20.意中の男

アマリアたちがコスタ子爵家を出発した後、ルイシュもすぐに城を発った。エンリケが偽物とすり替えた本物の杯をポルトの王宮へ持っていくためだ。


元盗賊で、現在はコインブラ大学の学者であるエンリケは古代の遺物をルイシュへ預けるにあたり、「絶対に壊すなよ。きちんと王宮に届けろよ」と何度も念を押してきた。「あいつら、これをサルースの杯と呼んでいたぞ。サルースとは女神ヒュギエイアの別称だ」とも言っていた。


サルースの杯は分厚い布でくるみ、頑丈な蓋つきの木箱チェストに収納した。箱の中で動かないように、隙間にはわらを詰めている。チェストは革ベルトを使ってくらにしっかりと固定したので、馬が転倒でもしない限り、無事に届けられるだろう。


ルイシュは旅装姿で馬にまたがり、使用人のコエントランと、王宮護衛隊の兵士をひとり連れて巡礼路を南へ進んでいる。


「なあ、おまえ、アマリアの店に毎週のように通ってるよな?」


馬の背に揺られつつ、ルイシュは斜め後ろの青年を肩越しに見た。その王宮護衛隊の若者とは顔見知りで、父親とも面識があるのだが、どうしても名前が覚えられず、ルイシュは彼に“さわやか”というあだ名を密かにつけている。明るい笑顔、張りのある声、礼儀正しくスマートな立ち居振る舞い、金髪碧眼、白い歯、すべてが爽やかなのだ。


「はい、アマリアちゃんには毎週お世話になってます。彼女の焚く筋肉を大きくする香薬が隊で人気なんですよ」


さわやかが感じの良い笑みで応じる。ルイシュは思い切って聞いてみた。


「俺は、アマリアはエウゼビオを慕っていると思っていたんだが、どうやら他に好きな男がいるらしいんだ。あいつの店に通ってる王宮護衛隊の誰かなんじゃないかと思うんだが、おまえ、何か知らないか? というか、おまえじゃないよな?」


この爽やかな男なら、あり得るかもしれない。ルイシュはじとりと青年を睨んだ。


「ち、違います、違います。大臣、本当にご存じないんですか? エウゼビオが言いふらしているので、隊の中では有名な話ですよ、アマリアちゃんに好きな男がいること」


「俺は知らん。どこのどいつだ? 貴族か?」


「貴族の方で、王宮護衛隊の隊員ではありません。これ以上は私の口からは言えませんよ。アマリアちゃんに恨まれます」


さわやかは爽やかなだけでなく、誠実な男だった。王宮護衛隊には甘やかされ、優れた容姿を褒められて育った名家の愚息が多く、問題人物も少なくないので、これはレアケースだ。ルイシュの護衛にと彼を選抜した王女には人を見る目がある。


「そうか、貴族の男か。それなら、どうにかなるかもしれないな」


「……どうにか、と言いますと?」


さわやかは何か言いたげな顔で尋ねた。ルイシュは心苦しい思いで馬のたてがみへ視線を落とす。


「あいつはこの先、自分の望んだ人生を生きられない。せめて好きな男と結婚させてやりたい」


あと数時間もすれば王女の馬車はアマリアに追いつき、アマリアはアルガルヴェ女公爵になる。アマリアはポルトに帰ってこられるが、彼女の生きがいである香薬屋を続けることはできない。己を殺し、宝石やレースやリボンで着飾り、社交界で生きていくことになる。そして、香薬の種を生成できる子孫を未来へ残すために、結婚して子供を産まなければならない。


「なるほど、好きな男と結婚。そういうことでしたら、どうにかなるんじゃないかと思います」


さわやかが意味深な笑顔で頷いた時、前方に目印の石柱が見えた。頭にホタテ貝の埋め込まれた石柱はこの道が聖地へ続く巡礼路であることを示している。


「すまん、寄り道するぞ」


城を出発してまだ5分も経っていないが、ルイシュは石柱を右折した。その先は細い私道で、石畳で舗装されてこそいるが、馬車が通れるほどの道幅はない。道は途中で赤土がむき出しになった農道に変わり、道幅がさらに狭まったところで一面のひまわり畑が現れた。


「ここ、覚えていますよ。コンスタンサさんと来ましたよね」


ひまわり畑の中を駆けながら、嬉しそうに声を上げたのはコエントランだった。


10年前、コンスタンサをコスタ子爵領に連れてきた時、湖の古城へ向かう馬車の窓からこのひまわり畑が見えた。ルイシュが「ここは子爵家の畑で、ひまわりの種から油を抽出している」と説明すると、コンスタンサが近くで見てみたいと言ったのだ。


