1 新天地

 二〇八一年、九月十三日。

 日本のとある山中に、孤児院があった。

 その孤児院は飾り気のない四階建ての建物で、コンクリートで出来た四角いそれは、およそ小さめの学校か、病院のように見えた。

 午前九時十一分。

 柔らかな陽光の差し込む部屋で、少年はその細身の体にシャツとスラックスを纏い、洗面所の鏡の前に立っていた。

 彼はその年の男子としてはやや小柄で、くっきりとした二重瞼と長い睫毛が特徴的な、繊細な顔立ちをしていた。全体的に線が細く、ともすれば華奢と呼べる雰囲気すらあった。

 彼――木崎きざきケイは今日、十六歳になった。

 ケイは物心つく前から今日までずっと、この孤児院で生活してきた。両親の顔も知らないし、兄弟がいるのかも知らない。何より、今更気になりもしない。それが彼にとっての当たり前だった。



 突如、部屋の扉が叩かれた。ケイがそちらを見やると、肩にぎりぎりつかないくらいに伸びた髪の毛先が揺れた。

「今開けます」

 部屋の扉を開けると、そこには六十代後半くらいの女性が、柔和な面持ちで立っていた。彼女はこの孤児院の院長で、ケイの人生の中で最も関わりの深い人間だった。

 その微笑みに、ケイはふと違和感を覚えた。いつも通り柔らかく細められた目に、少しばかり寂しげな雰囲気を感じ取ったのだった。

 それは本当は、彼女の瞳に映り込んだケイ自身の瞳にそう思ったのかもしれなかった。しかし仮にそうとして、きっとケイ自身は認めないだろう。

 十六歳を迎えたケイは、今日この孤児院を出る。そういう決まりだった。



 ケイや孤児院に暮らす他の子供達が知っていることと言えば、『十六歳になったら孤児院を出て、他の場所で暮らすことになる』という事実だけだった。

 その理由も『孤児院で暮らせる子供の数には限度があるから』というもので、孤児院から出てどこへ行くのか、その後はどんな生活が待っているのか、誰一人として知らなかった。

 それを聞いたところで、院長はいつも温和に微笑んでみせるだけだった。ケイを始めとした皆がその顔に弱かった上、何となく聞いてはいけないことなのだといつしか察して、それについては聞かないというのが、暗黙のルールだった。

 ゆえに、ケイはこの先の未知の不安に、その表情を曇らせていた。

 そして、院長のあとをついて歩きながら思った――どうして玄関と真反対の方へ向かうんだろう、と。

 二人が到着したのは、一階フロアの最奥、院長室だった。

「さあ、入って」

「……先生。聞いてもいいですか?」

 ケイは院長に促されるまま入室しながら、駄目元でそう口にした。

 院長はケイの質問の内容を、聞かずとも察したようだった。ほんの少しだけ眉尻を下げて、困ったような声を出した。

「ごめんなさい。……この後のことは、私も実は知らないの」

 ケイはそれを、おかしな回答だと思った――しかし、院長が嘘をついているのでも、ケイを困らせようとしているのでもないのは明らかで、ケイは困惑しながらも、黙るしかなかった。

 院長は部屋に入るなり、壁に触れ、何かを探るような仕草をした。

 ケイがそれを怪訝に思って見ていると、突如、数字の書かれたボタン付きのパネルが壁に出現する。

 ケイがそれに驚いている間に、院長は何桁かのパスワードを入力した。そして、何の変哲もない壁から、今度は鋼鉄の扉が出現した。

 それはエレベーターのようだったが、孤児院の設備としては似つかわしくない大きさと重厚感を持っていた。

「これに、乗るんですか」

「そうよ」

「俺だけで、ですか?」

 院長は一歩も動こうとせずに佇んでいた。その表情はいつもの微笑を浮かべようとして、失敗していることに気付いていない感じだった。

 ケイは察した――もはや何を聞いても意味はないだろう、と。

 ケイは自分の心までをも誤魔化すように、努めて平然と微笑み、頭を下げた。

「……お世話になりました」

「頑張ってね。元気で」

 頭を上げ、小さく頷きながらケイは思う。

(頑張るったって、一体何を?)





