36.何度やり直しても

王家の夏の離宮の正門は無人だった。青銅製の門には押し入られたり、こじ開けられた様子はなく、王宮護衛隊の待機小屋周辺にも争った形跡はない。


待機小屋からはアマリアの短剣も、ルイシュやエンリケの武器もなくなっていた。オリオンからもらった美しい銀の短剣を失くしたことに深く落胆し、アマリアは門扉をくぐり抜けた。


振り返るとクラーラは困ったような顔をして、黙ってアマリアについて来ていた。言葉が通じない彼女とは意思の疎通はできないが、アマリアに離宮を訪ねるのっぴきならない事情があることは察してくれているようだった。


前庭の糸杉並木に身を隠しつつ、アマリアとクラーラはエントランスへ近づいた。建物の中からは銃声や刃物がぶつかり合う音、荒っぽい怒鳴り声や窓ガラスが割れる音が聞こえた。


下町で暮らすアマリアは刃傷沙汰やちょっとした修羅場には耐性がある。だが、本物の戦場とは無縁だ。思わず脚がすくんだ。


怖気づく気持ちを紛らわそうと、アマリアはポケットから小瓶を取り出した。レネからもらった薬用酒だ。怪しげな緑色のそれは小瓶に半分ほど残っている。「変な酔い方をする」とエウゼビオに忠告されていたが、アマリアは酒には強い方だ。景気よく、一気に飲み干す。青臭くて渋くて苦いが、ちょっと癖になる風味だ。


「アマリア!」


クラーラが慌てた様子で何か言った。一度にそんなにたくさん飲んではダメだと言われた気がする。


「大丈夫だよ、クラーラ。私、酔いつぶれたこととか一度もないから」


青くなっているクラーラにアマリアは胸を張って笑ってみせた。さっそく身体が熱くなり、気力がむくむくとわいてきた。アマリアは伝説の勇者にでもなった気分で糸杉の陰から出た。大股で前庭を進み、車寄せを通り抜け、エントランスホールにたどり着く。


この離宮は羽根を広げた鳥のように左右対称で、中央部分だけが2階建て、両翼は1階建てになっている。エントランスホールは建物の中央にあたり、天井も床も並び立つ列柱も、赤みを帯びたブラジル産の御影石でできているため、御影石のホールと呼ばれている。入口から入って正面に2階へ上がる大階段があり、左右には建物の両翼へ続く立派な両開きのドアがある。


もしまだ王女が離宮にいるなら、2階にかくまわれているのではないか。アマリアは大階段を3段ほど上り、そこで立ち止まった。踊り場にバリケードが築かれていて先へ進めないことに気がついたのだ。


「すみません! 誰かいますか!」


うずたかく積み上げられたベッドやカウチの向こうへ声をかける。何だか、いつもより自分の声が大きい。薬用酒のせいか、じっとしていることに耐えられぬほど力が有り余っている。


「ルイシュさん、私です!」


しつこくもう一度叫ぶ。すると、軽やかな足音が聞こえ、家具の隙間からエンリケの顔が見えた。クラーラが小さな声で「スコルピオン」とつぶやいた。


「エンリケさん、ご無事でよかった〜!」


アマリアが諸手を上げて喜ぶと、エンリケは目を吊り上げて怒った。


「それ、こっちのセリフ。あんまり心配させないでよ。大臣なんて、君の行方が分からなくなってからずっと、死人みたいな顔してたぞ」


「すみませんでした。ルイシュさんもそこにいらっしゃるんですか?」


エンリケの背後からは人々が忙しなく走り回る気配や、言い争うような声が小さく聞こえていた。


「いや、コスタ大臣とは君を探しに教皇庁の公使館へ行って、そこで別れたきりだよ」


「公使館に?」


アマリアは嫌な予感がした。フランシスカやアルメイダは目的のためならルイシュに危害を加えることを厭わないだろう。己の身勝手な行動によってルイシュに万が一のことがあったら悔やんでも悔やみきれない。


