第17話 去るべきか留まるべきか

――神殿の呪い

――決して逃れることはできない

――日本に戻れば呪いは解かれる


 環は一晩中ベッドに腰かけて、窓を見ながらフクロウの言葉を何度も思い返していた。二、三度、背後で扉を開ける音がして、「うおっ」とか「まだ起きてやがる……」と、夜間の護衛の怯えた呟き声が聞こえても無視していた。


 どうやら異常がないか、定期的に確認をしていたようだ。灯りを落とした暗い部屋で、身動きせずにベッドに座っている後ろ姿は、さぞ気味が悪かっただろう。

 しかし、愛想を振りまく気力もない環は、彼らが室内には入ってこなかったのをいいことに放っておいた。


 環は白い指輪に目を落とす。フクロウの言葉が真実なら、環はここを去るべきだ。召喚術を使えるのがタルギーレの魔術師しかいない以上、彼らを頼るしかない。


 そうは思うものの、気がかりは残る。果たして、あのフクロウの言葉を鵜吞うのみにしていいのだろうか?


 フクロウたちが密入国した事情や、深く残る歴史的な確執については理解できる。問題児の部下が予定と違う儀式を行ってしまったことは気の毒にさえ思う。


(だけど、あの時の目……)


 環はあのフクロウの魔術師が、神殿で初対面の環に向けた憎々しげな赤い目を思い出した。そして見向きもしないで置いて行ったことも。

 あの時の態度からは、わざわざ部下の尻ぬぐいをするために、危険を冒して環へ手を差し伸べてくれる人物には思えなかった。


 しかし、もしかしたら、あの時はヴィラードたちが踏み込んで来て、急いで逃げる必要があったために、環に構っている余裕がなかっただけかもしれない。

 または一時的に頭に血が昇っていて、後から置き去りにしたことを反省したのかもしれない。


 怪しい点はいくつもあるが、少なくとも昨夜のやり取りでは常識的な人物に感じられたのも事実だった。


(……誰かに相談できたらいいんだけど、ちょっと無理よね……)


 環はため息をつく。


 日本に帰れば本当に呪いが解けるのか? などと聞けば、誰に言われたか聞かれるだろう。

 正直に敵対するタルギーレの魔術師から接触があったと答えて、それを元に彼らが捕まったり、フクロウが言ったように殺されたりしたら、環は日本に帰れなくなる。あるいは、環もタルギーレの仲間と判断されて捕まるかもしれない。


 尋ねるのも慎重にならざるを得ないが、そもそも翻訳魔術を使う余裕がないと言われているので、まず会話の機会を作らなければならない。その上、フクロウに着いて行くかを今夜までに決断しないといけない。


「どうしようか……」


 言葉は迷っていても、実のところはフクロウの提案に乗るしか事態が打開しないだろうことは薄々気づいている。


――おぬしに優雅に悩む時間は残されていない。


 そう告げたフクロウの言葉は真実だ。日に日に体力が落ちていることは、環本人が誰よりも実感している。

 その原因がピアスの呪いである事も、本能的に理解している。黒だか白だかの騎士に殺されるか、体力が尽きて死ぬかのどちらか、といったところだろう。

 ギムレストがその事について触れないのは、知らないからか、それとも環を気遣ってのことか。おそらく後者だ。


(ここの人たちって優しいのよね)


 ヴィラードの親切さは環が女だということもあるのかもしれないが、仮に環が男だったとしても、同じように助けてくれていたと思う。

 ギムレストが忙しいのも、環の状況を何とかしようと奔走ほんそうしているのだとわかる。

 マディリエは一見すると素っ気ないが、実のところ誰よりも環の面倒を見てくれている。カイラムは最初からずっと変わらずに優しい。あの屈託のない明るさは、弱っている心をほっとさせてくれる。


 迷惑をかけているとは知りつつも、離れる決心がつかない。突如、手の平を返したフクロウよりも、このまま彼らを頼った方がいいのではないかと思ってしまう。

 白の騎士が強いとは言われても、ヴィラードたちの圧倒的な強さを見ていると、心配はいらないような気もしていた。


「はぁ、困ったな……」


 ふと、朝日が室内に差し込んできているのに気づいて、環はベッドに上半身を横倒す。一晩中まんじりともせずに堂々巡りの思考を続けて、なんだかどっと疲れてしまった。というより、明るい時間帯は体がだるい。


 そのままぼんやりしていると、隣の部屋から話し声が近づいてきた。


(指輪外さなきゃ)


