第7話 目覚めと涙

 自分の身に予想外のことが起こり、それに次いで学校に来ないと思っていた人物がまるでここにいるのが当然かのような顔つきでソファに座っている姿を見て、慧の脳は完全に停止していた。


「えっと……。なんでここに?」


 数秒間伊武を見つめた後、何か言わないとマズい。という使命感が慧を苛んだ結果、ドラマやアニメで聞き慣れた決まり文句が口を衝いて出た。


「なんでって……」


 全くその通りな反応を見せながら、伊武は傍らに置いていたブレザーを手に取り、その袖に腕を通した。その動作を見て、慧は一瞬で視線を逸らし、考えを巡らせた。


(待て待て待て、今ブレザーを羽織ったってことは、さっきはワイシャツ一枚だったわけで、俺はその状態の江波戸をじっと見つめていたんだよな? これは……。やっちまったか……?)


 最悪の展開が頭に浮かび、視線を伊武に戻せないでいると、それを何となく察したのか、伊武はテーブルを二回ノックして慧の気を引く作戦に出た。すると慧はまんまとその策にハマって少しだけ視線を戻したので、伊武はそのタイミングにすかさず言葉を挟んだ。


「これ、書かないと教室戻れないから」


 と、冷たい視線を送りながら彼女が再びノックしたテーブルには問診票が置かれていた。


「あ、うん。分かった」


 相手の視線が気になった慧は問診票を見ながらそう答え、伊武の対面側にある、三、四人は掛けられそうなソファの右端に腰かけて、問診票を目の前まで持ってきた。テーブルの中央にペン立てが置かれていたので、慧はそこから中くらいまで削れている鉛筆を手に取り、問診票に向かった。

 名前を書き、症状を書き、現在の状態を書き、ここに来たおおよその時間と、今の時間を……。と思ってようやく壁掛け時計に視線をやり、慧は目を見開いた。


(じゅ、十二時……! ってことは、授業丸々一つ分気を失ってたのか……)


 叫びそうな気持を何とか抑え込むことに成功した慧は、表情を歪ませながらおおよその入室時間と現在の時間を書き記した。


「あの、さ。書き終わったんだけど、先生どこに行ったか知ってる?」


 これ以上ここに居ては変な心配をかけてしまうかもしれないし、何より目立ってしまうのが嫌だと思った慧は、勇気を出して伊武に問いかけた。


「……さぁ」


 しかし勇気に相応する答えは返って来なかった。


(マジかよ……。早く教室に戻りたいとは言え、無断で出て行くわけにもいかないし、でもずっとここに居残るのも嫌だなぁ……)


 どうすれば良いかもう一度考え直していると、対面のソファが微かに軋み、伊武が目の前に移動してきた。そして左腕を肘掛に立てると、頬杖をついて慧のことを睨んだ。


「あなた、何か隠してるんでしょ?」


 囁くようでいて鮮明に聞こえたその言葉には、どこか確信に近い感情が籠っていた。慧はその気丈な態度に気後れして、思わず座り直した。


(どうする。どうすれば丸く収まる……。別にラヴィの存在がバレたところで問題は無いし、それに彼女がラヴィの存在を言いふらすとも思えない。てか、言いふらされたところでデメリットはあるのか? パッと浮かぶ範囲では、恋愛にがっつきすぎていると思われる。変なオタクだと思われる。教師に没収される……。これは避けたいな。うん、やっぱりまだバレるわけにはいかない)


 そうして慧が考え込んでいる間、伊武はじっと彼のことを見つめていた。それに気づいた慧が返答を急ごうとした時、彼女は突然立ち上がった。そして、「ま、いいや」と言うと、出入り口に向かった。