アマリアの表情が曇ったのを見て、エンリケはやれやれといった口調で言い添えた。


「大丈夫、大臣はオリオンと一緒にいるから。離宮が襲われるって教えてくれたのもオリオンなんだよ。で、僕だけ先にここへ。僕が戻ってきた時にはもう襲撃は始まってた」


「王女様は?」


「ご無事だよ。2階に避難されてる。怪我人も2階に集めてる。君も治療を手伝ってよ。ここは通れないから、裏を回ってそっちへ迎えに行く。僕が行くまで、あの控えの間に隠れてて。あと、これ返しとく」


エンリケは早口で説明し、アマリアへ何か放り投げた。バリケードを越えて飛んできたのはオリオンからもらった銀の短剣だった。アマリアは宝物が見つかったことに歓喜し、ルイシュの祖父の屋敷に危険が迫っていること、自室へ薬草を取りに行かなければ治療ができないことをエンリケに伝えた。


「コスタ大臣のじいちゃんのことは大丈夫。あの屋敷、僕らが訪ねた時にはもう僧兵にマークされてたでしょ。コスタ大臣が王女様に頼んで、王宮護衛隊の一部をすでに派遣してもらってるんだってさ。じゃ、僕がそっち行くから、勝手にどっか行ったら怒るよ?」


まるでルイシュのような捨て台詞を吐き、エンリケはバリケードの向こうに消える。アマリアはクラーラを振り返り、彼女のドレスの袖を引いて控えの間に向かった。王女に謁見する前に待たされた小部屋だ。


「クラーラ、エンリケさんのこと、知ってるの?」


アマリアが問うと、可愛らしい斥候せっこうは隣を歩きながら、きょとんとした顔で小首を傾げる。言葉の壁が厚い。


「クラーラ、スコルピオン、友達アミーゴ?」


アマリアは今度はゆっくりと発音してみた。ポルトゥカーレ語は元をたどればラテン語に行き着くと聞いたことがある。簡単な単語なら、もしかしたら通じるかもしれない。クラーラは考える素振りをした後、うんうんと頷いた。


「あ、やっぱり、友達なんだ?」


元盗賊と教皇庁の斥候。接点は不明だ。好奇心はうずきまくっていたが、込み入った話をするには言葉が不自由すぎる。あとでエンリケに聞くことにして、アマリアは控えの間のドアノブに手を伸ばす。


クラーラは「待って」とばかりにアマリアの手をつかんだ。彼女は緊張した面持ちでドアに耳を当て、室内の様子を確認した。クラーラは難しい顔をした後に、視線で「大丈夫」と言った。


アマリアはドアを押し開け、息を飲んだ。割れた窓ガラスの上に男が仰向けで倒れていたのだ。膝を銃で撃たれ、身体の下に血だまりができている。


アマリアは男に駆け寄った。賊のような出立ちの大柄な男には意識も息もあった。自分で処置したのだろう、太腿に革ベルトが締められ、止血はなされている。血まみれの銃弾が脚のそばに落ちているので、おそらく自分で取り出したのだ。すごい根性だ。


「とりあえず、これ、噛んでてください。痛み止めです」


アマリアは手持ちの薬草の中から適当なものを取り出し、男の口に突っこんだ。経口摂取しても何の効能もないが、こういう時、思い込みは大事だ。


男は痛そうに呻きながら、薬草を噛んだ。顔立ちや着衣から推測するに外国人だ。似たような風体の傭兵を巡礼宿や町中で多く見かけたので、おそらく巡礼者の旅に同行してコンポステーラへやってきたのだろう。命に別状はなさそうだが、鎮痛と抗炎症効果のある香薬を焚いてあげたい。増血も必要だ。


「クラーラ、私、薬草を取ってくるから、ここでエンリケさんを待ってて」


アマリアは男のそばを離れようとして、彼の上着のポケットから何かがのぞいているのを見つけた。無造作に折り畳まれた紙だ。「ちょっと、ごめんなさい」と拝借して広げてみると、それは外国語で印刷された罪人の手配書だった。文字は読めなかったが、似顔絵を見れば分かる。描かれているのはエンリケだった。