 一瞬、外れなかったらどうしようかと考えたが、翻訳の指輪は抵抗なくするりと抜けたので、そのまま握り込む。扉が開く音がして、マディリエの声が聞こえた。


『タマキ、起きてる?』


 近づく足音に、何故かとっさに目を閉じて狸寝入りをした。目蓋の裏に影が落ちて、覗き込まれている気配が感じられた。


『……息はしてるわね。なんでベッドに入ってないの……』

『だから今言ったようにだな、一晩中そこで座ってたんだよ』


 この声は夜間の護衛の声だ。


『寝るように言いなさいよ。これ以上弱ったらどうするの?』

『言葉も通じねえ相手に何て言うんだっつの。部屋に入るなって言ったのはお前だろうが』

『声ぐらいは掛けられるでしょうよ』

『言っとくけどな、真っ暗な部屋でじっと座ってる姿見てみ? マジで不気味だから。マジで怖いから』

『情けない奴らね。もういいわ、後はあたしがみるから』

『マジだからな。お前は見てないから強気でいられるんだ』

『はいはい。ご苦労さま』


 護衛の声が遠ざかっていき、マディリエの手が額と首筋に触れた後、ぺちぺちと環の頬を叩く。


『タマキ、ちょっと起きなさい』

「う……」


 遠慮のない手つきに目を開けると、目の前にマディリエがいた。


「……マディリエ、さん」

『動ける? 寝るんならベッドに入りなさいよ』


 背中を支えられながら体が起こされる。マディリエがベッドの上掛けをめくり、環を追い立てた。


『ほら入る。手間かけさせないで』

「…………」


 環がナマケモノのようにのっそり動いている間に、マディリエはサイドテーブルの手帳を取ってペラペラめくる。

 その隙に指輪を枕の下に忍ばせ、どうにか上掛けの中に納まった環に、マディリエが開いた手帳の文字を指差した。そこには「食事」と書いてある。


『朝食は取れる?』


 首をかしげるマディリエに、環は首を振った。


「……食欲はありません。ごめんなさい」


 食欲どころか喉も渇いていない。これも呪いの影響なのかもしれない。マディリエが息をついた。


『昨日もろくに食べてないんだけどね。まあ、いいわ。取りあえず寝たいなら寝ておきなさい。また来るけど、何かあったら呼ぶのよ』


 マディリエは環の両肩をベッドに押し付けて、念押しするかのように何かを言うと、さっさと出て行った。てきぱきとしたマディリエが、入院患者に接するベテラン看護師のように見えて環は布団の中で小さく笑った。


 マディリエが看護師だったら、きっと泣く子も黙り、院長さえも口を出せない総看護師長だろう。カイラムは力持ちで気のいい、リハビリ患者に人気の理学療法士で、ギムレストは日本中から患者が押し掛ける一流の外科医が似合う。

 直接翻訳魔術をかけられたときに、歌いながら外科医のような手つきで髪の毛を器用に結んでいったのは、あらゆる意味で衝撃だった。


 ヴィラードはなんだろうかと環は想像してみる。ギルドの責任者だし院長あたりだろうか。普段は軽薄でも、いざという時には有能だったりするタイプだ。それで行きつけの高級クラブで、なじみのホステスに宝石を貢がされたりして、マディリエに怒られてそうなイメージがある。

 その情景がやすやすと目に浮かんで思わず笑ったときに、一緒にポロリと涙がこぼれた。


「あ……」


 環は指先で目頭を押さえる。日本に連なることを想像して、うっかり気が緩んでしまった。環は深呼吸を繰り返しながら自分に言い聞かせる。


(……今はまだ、泣いていい時間じゃないから。落ち着くのよ、思い切り泣くのは家に帰ってからだから……。あの誰もいない真っ暗な家に……)


 自分の部屋を思い浮かべた途端、ボロボロと立て続けに涙が流れた。


(駄目、失敗した……)


 環は身を起こして両手で顔を覆う。あとからあとからこぼれる涙を抑えられなかった。冷静になろうとして思い出した自宅のマンションは、環の孤独の象徴でもあった。


 環は天涯孤独の身だ。

 家族は何年も前に災害に命を奪われた。

 実家は基礎だけ残して面影も残っていない。 

 大きな災害で、遠く離れた土地に住む環が、会社から当時住んでいたアパートまでの十五キロの道のりを、足にマメを作りながら帰宅している最中の出来事だった。

 それ以来ずっと、環は心の中に、ぽっかりと開いた闇を抱えている。


 しばらくはまともに表情を作ることが出来ず、職場では腫れ物に触るような扱いを受け、これはいかんと自然に見える作り笑いを身につけた。

 口角の角度、頬の引き上げ方、目の開き方、眉間の力の抜き方を顔の筋肉に記憶させた。何度も何度も繰り返し、今では本心がどうあれ、マナー講師お墨付きの笑顔を作ることが出来る。


