25.スコルピオンと狩人

アマリアはオリオンを追いかけようと椅子から腰を浮かせた。エンリケは平然と食事を続けながら、気だるげな口調でそれを止めた。


「やめな。コンポステーラに着いたら、オリオンは教皇庁の奴らのところへ戻ると思うよ。あんまり深入りしない方がいい」


「でも……」


「大臣閣下が君に肝心なことを話してないのは、君からオリオンへ情報が流れることを警戒してるんだよ。短慮の割には、まあまあ注意深いよ、あいつは」


アマリアはオリオンを追うことを諦め、椅子に座り直した。オリオンと過ごしたのはほんの数日だ。初対面はアルメイダに呼ばれて訪ねた香薬師協会本部の会議室だった。アマリアは彼女に欺かれ、脅され、軟禁された。彼女を慕わしく思うのはおかしなことだ。分かってはいたが、気持ちは割り切れない。アマリアは自分の皿に盛った料理を沈んだ気持ちで口へ運んだ。


「まだ食べる? いらないなら残りは僕がもらうけど」


そう断ってから、エンリケは鍋の中の雑炊を自分の皿に盛りつけ、きれいに平らげた。小柄な美少年のような容姿から想像できない食欲だった。


食事を終え、食堂を出たふたりは香薬屋を探すことにした。アマリアの手持ちの薬草が底を突きそうだったのだ。時刻は20時を過ぎているものの、空はまだ明るい。


元盗賊とふたりで街を歩くなんて、当然ながらアマリアには初めての経験だった。エンリケは早朝から馬に乗り続けていたとは思えないほど元気で、くたくたに疲れているアマリアにあれこれと気遣いをしてくれた。


「あのさ、人違いかもしれないけど」


老若男女がごった返す通りを歩きながら、ふたりが甘い揚げパンを頬張っている時だ。突然、片言のポルトゥカーレ語で声をかけてきた男がいた。彼の瞳はエンリケの顔を凝視していた。


「おまえ、スコルピオンだろ?」


男は半ば確信した様子でそう尋ね、その後、外国語で親しげに言葉を続けた。エンリケの表情がにわかに険しくなったが、次の瞬間、彼はにこりと微笑んだ。


「悪いけど、人違いだよ」


エンリケはポルトゥカーレ語で言って、早足でその場から立ち去る。アマリアは彼を追いかけ、好奇心に胸を膨らませて尋ねた。


「スコルピオンって何ですか?」


「昔、仕事してた時の通り名」


面倒くさそうに答え、エンリケは細い路地に入った。“ディオゴの香薬屋はこちら”という小さな看板の矢印に従ったのだ。


「もしかして、オリオンとコンビを組んでました?」


「はあ?」


「だって、オリオンとスコルピオンだなんて、でき過ぎじゃないですか」


「でき過ぎって言われてもね、偶然だよ。オリオンって呼び名は、子供の頃のあだ名とか、そんな感じだったと思うよ。本名は何て言ったかな、たしか、アデ……? アメ……? うわ、やばい、忘れた」


エンリケががくりと項垂れた時、細い路地の突き当たりに古ぼけた小さな店が見えた。木製の赤いドアが開いていて、店内から患者が溢れ出すほど繁盛している。行列をつくっているのは外国の巡礼者ばかりで、おそらく、母国にはない珍しい体験をしてみたくて店を訪れたのだろう。ふたりは食べかけの揚げパンを手に最後尾へ並んだ。


「博士がオリオンを騙したのは、何年前のことなんですか?」


今朝、エンリケに蛇を投げられたことをアマリアは根に持っていた。その悪意ある質問にエンリケは不愉快そうに顔をしかめたが、暇つぶしの気まぐれなのか、案外すんなりと口を開いた。