もしかして、この手配書はフランシスカやアルメイダが配布したものなのではないだろうか。「今、離宮には高額な賞金をかけられたお尋ね者がいるから、捕まえればいい金になるぞ」と。その証拠に、用紙の四隅がほとんど折れていない上に、四つ折りにした折り目も浅く、インクの匂いが強い。


「エンリケさんに会ったら、これ渡して」


アマリアは手ぶりを交えてクラーラへ頼み、小さな手に手配書を押しつける。オリオンと対等に渡り合うエンリケが巡礼者の護衛にやられるとは思えないが、気をつけるよう忠告はするべきだ。アマリアはクラーラを置いて控えの間を出た。


部屋から部屋へ移動していくと、どの部屋もひどく荒らされ、持ち出すのに手頃な大きさの高価なものが消えていた。誰もいないことを確認してから慎重に先へ進んではいたが、奇妙なことに恐怖心はなかった。心身ともに軽やかで、髪の毛の先まで何かがパンパンに漲っている。もし何者かに襲われても、右手に握った短剣で倒せる気がした。


見覚えのある部屋にたどり着いたのは、まもなくだった。エンリケにあてがわれた寝室だ。アマリアの部屋はその先だ。ホッとした瞬間、ベッドの陰に、床へしゃがみ込んでいる人影が見えた。こちらへ背を向け、エンリケの荷物をあさっている。


「見たな~?」


振り返ったのは王宮護衛隊の制服を着た陰気な男だった。頭に包帯を巻き、右目の周りが青く変色している。エウゼビオの末弟だ。町の噂によると護衛隊の備品をくすねて転売するような奴なので、どさくさに紛れて火事場泥棒を働いていても不思議ではない。


「この非常時に王女様をお守りせず、何をしてるんですか!」


怒りに任せ、アマリアは威勢よく叫んだ。奇妙な高揚感を覚えた。陰気男は悪びれず、片頬を上げて得意げに笑った。


「こんなド田舎まで連れてこられたんだ、これくらいの役得があってもいいだろ? おまえたちこそ何してる?」


“おまえたち”と言われ、アマリアは「まさか」と背後を振り返った。クラーラがついてきていた。足音どころか気配さえ感じなかった。教皇庁の斥候の技術に舌を巻くアマリアをよそに、クラーラは短剣を抜いて刃先を陰気男へ向けた。


「おや、君たちも宝探ししてるのかい?」


そう言いながら3つあるドアのひとつから現れたのは、陰気男の兄だった。鼻の骨と前歯が折れた優男風の兵士だ。この国のものではなさそうな男物の貴金属や武器を両腕に抱えている。異国の傭兵たちから奪ったのか。


「女の子だけでいるのは危険だよ」


「そうだな、宝探しなら一緒にやろうぜ。楽しいぞ」


マガリャンイス兄弟は視線を交わし、にやにやと笑いながらアマリアとクラーラへにじり寄ってくる。


「私は自分の荷物を取りに来ただけです。今すぐ王女様のところへ行くと言うなら、ここで見たことは黙っててあげます」


きっと告げ口すると思うけど。アマリアも短剣の刃を鞘から抜いた。根拠はないが負ける気がしない。


「へえ、おまえは可愛いだけじゃなくて、すごく優しいんだなあ。おれは優しい子は大好きなんだ」


「ねえ、危ないよ、その短剣、こっちに寄越しなよ」


アマリアから短剣を奪おうと足を踏み出し、優男は足元に落ちていた何かを蹴飛ばした。重々しい音を立ててごろっと転がったのは掌サイズのガラス瓶だった。口にコルク栓がはまっている。ルイシュの継母が客人たちに土産として持たせた例のあれだ。律儀なことに、エンリケはまだ捨てていなかったのだ。


