表情に、何度癒されたことか。
「僕なんか最近、焦ってばかりだよ。このまま蛍ちゃんに置いてかれそうで」
「わ、私に?」
「うん。蛍ちゃん、僕より前にいるから――」
ふと、顔を上げた。
丸い頬からは赤みが引き、代わりに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
一瞬で、血の気が引いた。
(やってしまった……!)
相手が優しい蛍ちゃんだからと気を抜いて、口にしてしまった。恥ずかしいくらいに、劣等感丸出しの言葉を。
「あ、違くて!」
どうにかして事態を収束しなければと、回らない頭で言葉を探す。
「えっと、蛍ちゃんは最初から東語を話せるし、気も見えるから焦っちゃって」
「…………」
「蛍ちゃん、ごめ――」
「すごい」
「え?」
自分の耳を疑った。
次の瞬間には、自分の目も疑った。
「そういえば葉月くんって、異世界から来たんだったよね。それなのに
蛍ちゃんの声色は、かつてないほど弾んでいた。
どうやら僕の失言を気に留めないどころか、失言だと気付いてすらいないらしい。それが強がりなどではないのは、火を見るよりも明らかだ。
自分が、恥ずかしくなった。
「……それを言うなら、蛍ちゃんもだよ」
「え?」
「まだ新米なのに二番手を任されて、それに見合う実力を今の時点で身に付けている。短期間でなかなか成せることじゃないよ」
「そ、そうなの?」
「うん。自分の中にないものを自分に落とし込むって、難しいから」
僕にしては珍しく、確信を持って言えた。役作りに途方もない時間を費やす父の背中を、ずっとこの目で見てきたから。
(……何、考えてるんだか)
最近、頻繁にあの人を思い出す。ずっと会っていないどころか、もうその顔すらも忘れてしまったというのに。
仮に元の世界で生き続けたとしても、二度と会うことのない人なのに。
「……もしそうなら、葉月くんのおかげかも」
予想外な言葉が、耳に入った。
見ると、蛍ちゃんが微笑んでいた。
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