「12年前かな。僕も彼女も17歳、あの頃は若かったあ。おもしろい話じゃないけど、聞く?」


アマリアが揚げパンを飲み込みながら頷くと、エンリケは周辺の人々の会話に耳を傾け、近くにポルトゥカーレ語話者がいないことを確認してから話し始めた。


「僕は当時、神聖ローマ帝国のいくつかの領邦を旅して暮らしてた。貴族や豪商や豪農の屋敷に忍び込んで、誰も傷つけずに金目のものを盗み取り、上りの一部を恵まれない人々に分け与える盗賊だった。義賊とか社会派盗賊なんて呼んでくれる人もいたけどね、やってることは泥棒だから、あちこちで指名手配されてたよ」


皮肉っぽく微笑み、エンリケは路地から見える狭い茜空を見上げた。


「ある時、とある領邦で農民の青年団から仕事を頼まれた。領主の館に潜入して、その正確な見取り図を作り、館の警備体制や金品の隠し場所を調べてほしいと言われたんだ。農民たちは不作による貧困に喘いでいて、領主の館から金目の物を盗み出すことを計画していたんだ」


都市部で生まれ育ったアマリアには農村部の話は今ひとつピンとこなかったが、口を挟まずに遠い国の昔語りを聞いていた。


「彼らは犯行にあたって誰のことも傷つけないと僕に約束した。それに、さすがの僕も領主の館から何かを盗んだことはまだなかったから、腕試しだと思って依頼を請けて、誰かのコネか何かで兵士として領主の館にもぐりこんだんだ。その領主には孫娘がいた。それがオリオン」


「領主の孫?」


悪魔のように強いあの女傭兵がまさか、とも思ったし、あの麗しく優しい彼女なら高貴な生まれということもあり得る、とも思った。


「そう。もちろん、ただの兵士が領主の孫娘に近づくことなんてできないから、僕はオリオンから情報を得ようとは思ってなかった。だけど、ちょっとしたキッカケがあって、僕たちは、何と言うか、仲良くなったんだ。僕は人間性には問題があるけど、顔はこのとおり、男前でしょ」


エンリケは自分の頬を軽くたたいた。アマリアは冷めた目で彼を見やり、話の先を促した。


「夜な夜なオリオンの部屋に通って、僕は彼女から情報収集した。領主の日課とか、館のどの部屋にどんな宝物が保管してあるか、とかね。やがて計画は進み、いよいよ当日を迎えた。そうしたら、聞いていた話と違ったんだよ。それは農民の反乱だった。彼らは領主の館へ押し入り、領主の家族や使用人を片っ端から殺した」


低い声で淡々と語り、エンリケは目を閉じる。


「館からはありとあらゆるものが持ち出された。絵画、照明、家具、寝具、服飾品、装飾品、ヴェネツィア製の窓ガラス、銀の食器、東洋の大皿、調理器具、馬、家畜、ワイン樽を担いで持って行く奴もいた。根こそぎ奪われた後、館には火が放たれた。オリオンも大けがをしていて、僕は燃える館から彼女を連れて逃げた。その途中、街道添いの丘の木に領主と息子たちの遺体が張りつけにされてた。オリオンはそれを見て気を失った。僕は小さな教会に彼女を預けて、別の領邦へ逃げた。オリオンとは、それっきり会ってなかった」


17歳の時、アマリアはまだ孤児院で暮らしていた。朝から日没まで事務仕事や子供たちの世話をして、夜は孤児院長のセルジオから香薬学を学び、深夜から明け方までは予習と復習をして過ごしていた。大変な毎日ではあったが、胸の中には父親かもしれないルイシュ・ダ・コスタという人がいたし、目標のある忙しい毎日は充実した日々でもあった。


だから、同じ17歳の頃、オリオンやエンリケが、そんな残酷な経験をしていたと知って、アマリアはたまらなくショックだった。


その後に深窓の令嬢がどのような経緯で教皇庁の傭兵になったのかは分からないが、彼女のあのちぐはぐな魅力は、持って生まれたものと、つらい経験と、その後の人生で培われたものなのだろう。


