32.コンスタンサの娘

修道院の一室で女教皇へ丁寧にお辞儀をしながら、アマリアは「帰って薬草の仕込みをしたいな」と考えていた。


市場で買った薬草は完全に乾燥しきっていないので、根元の方を紐でくくり、風通しのいい日陰に何日か吊り下げておかなければならない。カラカラに乾いた薬草は部位ごとに使いやすい長さにカットして薬草瓶に収める。


この作業を怠ると、いざという時にいい治療ができない。孤児院長のセルジオが口を酸っぱくして教えてくれたことだ。「日々の仕事をサボったせいで救えたはずの者が救えなかったら、悔いが残るぞ」と。


「猊下、これが香薬師のエストレーラです」


レネがアマリアを紹介すると、女教皇は「顔を上げろ」と言った。素っ気なく冷たい声だった。


アマリアは指示通りに顔を上げ、姿勢を伸ばした。緊張はしていたが、不思議と気分は落ち着いていた。痩せ細り、身体の節々が変形してしまったリウマチ患者の前に立ってしまえば、相手が女教皇だろうが女王だろうが、治療を施すべき患者にしか見えない。


「香薬なら、今朝、アルメイダに焚かせた。大したことはなかった」


女教皇は純白の祭服姿でベッドへ寝そべったまま、気怠げに言った。天蓋つきのベッドはここが修道院だということを忘れるほど派手派手しく、金糸銀糸の房飾りが無駄に垂れ下がっていた。室内の他の家具や調度品も同じ具合で、くどいほどに豪奢だった。


「アルメイダはヤブ香薬師です。この娘の香薬は実によく効きます。私の従者の銃創もあっという間に癒えました」


レネの従者とは、3日前にアマリアが治療した教皇庁の馬車の馭者のことだろう。 盗賊団を装ったルイシュやエンリケたちに銃撃された時のことだ。


「ぜひ、この娘に猊下の治療をさせたいと存じますが、よろしいでしょうか?」


慇懃無礼なほど恭しい口調でレネが問う。本当に母子なのかなとアマリアが疑うほど、彼らの間に打ち解けた空気はない。


女教皇が承諾を示すようにアマリアへ手招きした。アマリアはレネと視線を交わしてから前へ進み出る。女教皇にはべる侍女と、夜明け団の4人の兵士がアマリアを注意深く見つめていた。彼ら以上に疑り深い眼差しでアマリアを観察しているのは女教皇自身だ。


「50年前のドレス、ボロボロの編み上げ靴、上等な香油の香り、馬糞の匂いが少々。いい手をしている、勤勉な職人の手だ。イヤリングを片方なくしていることに気がついていないところを見るに、やや鈍臭い」


アマリアの頭からつま先までをねっとりとした視線で眺め、女教皇は片頬を上げて微笑んだ。フランシスカやレネとよく似た理知的な顔立ちだ。近くで見ると、60歳という年齢以上にしわが深いように感じた。


「え、イヤリング……!」


アマリアは床の絨毯じゅうたんへ視線を走らせつつ両耳へ手を伸ばした。借りた装飾品はルイシュの母のものだ。紛失なんて絶対にできない。


「……ある」


イヤリングは両耳にちゃんとあった。女教皇は腹を抱えておかしそうに笑った。


「あーはっはっはっは! 私は騙されやすい間抜けな小娘が大好きだ。来い、さっさと治療しろ」


この人は間違いなくレネの実母だ。アマリアは確信し、女教皇のベッドのそばに膝をついた。呆れて何も言えなかったが、その方がいいだろう。余計なことを言ってご機嫌を損ねては、この後の“本題”に支障があるかもしれない。


アマリアがここに来た目的はひとつ。女教皇に身の安全を約束してもらう。王妃やフランシスカにアマリアを諦めさせるには、それしかない。


ドレスの下の革製ポケットから商売道具を取り出し、アマリアは女教皇の背格好をさりげなく確認した。彼女はポルトのスラム街に住むリウマチ患者のヴィオレッタと体型が近かった。アマリアはいつもヴィオレッタのために焚く香薬を全く同じ分量で調合し、薬草を振り香炉へ詰めた。


「おまえ、ポルトゥカーレ前王妃の若い頃に似ているな。そうか、フランシスカが言っていたコンスタンサの娘だな?」


アマリアが香薬を焚き始めると、女教皇はあっという間にアマリアの正体を見破った。黒い瞳が「お見通しだぞ」と言っていた。


「そうです。これは母のレシピで調合したものです」


アマリアは隠さずに答え、患者へ香薬の種を差し出す。毒見をしようとしたのだろう、夜明け団の兵士が進み出て手を伸ばしたが、女教皇は身振りでそれをやめさせ、自分の口へ香薬の種を含んだ。彼女は振り香炉から立ち上る白煙を吸い込み、静かに目を閉じた。