「え、いいの……?」

「先生、呼んできてあげる」


 慧の質問には答えず、伊武は代わりにそう言うと保健室のスライドドアを開けてあっけなく出て行った。


「直接答えを聞いても面白くないからね……。フフッ」


 閉まりいくスライドドアの隙間から見える慧に一瞥を投げながらそう呟くと、伊武はほんの少しだけ笑みを浮かべてその場を立ち去った。もちろん慧はその笑みに気付いているはずも無く、調子が狂わされたもどかしさにこめかみを掻き、ただただ素直に伊武の帰りを待つのであった。

 それから程無くして伊武が戻って来た。保健の先生を連れて。


「あら、目が覚めたの? 良かったわぁ。ちょっと打ちどころは悪かったけど、今日明日激しい運動をしなければすぐに元通りになると思うから、すこーし辛抱してね?」


 開いたドアから現れた女性は大らかな口調でそう言いながら、品のある静かな足取りで慧の対面のソファまで来て、そこに腰かけた。

 見た目はとても若く見えるが、その年齢は実に四十を超えている。何て言う噂が校内を独り歩きしていたせいで慧も多少は情報を持ってはいたのだが、いざ実際に対面して見ると、確かに四十代とは思えない肌質とナチュラルな美しさを彼女は持っていた。身長は百六十六センチの慧より少し小さいくらいで、痩せ過ぎず太り過ぎずの平均的な体型であった。


「じゃあ堤先生、後はよろしく」


 ドアを抑えながらそこに立っていた伊武は、無表情にそう言い残してさっさと廊下に出てしまった。つっかえ棒を失ったスライドドアは機械的に自動で閉まっていくのだが、その場にいた二人には彼女を引き留める理由が無かったので、ドアは静かに閉まり切った。


「彼女、いつもあんな感じだから気にしないでね」


 伊武がいなくなって少し経った頃、堤がそう切り出した。


「え、あぁ、そうなんですね」


 突然話しかけられた慧はしどろもどろな返事をした上、ラヴィのことやら伊武のことやらを考えていたせいで話を広げることも出来なかった。


「あの子、よく保健室に来るんだけど、あまり感情を表に出さない子なのよねぇ。でも、あなたがここに運ばれてきた時、珍しく驚いた様子を見せていたのよ」


 書き終わっていた問診票を確認しながら、堤は片手間に話を続けた。


「それでね。私の直感がビビッと何かをキャッチしたのよ。あなたなら、江波戸さんの感情を引き出せるんじゃないかなぁって」

「そ、そうですかね……?」

「うんうん、だからね。時々で良いから気に掛けてあげて欲しいなぁ。なんて」


 とっくに問診票の確認を終えている堤は、右手に持っているそれをペラペラと扇ぎながら満面の笑みで慧の方を見た。その期待の籠った瞳は容赦なく慧の良心に突き刺さり、ただでさえ本音を口にすることが少ない慧がノーと言える訳も無く、彼は苦い顔をしながら小さく頷いて見せた。


「本当に? 良かったぁ~。あの子、時折とっても何か言いたそうな顔をするんだけど、結局何も言ってくれないから気になってるのよねぇ。何か進展があったら私にも教えてね?」

「は、はい。分かりました」


 慧の返事を聞き受けると、堤は相変わらずニコニコと笑みを浮かべながら席を立ち、保健室の最奥にある自らのデスクに戻った。そして銀縁の渋い眼鏡をかけると、先ほどとは打って変わって黙々と作業を始めた。


「あ、ごめんなさい。担任の先生にはもう言ってあるから、教室に戻っても大丈夫よ」


 思い出したかのようにそう言うと、堤は照れ隠しに笑って見せた。


「あ、はい。ありがとうございました」


 律儀に座って待っていた慧は、そこから立ち上がって小さくお辞儀をした。そしてソファに置かれていた自分の体育館履きが入った袋を手に取り、時刻を確認してから保健室を出た。もう十二時半近くまで時が進んでいた。

 保健室から戻って来る瞬間というのは、高校に通う三年間という限られた時間の中でも五本の指に入るくらい目立つ行動である。慧にもその観念が根付いており、例え後ろ側のドアから入るといえども、中々ドアを開けられずにいた。しかしだからと言っていつまでも廊下に突っ立っているわけにもいかないので、慧は一度深呼吸をした後にドアを開けた。