「懐かしいですね」


しみじみと言うコエントランに、ルイシュは「そうだな」と同意した。


まだ太陽は東の空の低い位置にあった。広大なひまわり畑を貫く農道を、3騎の長い影は滑るように進む。ひまわりはルイシュの身長より丈が長い。10年前、畑の中でコンスタンサを見失ったことを思い出し、ルイシュは馬上で小さく笑った。


ひまわり畑を抜けると、苔むした石垣が連なっているのが見えた。石垣の向こうはコスタ子爵家の墓地だ。


「ここで待っていてくれ。すぐに戻る」


ルイシュは馬を降り、コエントランとさわやかに断って墓地に入った。雑草の覆い繁る小道を歩き、墓地の最奥へ向かう。やがて並び立つ両親の墓にたどりついた。


ルイシュは「人は死んだら終わり」だと思っている。墓にも遺跡にも、特別な思いを寄せたことはない。だが、王女の言葉が思いのほか、胸に刺さっていた。「死者はもう、何も言えない。何も成し遂げられない。だから、彼らが遺した言葉や物や、切なる願いは、大切にしなくちゃいけない」という言葉だ。


ここで眠る両親や先祖は、いったい、どんな切なる願いを抱いて死んだのだろう。ルイシュがそう思った時、背後から軽快な足音が聞こえた。


「あら、やっぱり、手ぶら。ダメよ、ルイシュ」


現れたのは継母だった。彼女は不出来な10歳児に話しかけるように笑った。その手には植物で編まれたカゴがあり、中には溢れるほどの野花が積み重ねてあった。


「お父上もお母上もルイシュが来るのを待っていらしたのよ、お花を手向けてあげて」


継母は柔らかく微笑み、山盛りの花をルイシュに突き出した。ルイシュはそこから名も知らぬ花を適当に何本か手に取った。花は苦手だ。必ず色の話になるから。


「わざわざ、ありがとうございます」


継母に礼を述べ、父母の墓石の前に花束を寝かせる。彼女に見張られているような気がして、形だけ祈るような仕草をしてみたが、もともと「人は死んだら終わり」と思っている男の墓参りはおざなりだった。


「母上は、我が家に嫁いだことを、悔やんだことはありますか?」


黙祷もくとうのフリを終え、ルイシュは継母を振り返った。アマリアの結婚について考えていたので、聞いてみたくなったのだ。継母はコスタ家に来たばかりの頃、庭の隅でよく泣きべそをかいていた。


彼女は目と口を丸くした。


「まさか、そんなことあるわけないわ」


「それならいいんですが」


継母は14歳でコスタ家へ嫁いできた。王妃ルシアやマガリャンイス伯爵夫人フランシスカと同じだ。そして、継母の結婚生活はたったの2年で終わった。ルイシュの父が41歳の若さで病死したからだ。継母は16歳で未亡人となった。これもフランシスカとよく似ている。


王妃は王が婚外子をもうけた相手、コンスタンサを憎んでいた。そして、フランシスカは夫の愛妾、エウゼビオの母親を憎んでいた。夫から蔑ろにされたふたりの姉妹の憎しみの矛先は、今やアマリアやエウゼビオに向いている。


継母の結婚は薄幸の姉妹とよく似ているのに、彼女は誰を恨むでも憎むでもなく、穏やかに暮らしている。その秘訣を知りたかった。ルイシュがそう説明すると、継母はおかしそうに笑った。


「私だって、誰のことも恨まなかったわけじゃないわ。お父上がもっと長生きしてくださったら良かったとは今でも毎晩のように思うわよ。でも、たったの2年で子供をふたりも授かったんですもの、この縁談は神々の賜物だったと、そう思うことにしてるのよ」


山盛りの野花を抱え、継母は切なげに遠くを見つめた。聞いてはいけないことを聞いただろうか、とルイシュが思った時、彼女の表情が悪戯っぽいものに変わった。


「でも最初はね、私、あなたの父上のことが全然、好きになれなかったの。身体は大きいし声は低いし、いつも不機嫌そうな顔をしていたし。それに、そんな怖いオジサンが、夜中に部屋の隅で膝を抱えて、前の奥様の遺髪を撫でながらシクシク泣いていたりして物凄く気持ち悪かったのよ」


「本人の墓前でそこまで言いますか」


「大丈夫よ、聞こえてない、聞こえてない。それでね、それなのにね、気がついたら旦那様のすべてが愛しく思えて、どんな欠点も愛くるしくてたまらなくなっていたから不思議だわ」