「何だ? 臭うな? 食べ物、だよな?」


ガラス瓶へ手を伸ばしたのは陰気男だ。


「それは開けない方が身のためです!!!」


アマリアの必死の忠告を無視し、陰気男は瓶を指でつかむ。その時だった。陰気男の背後から小柄な人影が飛び出してきて彼を殴り飛ばした。


「こんなとこでサボって何やってんだ。さっさと王女様のところへ行け。その殺人兵器はここに置いてけ!」


エンリケは床に倒れ込んだ陰気男の尻を蹴飛ばし、陰気男は悲鳴を上げながら這いつくばって部屋から出ていく。優男も同じドアから走って逃げ出した。


「エンリケさん!」


アマリアは握りしめていた短剣をポケットにしまい、エンリケに抱きついた。元盗賊は耳を赤らめて固まった。


「ちょ、ちょっと、何?!」


「すみません、よく分からないんですが、何だか妙に嬉しくて……!」


アマリアは両腕に力を込め、エンリケに頬ずりした。エンリケはこの世のものとは思えない悲鳴を上げてアマリアの腕からするりと逃れた。


「い、意味がわからない! ていうか、酒くさ! いったい何、飲んだの!」


クラーラは見かねたようにアマリアの背中をさすって落ち着かせ、ラテン語でエンリケに説明した。元盗賊は呆れ顔で脱力した。


「アマリア、アブサントを浴びるように飲んだって本当?」


「え、あ、はい。ヌーシャルテルの、ニガヨモギの薬用酒のことですよね。元気が出るってレネ様がくれたんです」


アマリアはポケットから空の酒瓶を取り出してエンリケに手渡す。彼は酒瓶の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。


「これ、やばい酒だよ。向精神作用だか幻覚作用があるって聞いたことある」


「幻覚?!」


アマリアは辺りを見回した。これといって幻らしきものは見えない。心身が羽根のように軽やかで、活力に満ち溢れ、いつもより声が大きいという自覚はあった。


「気分がよくなるくらいなら、こんな時にはいいかもしれないけど。空、飛べそうな気がしても飛んじゃダメだよ」


そう言われると、飛べそうな気がした。


「飛んじゃダメなんですか?」


「ダメに決まってんだろ。ていうか、飛べないから」


アマリアはレネと離宮を抜け出してからの一連の出来事を端的に説明し、それからエンリケに罪人の手配書を見せた。


「これ、エンリケさんですよね? 向こうで倒れていた傭兵の方が持っていたんです」


「ふーん」


エンリケは片眉を上げて手配書を受け取り、ボソボソと読み上げた。


「お尋ね者、スコルピオン・ザッハー。生死を問わず、賞金1000ターレル。罪状はスリ、窃盗、身分詐称。20代後半、小柄、赤毛。おかしいな、どうして美男子って書いてないんだろう」


どうしてそんなに自信があるんだ。アマリアは一瞬、じとりとエンリケを見た。


「みんなエンリケさんのこと狙ってるのかもしれません。気をつけてください」


エンリケは驚くでもなく、皮肉っぽい笑みを顔に浮かべた。


「今そこで傭兵をひとり締め上げたら、いろいろ教えてくれた。彼らは巡礼者の旅に同行してコンポステーラにやって来た外国の傭兵らしい。巡礼宿でアルメイダに声をかけられて雇われて、この離宮のことは“貴族の屋敷”としか聞いてない。もちろんサルースの杯のことも知らされてなかった。屋敷からは何を奪ってもいいから、とにかく暴れろと言われて連れてこられたんだってさ」


なるほど、とアマリアは納得した。大階段のバリケードが無傷だったのは、傭兵たちがそれを無視したからだ。彼らは略奪さえできれば、2階に籠城ろうじょうした人々などどうでもいいのだ。


傭兵たちにサルースの杯のことを明かしていないということは、混乱に乗じて杯を奪おうとアルメイダやフランシスカが自らここへ出張ってきているのかもしれない。


「ついでに高額賞金をかけられたお尋ね者がいるから見つけたら好きにしていいとも言われたんだって。いやあ、まさか僕のことがバレてるとはねえ、教皇庁には優秀な斥候がいるのかなあ」


クラーラをちらりと見やり、エンリケは平然と述べる。アマリアは心苦しい思いで頭を下げた。


「ごめんなさい、私がエンリケさんを巻き込んだせいです。すぐ逃げた方がいいんじゃないでしょうか」


悪事から足を洗い、ポルトゥカーレでまっとうに暮らしていた彼を巻き込んでしまったことが今さらながら申し訳なかった。エンリケは赤茶の頭をかき、考え込むように自分の顎を撫でる。