「オリオンは家族を失って、ひとりぼっちになってしまったんですよね? どうして、オリオンのそばにいてあげなかったんですか?」


差し出がましいことだと自覚しつつ、アマリアはたまらず聞いてしまった。エンリケはバツが悪そうな顔で頭をかいた。


「自己保身。反乱に関わった領民は捕らえられて拷問を受け、処刑される。彼らの誰かが僕のことを吐いたら僕の身も危険だ。だから、昨夜、君に言ったことは本当のことだ。僕は君に親切にはできるけど、いざ自分に死の危険が迫ったら、君なんて放り出して一目散に逃げる。自分以外の誰かを、自分よりかわいいと思えない。僕はそういう奴なんだ。だから、僕のことは信じてくれるな」


そう言って残っていた揚げパンを口に詰め込んだエンリケの瞳は淋しげに見えた。本当はもう一度、誰かを信じ、誰かに信じられたいのではないか。それを言葉にしていいものか迷っている間に、店の中から声をかけられた。


「おい、誰かと思えば君、20歳で香試に合格した嬢ちゃんじゃないか!」


アマリアに手を振っているのは、店主のディオゴと思しき初老の男だった。頭髪がさびしく、顔の各パーツが異様に大きいこの男、見覚えがある。アマリアは記憶を探り、すぐに答えに思い当たった。


「あ、3年前、香試で!」


「そうだよ、一緒にアルメイダ会長の口頭試問を受けた俺だぜ!」


手を取り合って喜ぶ店主とアマリアを客たちはポカンと眺めていた。香試の合格者の平均年齢は約40歳と言われている。当時、アマリアが20歳、ディオゴが60歳だったので、“ソル・ド・ポルト”は「まさに平均……?」という見出しをつけた記事でふたりの合格を報じた。同期合格者がこんなところにお店を出していたとは知らなかった。


ディオゴはアマリアに様々な薬草を安く譲ってくれて、ついでにエンリケの右肩の傷を治療してくれた。アマリアは積もる話をしながら彼の店を少し手伝った。同期との再会は思いのほか盛り上がってしまい、店を出る頃にはとっぷりと日が暮れていた。


巡礼宿へ続く暗い通りにはまだ、それなりの人通りがあって、開いている飲食店も少なくなかった。折れそうなほど細い月の下、アマリアはエンリケと並んで歩きながら、この1時間ほどで考えていたことを思い切って口にした。


「信じることは思考停止だって博士は言いますけど。私はルイシュさんになら騙されてもいいです。どんな酷いことをされてもいい。ルイシュさんを疑う私なんて、そんなのはもう私じゃありませんから。思考停止と言われても構いません」


「それ、もはや恋じゃなくて狂気だよ」


エンリケは馬鹿にしたような目で笑った。アマリアが注意深く観察していると、その目にはだんだんと羨望の色が滲み、やがて懐かしそうに道の先を見た。


「君は昔のオリオンに似てる。盲目的に僕を慕ってくれていた頃のオリオンに。オリオンは君を守ることで、あの時に守れなかった自分自身を、守ろうとしているのかもしれないね」


それは博士も同じなんじゃないですか、とアマリアは言いそうになって、口をつぐんだ。12年前にオリオンを欺き、彼女のそばにいてあげられなかったことを彼はきっと悔やんでいる。アマリアに協力することで、その思いを昇華しようとしているのではないか。そんなことを言ったら怒られる。


「でもね、アマリア、僕が心配してるのは、ちょっと違うんだよ」


エンリケは困惑したような目でアマリアを見た。


「君がマガリャンイス伯爵夫人に連れ去られたと知った時、大臣閣下はそりゃもう真っ青だった。コスタ子爵領で君の無事な姿を確認するまで、きっと生きた心地がしなかっただろう。だから、あいつが君に酷いことをするとは僕は思ってない。僕が心配しているのは大臣閣下の方だ」


「ルイシュさんの心配、ですか?」


「うん。あいつは君のためなら自分を犠牲にすることを厭わないと思う。君が思考停止して、あいつにすべてを任せきりにしてしまったら、そういう最悪のケースが起こるかもしれないよ」