継母は夢中で話していると、左右の瞳が顔の中央に寄ってしまう。少年の頃のルイシュは彼女のその癖をとてもかわいらしいと思っていた。だが、今は何とも思わなかった。彼女に対して抱いているのは、家族としての深い愛情だけだ。青い恋心は初めからなかったように、もう胸の中のどこにも見当たらない。


「私、あの方と一緒になれて幸せだったのよ。ああ、旦那様って、本当に本当に本当に素敵な方だったわ~!」


「わかりました、その話はもう大丈夫です」


人は死んだら終わり派のルイシュでも、両親の墓前で、父の後妻が惚気のろけるのはいかがなものかと思った。


「それを聞いて、安心しましたよ」


アマリアも継母と同じならいい。最初は新しい人生を好きになれなくても、心は、気持ちは、年月とともに変わっていくものだ。好きな男と結ばれ子供を授かり、家庭を営むことを生きがいにして、この世の誰よりも平穏に暮らしてほしい。


「アマリアさんのことを考えているの?」


心配そうに眉を下げ、継母は首を傾げた。


「ええ。気が重いんですがね、アマリアと再会したら、女公爵になったからには香薬屋を畳めと、あいつに言わなければならないんです。後見人も私ではなくなります。結婚すれば未成年の女の後見人は夫が務めるものですから」


淡々と答えながら、ルイシュは墓地の出口へ身体を向ける。あまり、のんびりはしていられない。ルイシュが歩き出すと継母が隣に並んだ。


「まあ、それは淋しいわね。アマリアさんにとっても、ルイシュにとっても」


自分の庇護の下からアマリアが出ていく。それは確かに淋しいことだ。身を切られるように胸が痛む。しかし、アマリアがこれから望まぬ人生を歩いて行くことに比べたら、大したことではないとも思う。


「アマリアには好きな男と縁組してやろうと思っています。淋しがることはないでしょう」


「アマリアさんを、好きな殿方と結婚させるの?」


ルイシュを見上げる継母の顔がパッと明るくなった。


「ええ。どこのどいつなのか分からないんですが、都合のいいことに、あいつ、貴族の男を恋慕っているようなんです。爵位を賜ったからこそ望んだ相手と結婚できるんだぞと言い聞かせれば、香薬屋を畳むことについて、諦めがつくんじゃないかと思います。国王陛下も、よほど酷い男でなければ結婚をお許しくださるでしょう」


「まあ!」


継母は歓声を上げ、野花を満載したかごを地面に落とした。小さな両手がルイシュの手を取った。


「ルイシュ! ついに結婚するのね!」


「は?」


「だって、アマリアさんが恋慕っているのはルイシュ、あなたよ! 絶対にそうよ、昨夜あなたちを見て、このふたりは相思相愛でいつか結婚するって私ピンときたの!」


継母には見当違いの言動が多い。ちょっとズレているのだ。ルイシュは歯牙にもかけず、彼女が落とした花かごを拾ってやった。


「母上のそういう勘はだいたいハズレるんですよ。では、急ぎますので、これで失礼します」


墓地の外で待っていたコエントランとさわやかに「待たせた」と詫び、ルイシュは自分の馬の手綱を取った。


「ルイシュ、私を信用しないって言うの? これでも39年も女をやってるのよ。今回は間違いないわ」


馬の背にまたがる息子に、継母は食い下がった。今日は妙にしつこい。


「そう言って予想を外した縁談がいくつありましたっけ? 従兄弟のジョアンの時、遠縁のミゲルの時、叔父上の再婚、あとは……」


ルイシュにあしらわれ、継母の標的はその使用人の青年へ移った。大きな黒い瞳に怒りをにじませ、彼女は馬上のコエントランを見上げた。


「コエントラン、あなたもアマリアさんが慕っているのはルイシュだと思うでしょう? というか、ルイシュの方こそアマリアさんのことを憎からず思っているわよね? ね?」


「え、ええっと、それは……」


コエントランは目を白黒させ、主人の顔色をうかがう。ルイシュがじろりと睨むと、青年は「さあ、どうでしょうか」と笑ってごまかした。継母は気にせず続けた。


「だってね、ルイシュったら、昨夜アマリアさんと再会した時、こーんな風に彼女に抱きついていたのよ。それでね、アマリアさんに“無事でよかった”って5回も言ったの!」


「5回は言ってません。あなたはそうやって大袈裟に話を盛るから信用されないんですよ、母上。では」


ルイシュは言い捨て、馬の脇腹を蹴った。馬はひまわり畑の中を軽快に走り出す。コエントランとさわやかが二馬身ほど遅れて着いてきた。


「4回は言ってたわ!」


遠くから継母の抗議の声が聞こえた。


「3回くらいです!」


ルイシュは言い返した。

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