「本当にやばいと思ったら、そうさせてもらうよ。でも、僕を巻き込んだのはコスタ大臣だ。君のせいじゃないから」


「でも……」


「でもじゃないよ。さっさと薬草、取ってきな」


エンリケは手でアマリアを追い払う仕草をし、真剣な面持ちでクラーラに何か話しかけた。教皇庁の斥候はアマリアをちらりと見て何度か頷く。何の話をしているのかわからないが、初対面には見えない。かといって、親しげとも思えない。


アマリアは自室へ続くドアノブへ手を伸ばしかけ、思い直して踵を返した。アマリアが隣室へ足を踏み入れた瞬間、エンリケがどこかへ姿を消してしまうような気がしたのだ。別れの言葉も残さずに。


「エンリケさん、ここまで一緒に来てくださって、ありがとう」


アマリアは居住まいを正し、改まって謝辞を述べた。エンリケは笑い飛ばそうとしたのか口角を上げたが、それは笑顔にはならなかった。彼は煩わしそうに目を伏せ、アマリアに背中を向けた。


「こういうの苦手なんだ。もともと僕なんて存在しなかった、そう思ってくれない?」


何でも器用に、要領よくやってしまうエンリケにも苦手なものがあるのか。アマリアは少しだけ愉快な気分になって、彼の背中で大人しくしている赤茶のさそりへ向けて言葉を続ける。


「私も得意ではないです。でも、あの時ちゃんと伝えておけばよかった、って後悔するの、嫌じゃないですか?」


アマリアは指先でドレスの下のペンダントに触れた。伝えたいこと、聞きたいことが山ほどあるのに、どうやっても言葉を交わせない人もいるのだ。せめて目の前の、声が届くところにいる大切な相手には、悔いが残らないように自分の気持ちを伝えたいと思った。


「エンリケさん、以前、自分以外の誰かを自分よりかわいいと思えない、っておっしゃってましたけど、そういうの私もあります。もしルイシュさんとエンリケさんが死にそうで、どちらかしか助けられない状況になったとしたら、私、絶対にルイシュさんを助けます。たとえ100回やり直してもエンリケさんのことは確実に助けません」


エンリケは「けんか売ってんのか」とでも言いたげな目で肩越しにアマリアを顧みたが何も言わなかった。


「100回やり直して、100回ルイシュさんを助けて、でも、私、エンリケさんのことも助けたかったって100回泣くと思います」


白か黒かの判断を迫られたら、そのどちらかを選ぶしかない。それでも、気持ちまで白と黒に分けられるわけじゃない。選択と心は別だ。エンリケがここに留まることを選ばなかったとしても、それはアマリアへの友情が尽きたからではない。


「だから、エンリケさんに見捨てられても私は大丈夫です。エンリケさんがどこかで私のために泣いてくれてるって、ずっと信じてます。絶対に恨みません。気にせず逃げてください」


エンリケの茶色の瞳が揺れ、唇が淋しげに小さく笑った。


「100回のうちの1回くらいは僕を助ける方を選びなよ」


「ごめんなさい。それはないです」


「あっそ。じゃあね」


つまらなそうに言って、エンリケは迷いのない足取りで部屋を出て行った。あっけない別れだ。アマリアは自分の寝室へ続くドアへ向かい、虚しい気持ちを紛らわせるべく、クラーラに「ねえ、エンリケさんと、どこで知り合ったの?」と尋ねるも、彼女は首を傾げるばかりだった。


ドアを開けると室内には先客がいた。教皇庁の僧兵が3人、アマリアのベッドの周りに立っていた。ベッドの上には偽物の杯がごろりと放り出してあり、その傍らにはアルメイダが座っている。


エンリケを呼び戻そうとしたアマリアの口をひとりの僧兵がふさいだ。クラーラは別の僧兵の攻撃をかわしたが、アマリアの喉にナイフが突きつけられているのを見て動きを止める。僧兵の手でドアが静かに閉められた。