「私のためにルイシュさんが犠牲になる……?」


具体的なイメージはわかなかったが、もしそんなことが現実になればアマリアはルイシュを信じたことを深く後悔するだろう。エンリケは食堂のテーブルで「小さな違和感を疑え。些細な糸口からでも考えろ」とアマリアに忠告した。


「わかりました。ルイシュさんを信じる気持ちは捨てませんが、考えることはやめません」


「うん。まあ、僕の杞憂ならいいんだけどさ。あーあ、さすがに眠たいや。宿に着いたら僕は速攻で寝るよ」


石畳の道を歩きながら、エンリケは猫のように大あくびした。あの大部屋の寝台群を思い出し、アマリアは強烈な不安に襲われた。


「私、今夜、眠れるか心配です。だって、ルイシュさんの隣で寝るんですよ? ああ、もう、胸がいっぱいで……寝てる間にヨダレ垂らしたら、どうしよう」


「その心配は時すでに遅しだね。あいつ、昨夜、口あけて爆睡してしてる君の顔、のぞいて笑ってたから」


「そ、そんな……」


アマリアが愕然とした時、巡礼宿の鉄門扉が見えた。暗い門の前にルイシュとオリオンが立っている。美女と言葉を交わすルイシュの姿を見て、アマリアの胸に小さな嫉妬心が芽生えた。顔に出てしまったのか、エンリケは憐みのこもった目でアマリアを見下ろす。


「公爵位を継承しなかった以上、君が大臣閣下と結ばれるには、あいつの情婦なり妾なりになるしか方法はないよ」


「私、この気持ちを打ち明けるつもり、ないですよ。そもそも全然、相手にされてませんし」


アマリアは自嘲し、うつむいた。相手は国土保安開発省大臣の王宮伯で、自分は単なる下町の香薬師だ。ルイシュと結ばれたいと甘い想像を膨らませたことは何度もあるが、それはあくまで恋心による妄想だ。現実的な未来として頭で考えたことはない。


「そう? 今朝の蛇事件の反応を見る限り、君のこと、めちゃくちゃ意識してる感じがするけどね」


アマリアはエンリケの言葉を単なる慰めだろうと思った。だが、彼は存外に真剣な顔をしていた。


「あいつ、女慣れしてないっていうか、結構チョロいんじゃないかな。好き好き好きぃって君が押せば、コロっと落とせそうな気がしない?」


「ルイシュさんはそんな単純な方じゃありません」


「そうかな〜」


元盗賊との恋愛談義が途切れた時、ルイシュとオリオンがアマリアたちに気がつき、こちらへ顔を向けた。ふたりともアマリアの姿を見て安堵し、エンリケが小脇に抱えている麻袋いっぱいの薬草を見て遅くなった理由を察してくれた。


後見人から「こんな奴とこんな時間まで、ふたりきりで出歩くなんて危ないじゃないか」と叱られるかと思ったが、ルイシュは諦観したような表情でアマリアを見下ろしただけだった。


「遅くなって、すみませんでした」


調子が狂い、アマリアは自ら彼に詫びた。巡礼宿の柱時計がちょうど21時を告げた。


「楽しかったか?」


ルイシュはアマリアの頭をポンと撫でた。昨夜や今朝のような、奇妙によそよそしい彼とは違っていた。まるで重大な決心を胸に秘めているような、そんな様子だった。


「はい。帰りに寄った香薬屋が香試を一緒に受けたディオゴさんの店で……」


アマリアはルイシュに土産話を聞かせながら、彼と並んで巡礼宿の門をくぐる。後ろでオリオンとエンリケが小競り合いをしていたが、募る不安に胸が押しつぶされ、会話の内容は聞こえなかった。


「そうか、楽しかったなら、よかった」


ルイシュは異常なほど穏やかに微笑み、それから、「おまえに大事な話がある」と告げた。

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