「お、風見。大丈夫だったか?」


 ドアを開いて一歩教室に入った瞬間、世界史担当の男性教師と目が合った。恐らく彼はドアの開く音がしたときからこちら側を見ていたのだろう。そして慧の姿が見えると同時に用意していたであろう定型文を慧に投げかけると、クラスメイトたちはその声に反応して一斉に振り返った。


「あ……。はい、大丈夫です」


 数多の視線が自分に向いているという事実と認識が慧の頭をクラッシュ寸前まで追い詰めたが、何とか受け答えを完遂した慧は自分の席に戻った。何人かの生徒が教師に続いて安否確認の声を上げてはいたものの、その原因となった教師自身が大きな声でそれを咎めたので、教室は忽ち静まり返り、残り二十分程度の授業は何事も無かったかのように済まされた。そんな雑踏や静寂という環境変化に関わらず、伊武は机に突っ伏して眠っていた。


「おい慧! お前、本当に何ともないのか!」


 昼休みに入ると早速友宏が絡んできた。その他にも数人の生徒が話しかけてきたのだが、友宏と違って彼らは物分かりが良いというか、興味が無いというか、「大丈夫だよ」という慧の一言で散って行った。


「だから、安静にしてれば大丈夫なんだって」

「それなら良いけどさ……。俺がキャッチ出来なかったボールが流れちまったから、気になっちまってさ」

「気遣いありがとう。でも本当に大丈夫だから」


 もうこれ以上同じ話がループするのは本望では無いので、言葉で伝わらないのなら行動で示せば良い。と考えた慧は、机の横に設置されたフックにかかっている学校鞄から手作りのおにぎりを取り出した。


「あ、悪い。昼飯の時間だったな。俺も持ってくるわ!」

(いや、持ってくるんかい)


 と思いはしたが、断る理由も無かったので、慧は何も言わず友宏と昼食を共にすることにした。


「お待たせー。んでさ、放課後の部活見学はどうする? キツイようだったら別日でもって感じだけど」

「行くよ。見学だけなら大丈夫だと思うし」


 それに、面倒な用事はさっさと済ませておきたいし。という思いを胸に秘めながら、慧はおにぎりを頬張り、ペットボトルに入れて来た麦茶を飲んだ。


「分かった。それじゃ、少しだけ予定を変更して、文化系の部活でも見に行くか」

「うん、任せるよ」

「オッケー。じゃあまた放課後だな」


 食事と会話の切りが付いたところで予鈴が鳴った。友宏は慧の机に広げていたコンビニおにぎりやらサンドイッチやらのゴミを雑にビニール袋の中へ放り込むと、それを持って自分の席に戻って行った。


 その後五時限目と六時限目が流れるように終わると、友宏は元気よく慧のもとへやって来た。


「よし、部活見学行こうぜ!」


 授業が全て終わってから活気付く、典型的な体育会系の友宏はハイテンションで慧に話しかけてくる。つい数時間前に自分のミスを何度も謝り、慧の容態を気に掛けていた人物とは思えないほど友宏は陽気だった。


「え、もう行くの?」

「当たり前だろ。早く行って準備段階から見学させてもらうんだよ!」

「それもそうだけど、流石に……」


 慧は言葉を濁しながら学校鞄を取り上げ、机の上に置いた。そして筆箱をしまおうとチャックを開くと、そこには制服が詰められていた。それを見てようやく、自分がジャージのままでいることを思い出した慧は、それと同時にラヴィも放置したままだったことを思い出したのであった。