「公使館から逃げたと聞いて、ここに来ると思ってたよ。薬草が濡れてダメになってしまったから、補充しなくちゃならないものな。ここ、おまえの部屋だろう。薬草の豊かな香りがする」


アルメイダは杯を手に取り、ベッドから立ち上がった。数時間前にアマリアを殺しかけた男は悪びれる様子もなく、こちらへ近づいてくる。


「なあ、アマリア、この杯は本物か? それとも偽物だろうか?」


アルメイダは乱暴にアマリアの手首をつかみ、アマリアの手に偽物の杯を握らせる。


「さあ? どっちでしょうね。本物かもしれませんし、偽物かもしれません」


アマリアはナイフを突きつけられたまま曖昧に応じた。アルメイダを混乱させたかった。時間を稼げれば、誰かがが何かを察して助けに来てくれるかもしれない。アルメイダは疑り深い眼差しでアマリアの瞳を覗き込んだ。


「種を生成できるか否か、その方法でしか真偽の判断はできない。やってみたまえ」


「これは偽物なので生成はできませんよ」


アマリアは杯をベッドの上へ放った。床に投げ捨てては偽物だとバレてしまう。アルメイダはにやりと笑い、杯を拾い上げて再びベッドに腰を下ろした。


「時間を稼ぐために私を欺こうとしているのは分かっている。アマリア、この杯はな、おまえの荷物と一緒に、実に無造作にここに置いてあったんだよ。擬態なのかもしれないが、本物のサルースの杯をそんなに雑に扱うだろうか?」


「ええ、ですから、それは偽物だと言ってます。でも大切に扱ってくださいね、本物なんですから」


まるで女教皇のようだ。訳の分からないことをわざと言いながら、アマリアは内心で自分を笑った。もしアマリアがアルメイダなら、そろそろ苛立つだろう。しかし老人は気長だった。


「常識的に考えて、偽物と判断すべきだろうな。だが、念のため、もらっていくよ。もちろん君にも来てもらう」


アルメイダは3人の僧兵へラテン語で何か命じた。アマリアを取り押さえていた僧兵が腰の剣を抜く。別の僧兵がアマリアのドレスの裾をめくり、両手で右脚をしっかりとつかんだ。逃亡を防ぐため脚を斬るつもりだ。


アマリアが恐怖に身をすくめた瞬間、クラーラが自分を捕縛していた僧兵をアマリアへ向かって投げ飛ばした。アマリアはふたりの僧兵とともに床へ倒れ込む。クラーラは別の僧兵の胸ぐらをつかんで顔面を殴り、起き上がろうとしていた僧兵の股間を踏み潰した。


アマリアは教皇庁の斥候であるクラーラのことを「情報通の変装の名人」くらいにしか思っていなかった。しかし、思い起こせばエウゼビオはこう言っていた。クラーラは「身長だけが条件を満たせず夜明け団に入れなかった」と。つまり、身体能力や腕っぷしは欧州最強の傭兵たちに劣らないということだ。


呆気にとられているアマリアとは対照的に、アルメイダは素早く次の手を打った。懐から短銃を取り出し、クラーラに向かって発砲したのだ。彼女は手近な僧兵の胸倉をつかみ、盾の代わりにした。2連式の短銃から飛び出した弾丸は憐れな僧兵の右肩と脇腹をまともに貫いた。


「な、何なんだ、この娘は?」


上ずった声でアルメイダがアマリアに問う。アルメイダはクラーラのことを知らないのだ。あっさりやられてしまったところを見るに、この3人の僧兵たちにとっても彼女は未知の存在だったのだろう。


クラーラは銃創を負った僧兵を床に投げ捨て、自分の足首に革ベルトでくくりつけていた短銃を手にした。呼吸も乱さず、顔色ひとつ変えず、彼女は銃口をアルメイダに向ける。


「待て、やめろ!」


アルメイダは叫んだが、クラーラは構わず引き金に指をかけた。それを見て、股間を押さえてのたうち回っていた僧兵がクラーラに足払いを試みる。クラーラは仰向けに転倒した。