 ケイは落ち着かない気持ちで、エレベーターに乗り込んだ。そこに階層を選択するボタンは存在せず、行き先はただ一つと決まっているようだった。

 エレベーターが下降を始めてから二分は経った。それでもケイを乗せた鋼鉄の箱が停まる気配はない。

(随分、長く下りるんだな……)

 それから少しして、エレベーターは停止した。ケイがエレベーターに乗っていた時間は合計で五分に満たないほどだったが、体感ではその倍にも感じられたので、ケイはエレベーターの扉が開くなり、ほっと息をついた。

 しかし、エレベーターから出たケイは、またすぐその息を呑む羽目になった。

 白い壁、白い床、無機質な扉。幾つもの曲がり角を有する長い廊下は、その全体の広大さを物語る。白衣を着込んだ大人がそこかしこを忙しなく行き交う様子に、ケイは呆気に取られた――今まで暮らしていた孤児院の地下に、こんな場所があったとは。

「ようこそ」

 不意に掛けられた声に、ケイは心臓が跳ねる思いをしつつ、平静を装って振り返った。

 そこにはやはり白衣を着た、歳は四十代後半くらいの、長身の男が立っていた。神経質そうな細面。レンズの分厚い銀縁眼鏡が印象的で、癖のある毛束が無造作に跳ねているのが、いかにもという感じだった。

「君が、木崎ケイ君だね。私は深山みやまとおる、この研究所で室長を務めている。どうぞよろしく」

「よろしく、お願いします」

(研究所……なのか、ここは)

 ケイは礼儀正しく頭を下げながら、男が首からストラップで下げた、腹の辺りで揺れる名札を上目遣いにちらと見た。

『国立研究機関 深山研究所 室長 深山透』――苗字が研究所の名と一致している。けれども、所長ではないらしい。もしかすれば、この男の親がそうなのかもしれない。

 深山透はケイの持つボストンバッグを見て言った。

「まずは、荷物を置きに行こうか」





「この部屋は今日から君のものだ。好きに使ってくれ」

 深山透の案内でたどり着いたそこは、十畳ほどの部屋だった。机と椅子、そしてベッド。空の本棚と、小さめの冷蔵庫も備え付けてあった。クローゼットもあるし、ユニットバスにトイレもついている。

(ここが今日から、俺の部屋……)

 ケイは肩に掛けていたボストンバッグを、ベッドの上に無造作に置いた。

(まあ……そんなに悪くはないな)

 窓がないのが致命的だと思いつつ――ここは地下だものな、と思い直す。

「適当に座りなさい」

 深山透がそう言って椅子に座ったので、ケイは辺りを見回してから、ベッドの端に腰掛けた。

「色々、聞きたいことがあると思う。今からそれを説明するが、都度、気になることがあったら聞いてくれ」

 深山透はそう言って、口の端をちょっと上げた。どうやら笑ったつもりらしい。

 ケイが頷くと、深山透は話し始めた。

「単刀直入に言う。君には我々の研究に協力して欲しい。そのためにここに来てもらったんだ」

「俺が?」

 ケイはぽかんとした顔で、間の抜けた声を出した。

「君だけじゃない。孤児院で育った他の子も、皆十六歳になってここに来た。私の父がここの所長で……深山誠一せいいちというんだが、この人が君の育った孤児院の、実際の最高責任者でもある」

 ケイは絶句した。

(それはつまり……俺が元々こうなるってことは、ずっと昔から決まっていたってことだ)

 深山透は淡々と話を続けた。

「私達のバックには国が付いている。スポンサーと言おうか。ここで行っている研究はそれほど重要で、意義のあるものだ。ひいては君の役割も、非常に大事なものだ」

「ちょ……ちょっと待ってください。国? 研究? ……一体何の、ですか」

 ケイは動揺していた。深山透のする話は、今までの日常からあまりにかけ離れていた。

「簡単に言えば……我々はここで、人間の精神力、身体能力を高めるための研究をしている。その研究のために、健康な心身を持っている若者を求めているというわけだ。どうだね、やってみてくれるかな。協力してもらえるのであれば、君の今後の生活については、確かなものを保証しよう」

「具体的には、どんなことをするんですか」

「なに、難しいことは何もない」

 ――はぐらかされた、とケイは思った。気になれば聞けと言ったくせに、深山透には説明をする気がないらしかった。

 それもそうだ。どうせケイに選択肢などなく、結果は見えているのだから。深山透は、まるでケイに選択権があるような言い方をしたが、それはあくまで建前なのだ。

 ケイには、この研究に協力する以外の選択肢は最初からなかった。

 なぜならケイは子供だった。この十数年間、月に一度の外出許可日以外は孤児院から出ることもなく、頼れる人のあてもない。あまりに無力で世間知らずの、ただの十六歳の少年だった。

 ゆえに――このような人生の岐路に立たされて、道標みちしるべも選択肢も与えられないまま敷かれた道をただ歩けと強要されても、抗うすべを持っていなかった。

 そうでなければ、生きていくことすら出来ないのだ。それがどんなに悔しくて、腹立たしくても。

 ケイは内心歯噛みしながら、頷いた。頷くしかなかった。

「ありがとう。そうと決まれば、色々とやることがある。ついて来なさい」

 そう満足げに言って、深山透は立ち上がった。

 ――とんでもない事になった。ケイはそう思いながらも、その背を追いかける以外には、何も出来なかった。

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