「ああ……痛みが引いていく。アルメイダに焚かせたものより、ずっといいな。さすがはコンスタンサのレシピだ」


その安らかな顔は、これまでアマリアが診てきた他の患者と何も変わらなかった。スラム街の老婆に焚く香薬と同じもので女教皇を癒し、女教皇がスラム街の老婆と同じ反応を示していることがとても不思議だった。富める者も貧しき者も平等に病に冒される。病とは、健康とは何なのだろう。


「質問の答えをまだ聞いていなかったな。寝る前に、お祈りはするのか?」


黒い瞳を半分だけ開き、女教皇はアマリアを見つめた。好奇心旺盛な少年のような目だった。


「もちろんです」


大嘘をついた。毎日くたくたになるまで働いている。祈る時間があれば眠りたい。朝は朝で、起床すると店の前で患者が待っているし、患者がアマリアの部屋のドアを叩いて起こしてくれることもある。服を着替え、顔を洗い、髪をとかして寝癖を直し、大慌てで家を出るのが常だ。いつも目の前のことに追われていて、目に見えぬものを思う時間も、祈る時間もない。


「その顔は嘘をついている顔だ。おまえ、無神論者か?」


どきりとしてアマリアは振り香炉を落としそうになった。神々を信じぬ者は無教養な危険人物か頭のおかしい異常者だと見なされる。アマリアは慌てて弁解の言葉を探した。


「ま、まさか。私は神々を信じてます。聖書もときどき読みますし、教会にもたまに行きます」


女教皇と枢機卿の前で何を言っているんだ、私は。ポルトゥカーレ語が分かれば、夜明け団の兵士も侍女たちも目を剥いてアマリアを睨んだことだろう。女教皇は冷笑した。


「たまに、ときどき、か。困ったことがあった時だけ都合よく祈るのだな」


まずいことになった。完全に軽蔑された。アマリアは背中に汗をかいていた。レネの方をちらりと見ると「ばーーーか」と言いだげな呆れ顔をしていた。


「おまえにとって信仰とは、必要な時に必要なだけ使用する道具に過ぎないということか?」


「そ、それは……」


どう答えるのが正解なのだろう。取り繕っても見破られる気がする。かと言って、正直に話して危険思想の持ち主だと思われては困る。アマリアはドレスの生地の上からペンダントに触れた。言葉に詰まるアマリアを、女教皇は愉快そうに眺めている。


教会や神々の存在を否定する気はさらさらない。だが、アマリアのいた孤児院へ寄付してくれていたのは裕福な貴族や商人で、アマリアは彼らの善意によって生き延びた。彼らへの恩はあれど、神々に対しては特別な感情はない。


それに、つらい時に思い出すのは神々の存在ではなく、ルイシュがセルジオに宛てたあの手紙の文面だ。大袈裟に言ってしまえば、あれはアマリアの聖書バイブルなのだ。何があろうと彼の記した文字を思い浮かべ、胸の中で唱えるだけで心が救われる。


「私には神々の他にも心のよりどころがあります。それに、自分で何とかできることは、自分の力で何とかします。ですから、神々には本当に困った時だけご相談するようにしているのです」


自分でも何を言っているのかよく分からなかったが、アマリアはきっぱりと断言して胸を張った。女教皇は話の内容ではなく、小娘が何か言い返したことを気に入ったようで、唇の端を上げて目尻を下げた。


「ほほう。その時、神々はおまえを助けてくださるのか?」


「もちろんです」


最後に祈ったのがいつなのかも思い出せないけれど。神々にとってアマリアは可愛げのない信徒だ。


「おまえの考えは分からないでもない。私の心のよりどころはアヘンと酒だ。私を痛みから解放してくれるのは信仰ではない」


叱責されなかったことに安堵しつつ、アマリアは耳を疑った。教会のヒエラルキーの頂点に座する人の発言としては大胆過ぎる。


「それでも私は毎日、神々に祈っている。だから今日おまえが大聖堂へやってきたことも、私を訪ねてきたことも、神々の思し召しに違いないと思うのだ」


レネがアマリアの背後で身じろぎした。


「コンスタンサの娘よ、おまえのことはフランシスカから聞いている。なぜ、ここへ来た? 私に捕らえられるとは思わなかったのか? 私は今こう思っているぞ。このままジュネーヴへ連れて帰っておまえの治療を毎日受けたい、と」