アルメイダは起死回生の機会を逃さず、クラーラの手首を踏みつけてその小さな手から短銃を奪う。彼女の靴先が雷のような速さで跳ね上がり老人の鼻を直撃したが、短銃を奪い返すには至らない。


アマリアはクラーラに盾代わりにされた僧兵に羽交い締めにされた。足元に彼の血が滴り落ちる。クラーラも残る僧兵にふたりがかりで取り押さえられた。


「とんでもない女だな。ちっちゃなオリオンと言ったところか?」


アルメイダは溢れ出る鼻血をハンカチでぬぐい、クラーラの頬を靴底で踏みにじった。クラーラが低い声で悪態をつくと、アマリアを押さえつけている僧兵が激昂して言い返した。


アマリアはその場にいる男たちを素早く観察した。全員がクラーラに気を取られている。今しかない。アマリアは渾身の力で背後の僧兵の足を踏みつけ、エンリケの部屋へ続くドアに向かって走った。


ドアを押し開けた瞬間、銃弾が飛んできてアマリアの左腕をかすめた。火傷したような痛みが走る。アマリアは歯を食い縛り、エンリケの部屋の床に落ちていた武器を拾って自分の背後に隠した。


「アマリア、持っているものを寄越しなさい」


アルメイダが短銃へ新しい弾丸を込めながら、エンリケの部屋に入ってくる。


「そして両手を上げて床に伏せるんだ。おまえの大冒険の結末は最初から決まっているんだよ。痛い思いをするだけ損だと思わないかね?」


老人はアマリアへ詰め寄り、アマリアは後退りした。すぐに背中が狭い部屋の壁にぶつかる。


「おまえのことは前々から馬鹿な娘だと思っていたよ。貧しい者たちを無償で治療して、その結果、滞納金を膨らませて正義を気取っているのも目障りだった。だが、これほどまで愚かだったとはなあ」


暗い銃口を向けられ、アマリアは立ちすくんだ。殺されることはない。それが分かっていても、怪しげな酒で気分が高揚していても、身体が震え、心が縮み上がる。


「おまえは馬鹿で目障りで、己の正義に酔った自分勝手でわがままな小娘だよ。コンスタンサには似ても似つかない」


アルメイダが暗い瞳で笑った。アマリアは母の名を耳にして、なけなしの勇気を奮い立たせた。背中に隠していたガラス瓶からコルク栓を抜き取り、その中身をアルメイダの顔に向かってぶちまける。


「な、何だ、何だこれは!」


発酵タラの塩漬けを顔面に浴び、アルメイダはその感触と臭いに錯乱した。あらかじめ息を止めていたアマリアは強烈な刺激臭に屈することなく、短剣を抜いて両手で握り、老人に向かってそれを突き出した。


「何をする!」


オリオンに教わったとおり腎臓を狙ったが、わずかに躊躇ったせいか、老人は小娘の攻撃をギリギリでよけた。ところが、パニック状態のアルメイダは何かに足を取られて床に転んだ。エウゼビオの弟たちが物色していたエンリケの荷物だ。


アマリアはアルメイダの手から短銃を奪った。彼がクラーラにしたのと同じ方法で、老人の手首を踏んだのだ。


「私は馬鹿で目障りで、己の正義に酔った自分勝手でわがままな小娘ですけど、だから何だって言うんですか? 私には野望があるんです。そして私は毎日元気に、誰よりも平穏に暮らさなきゃならないんです。邪魔する人がいたら、怒ります」


悪臭を放つタラにまみれた香薬師協会会長の顔へ、アマリアは銃口を真っ直ぐに向けた。


「アマリア、おい、短銃なんて初めて持っただろ? 使い方を間違えると自分が怪我をする。危ないから返しなさい、さあ」


アルメイダは青ざめ、甘い声色で諭しながら、アマリアへ片手を差し出す。躊躇すれば失敗することは学習済みだ。アマリアは凪いだ心で引き金に指をかけ、アルメイダを見下ろした。


「ご心配なく。使い方は母の遺品の着火具と同じです。仕組みは後見人から教わっています」

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