「お前、今着替えるの?」


 机の向こう側に立っているジャージ姿の友宏は、鞄を見つめている慧に向かってそう聞いた。


「え、う、うん。すぐ帰れるようにしておきたいし」


 学校の規則でジャージでの登下校は認められていないことをふと思い出した慧は、それを理由に少しだけ独りの時間を作り出そうと試みた。


「えー、制服だと動きづらくねぇか?」

「それは確かにそうだけど、運動部を見に行くわけじゃ無いからな」

「それもそうだな。帰り際に着替えるのも面倒だし、俺も今のうちに着替えておこうかな」


 そうと決めると、友宏は早速自分の席に戻って着替えを始めた。するとそれとほぼ同時に、バイブレーションの音が聞こえて来た。ラヴィの催促だなと察した慧は、友宏がいないこの隙に鞄を持ってトイレへ向かった。

 個室トイレへ駆け込むと、ひとまず上半身だけ裸になり、ワイシャツを羽織ったところで制服のズボンの左ポケットから、未だにバイブレーションを怠らないラヴィ本体とイヤホンを取り出した。


「ごめん。ちょっと不都合があってさ」


 向こうに何かを言われる前に、慧の方から切り出した。


【ご主人! もう、心配しましたよ!】

「体育の時に少し倒れただけだよ」

【倒れたですと! 今すぐスキャン致します。……とは言いましたが、したところで私は精神状態しか収集できないんでした】

「大丈夫だよ。その証拠に、精神状態は安定してただろ?」

【えぇ、まぁ、確かに……。ご主人がそう仰るのなら信用しますけど】


 ラヴィと会話をしながらズボンも履き替えた慧は、脱いだジャージをそのまままとめて鞄に突っ込んだ。


「これから部活見学に行くからもう話すことは出来ないけど、左耳にだけイヤホンは着けとくから、何かあったら言ってくれ」


 鞄のチャックを閉め、ラヴィ本体とイヤホンケースを左のポケットにしまった慧はラヴィにそう伝えながら個室を出た。


【分かりました。なるべく黙る努力はしますが、音はちゃんと聞いていますからね。何か起こりそうなら妨害しますからね!】

「分かってるって。ま、文化部の見学だからそこまで気にしなくて良いと思うけど」


 慧は軽い調子でそう言うと、トイレから出て教室に戻った。すると案の定友宏がグチグチ小言をこぼしてきたので、慧はそれを適当にあしらい、二人はおおよそ十分後に、実習棟を目指して教室を出発した。そうして丁度四階の渡り廊下に差し掛かり、もう少しで実習棟に到着しようという時、


「もういいです! 先輩方にやる気が無いなら、私辞めますから!」


 と、実習棟の方から微かに怒声が聞こえて来た。


「おっ、なんか雲行きが怪しそうだな」


 聞こえて来た内容がどうであれ、友宏は興味津々にそう言うと、少し速足で実習棟に向かった。全く、大した野次馬精神だな。と思いながら慧もその背中を追おうとしたとき、曲がり角から璃音が飛び出してきた。そして颯爽と友宏の横を通り抜け、続いて慧の横を駆け抜けて行ったのだ、その時一瞬、蝶の鱗粉のように煌く粒子を目の当たりにしたような気がした慧は思わずその場に立ち止まり、いつの間にか友宏の背中では無く、璃音の背中に視線が移っていた。


「どっかの部で喧嘩でもあったんだろ。ま、俺たちは部活見学行こうぜ!」


 既に実習棟の廊下に立っている友宏は、渡り廊下の央ほどで立ち止まっている慧に向かって声を上げた。


【ご主人、早速で申し訳ないですが、今あなたが行きたいと思っている方へ走った方が良いと私は思いますよ】


 現在の慧の精神状態を読んだのか、ラヴィの声が左側から広がり、友宏の言葉をかき消して忽ち脳を侵食した。すると何故か、二日前に下駄箱で聞いたやり取りと、昨日の放課後に見た璃音の悲し気な表情が頭の中に満ち満ちた。


「……ごめん友宏。先に行っててくれ!」


 慧は寸分も振り返らずにそう言うと、未だに視界の中で明滅している璃音の背中を追って渡り廊下を駆け出した。

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