女教皇は好戦的な目で笑った。振り香炉を振りながら、アマリアは後退りしそうになった。


「おまえのように若く健康な者にはけっして理解できないだろうがな、老い衰え、病に蝕まれた老人は己の健康のためなら何だってするものだ。神々を裏切り、悪魔に魂を売ることもある」


「お、お望みでしたら、レシピを紙に書きます。レシピさえあれば誰にでも焚ける香薬です。それから、生成したての香薬の種をジュネーヴへ届ける方法も考えました。ポルトから2日か3日で届けられる方法です」


アマリアはしどろもどろに申し出る。その隣へ立ち、助け舟を出したのはレネだった。


「猊下、この娘が言っていることは本当です。夜明け団の軍用鳩を使って、ポルトからジュネーヴへ種を運ぶのです。これからは今までよりずっといい治療を受けられます。私が保証します。ですから、この娘はポルトへ帰してやってください」


女教皇は息子の言葉を鼻で笑った。


「レネ、私はな、この娘に香薬の種を生成する力があるということも聞いているのだ。この娘をジュネーヴへ連れて帰れば、生成したての香薬の種を湯水のように使えることは分かっている。みすみす鳥籠から逃がすと思うか?」


「この娘は猊下に助けを求めてここに来たのです。聖職者とは困窮者を救うものです。その頂点に立つあなたが私利私欲のために彼女の手を振り払うなど、あってはならないことです」


ときどき神経を疑うような言動をするレネが初めてまともな人間に見えた。母と息子の舌戦の最前線で、アマリアは固唾を飲むことさえできず身を縮めていた。


「助けが必要なのは私の方だ。それに、聖職者とは神々でも聖人でもない、ただの人間だ。すべては救えない」


女教皇は小さく欠伸し、柔らかそうな絹の枕に顔を埋めた。痛みが引くと眠りこんでしまうところまでヴィオレッタと同じだ。目を閉じたまま、女教皇が右手の指先で合図を出すと、夜明け団の4人の兵士がアマリアを取り囲んだ。


「小娘よ、おまえの望みは理解した。私に手助けできるか否か、よくよく検討してやる。私が熟考する間は隣室で待て」


女教皇は口ではそう言ったが、これから熟考しようという人には見えなかった。明らかに寝ようとしている。アマリアは困惑し、レネの顔を仰いだ。彼は苦虫を噛みつぶしたような表情で母親の枕元に片足をかけた。


「母上、コンスタンサは可能な限り多くの患者を救いたいと言っていました。すべてを救えなくても、己の手の届く限り、ひとりでも多くを救いたいと。彼女は聖職者ではありませんでしたが、あなたより、よほど志が高い人だった」


絹のシーツが枢機卿の朱色の靴で汚されたのを見て、女教皇は感情のない目でじろりと息子を見上げた。


「母親に説教か」


「これは説得です。今日は聖スアデラの祝祭日ですから」


「そうか。聖スアデラの加護があらんことを」


そう言って小さく息をつき、女教皇は睡魔に連れ去られるように眠ってしまった。真鍮の振り香炉からはまだ白煙が上がっていたが、アマリアとレネは隣室へ移動するよう夜明け団の兵士に促された。


「レネ様、私、結局、どうなるんでしょうか?」


腰をかがめ、隠し扉のような小さな出入口をくぐりながら、アマリアはレネに尋ねた。女教皇からは様々な言葉をかけられたが、アマリアを捕らえるつもりなのか、助けるつもりなのか、よく分からなかった。レネは肩越しに母親の寝顔を顧みて、険しい表情で首を振った。


「あの母は狡猾だ。わざと、わけの分からない曖昧なことを言っている。おそらくフランシスカに対しても適当なことを言っているのだろう」


アマリアとレネを女教皇の部屋から追い出すと、夜明け団の兵士はすぐにドアを閉めた。こちら側にはドアノブがなく、あちら側でしか開閉できない仕組みのようだ。追いやられたのはダイニングルームのような部屋で、巨大な長テーブルと十数脚の椅子が並んでいる。厚いカーテンが引かれた室内は暗い。


「母はフランシスカが優勢ならあいつを助け、フランシスカが劣勢ならおまえに協力するつもりだ。自分がいい治療を受けたいがため、どちらに転んでも必ず勝ち馬に乗れるよう企んでいるのだ」


そういうことなら、現在はフランシスカが圧倒的に優勢なのではないだろうか。彼女はアルメイダを使ってルイシュからサルースの杯を奪還している。女教皇がここでアマリアを捕まえてしまえばフランシスカの完勝だ。なぜ女教皇はそう判断しないのだろう。


「そのとおり、あの母に期待しても無駄だぞ、レネ」


涼やかな声がして、アマリアはダイニングルームに先客がいることに気がついた。暗い部屋の中でその人はシルエットしか見えなかったが、長テーブルの端で紅茶を楽しむほっそりとした姿には見覚えがあった。傍らに立つ侍女の顔にも。


「フランシスカ!」


レネが驚いたように叫んだ。


「話は済んだか? 収穫はなかっただろう?」


意地の悪い笑みを顔に浮かべ、座ったままこちらを振り向いたのはマガリャンイス伯爵夫人フランシスカだった。黒いドレスを着た貴婦人は優雅に寛いでいる。レネは「フランシスカは抹香臭い場所が嫌いだから大聖堂には来ない」と自信たっぷりに言っていた。完全に当てがはずれた。


レネはアマリアのドレスの襟首をつかんで自分の方へ引き寄せ、ラテン語で姉へ何か言った。ほんの数日間ではあったが、一緒に旅をしていたにも関わらず、アマリアは彼らが言葉を交わしているのを初めて見た。フランシスカの母語はフランス語で、チューリッヒで生まれ育ったレネの母語はおそらくドイツ語だ。父親が異なるとはいえ、姉弟の会話が教皇庁の公用語というのは奇妙だった。


「アマリア、残念だが、女教皇の舌は2枚あるのだ」


驚いて立ち尽くすアマリアに説明したのはフランシスカだった。かつてアマリアの店の経営を支えてくれていた羽振りのいいお得意様パトロンは、白い美貌に薄ら笑いを浮かべ、氷のような声で言った。


「母はおまえを助けることを検討すると言ったらしいが、私に対しても良い顔をしている。ルシアの夫をたぶらかした女の娘をジュネーヴへ連れ帰るのは名案だ、と。こうして見ると、私たちの共通点は母親に恵まれなかったことだな」


王妃やフランシスカはコンスタンサの娘に復讐しようとしている。王女やレネはコンスタンサの娘を助けようとている。アマリアが別の母親から生まれていれば、彼らはアマリアなど歯牙にもかけなかっただろう。母を恨むべきか、母に感謝すべきか、アマリアは混乱した。


そして、ふと思った。ルイシュはどうなんだろう。もしもアマリアがコンスタンサの娘でなかったら、彼はアマリアを気にかけてくれただろうか。絶対にジュネーヴに行かせないと言ってくれただろうか。


「そうだ、アマリア、今日は水曜日だな」


フランシスカは美しい仕草でお茶のカップとソーサーを持ち上げた。曜日の感覚などアマリアにはもうない。王宮の舞踏会に行った日が金曜日で、あれから5日が経っているということしか分からない。


「おまえが往診に来てくれるのは毎週木曜の午前中だが、今週は少し早くてもいいだろう。教皇庁の公使館へ招待する。香薬を焚いてくれ。その後はいつものように茶飲み話でもしよう」


「私がご招待に応じるとお思いですか?」


アマリアは侮蔑するように笑った。フランシスカはどこ吹く風だった。赤い唇をカップにつけ、紅茶を飲み干す。


「私はな、アマリア、儀式の前におまえの後見人に会って話をした。奴がおまえを守るために何をしようとしているか、おまえは知っているか?」


それは喉から手が出そうなほどアマリアが知りたいことだ。顔に出てしまったのか、フランシスカは勝ち誇ったような流し目をアマリアに寄越した。


「知りたければ公使館へ来るといい。ヌーシャルテルの菓子でもてなそう」


侍女が椅子を引き、黒いドレスの貴婦人は立ち上がった。彼女はゆっくりとした所作で身を翻し、部屋を出ていった。


「罠だぞ。おまえのような愚か者でも理解できるだろうが」


レネはそう言ってアマリアのドレスの襟首をつかみ、手近な椅子を引いてアマリアを座らせた。


「もちろん、わかってます。でも、ルイシュさんとマガリャンイス伯爵夫人が何を話したのか知りたいです」


「ならば、ダ・コスタ大臣に聞けばいいだろう」


それはそうだ。危険を冒してフランシスカを訪ねる必要はない。ルイシュが白状してくれるかどうかはわからないが。


「私、帰ります。レネ様、ご面倒おかけしました」


ルイシュやエンリケや王女がまだ大聖堂にいれば、一緒に帰れるだろう。もし彼らが立ち去った後なら、歩いて離宮まで帰る。ここから海辺までは30分もかからない。アマリアはそう思ったが、レネは立ち上がろうとするアマリアを椅子に座らせた。


「エウゼビオに送らせる。ここを動くな」


レネはアマリアへ強い口調で命じ、足早に部屋を出ていった。

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