 仕事上での付き合いは良い方だ。飲み会であれ、ボランティア活動であれ、断ったためしがない。しかしその反動か、私生活は孤独そのものだった。


 休みの日まで笑顔を作れなくて、友人らしい友人付き合いはない。

 最初のころは、週末ごとに無残な光景になった故郷に帰り、がれきの片付けに追われ続けて息をつく暇もなかった。

 落ち着いてくると、風景の一変した故郷を見るのが辛くて、今では年に一、二回、お世話になった道場の老師範に顔を見せる程度だ。その老師範も跡取り息子を失い、以前のように活力に満ちているわけではない。


 孤独を紛らわすためにペットを飼うのも論外だ。一人暮らしでは自分に何かがあった時にペットを託せる先が無いし、何より動物の寿命は短い。必ず自分より先に死んでしまう。また大切な命を失った時に、正直、自分が正気でいられるかわからない。


 だから趣味は一人でできるものや、表面上の付き合いで済むものしかしない。当然のように孤独で、毎日、誰も待っていない真っ暗な部屋に帰る生活をくり返している。


 打ち解けた同僚たちと談笑していても、心の中には常に底の知れない闇がある。家族がいたときのように、なんの心配もなく心から笑える日は二度と戻って来ない。


 普段は心の奥底にあるその闇が、時おり前触れもなく表面に出てくることがある。そういう時は、我慢せずに一人になれる部屋で涙が尽きるまで泣いてしまった方が、翌日からまた何食わぬ顔で笑顔を作れるのだと、経験から知っている。


 今の環はそういう状態にあった。張りつめていたところに、つい、気が緩んでしまって、ぽっかりと開いた心の穴から、不意打ちのように孤独が押し寄せたのだ。


 環は立てた膝に頭を伏せて、逆らうことなく涙を流した。声を出さずにひとしきり泣いて、すっきりと頭を上げたときには目元が熱を持っていた。顔もひどいことになっているだろう。


「……最悪」


 環は濡れた両手で頭を抱えて、ため息をついた。

 冷静に戻ると、やってしまった感に襲われる。しかも泣くのは結構体力を使うので、体力的にも辛さが増す。


(しっかりしないといけない状況で、何泣いてんだか……。顔を洗って、冷やして、午後になるまでベッドに隠れていよう……)


 泣いたおかげか頭がぼうっとしているので、今なら少し眠れるかもしれない。制限時間を考えると少しも良くないのだが、泣き顔をさらすことはしたくない。


「はぁ、しんど……」


 環はのそのそとベッドから降り、トレッキングシューズに足を入れる。裏庭で転んで以来、慣れた靴を履く許可が下りていた。

 バスルームに向かっていると、いきなり扉が開いてマディリエと視線が合った。手にスープの乗ったトレイを持っている。


「…………」


 途端に眉をしかめたマディリエを見て、


(……どうして彼女といい、あの護衛といい、ノックしないでドアを開けちゃうの?)


と環は鈍い頭で思った。


===========================


 有能看護師長マディリエの介助付きで、洗面台でしっかり顔を洗った環は、その後ベッドに連れ戻され、無理矢理スープを飲み込むことになった。


 首を振って断ったのだが、怖い顔のマディリエに有無を言わさず顎を押さえられた上に、スプーンを口に押し付けられ、強制あーんをする羽目になったので、大人しく自分ですする事にしたのだ。


 厳しい監視のもと、気まずい食事が終わりマディリエは出て行ってくれたが、すっかり目の覚めた環はベッドの上で抱えた膝に頭を乗せて落ち込んでいた。


(……恥ずかしい……穴があったら入りたい……)


 まさか三十路を過ぎて泣き顔を見られるとは思ってもみなかった。次にマディリエがやって来たときに、一体どんな顔をしたらいいのか。

 それも一番ひどい顔をしているときに入って来るとは、やってくれる。ベッドの上でのたうち回りたいくらいに恥ずかしい。


 環が言葉にならない変なうめき声を漏らしていると、扉が礼儀正しくノックされた。どうやらマディリエはノックの存在を思い出してくれたようだ。きっとあちらも気まずかったに違いない。


 そう思ったのは勘違いだった。開いた扉から顔を見せたのはヴィラードだったのである。視線が合った瞬間に環は固まった。


『やあタマキ、少しお邪魔させてもらうよ』


 苦笑いを含んだ優しい表情に、環はマディリエ看護師長がヴィラード院長先生に告げ口したことを悟った。


「さい、あく……」


 環は両手で顔を覆ってうめく。マディリエのことだ、きっと無慈悲に全てを報告したに違いない。


(泣いてたくらいで大げさな。泣きたくなるときなんて誰しもあるでしょうに、見逃してくれてもいいじゃないの)


 と、環は心の中で八つ当たりをした。

 そんな環の動揺をよそに、ヴィラードはベッドに腰をかけて優しい声を出した。


『タマキ、これをかけてくれ。話をしよう』


 チャリ、という金属音に少し顔を上げると、ヴィラードが翻訳ネックレスを差し出していた。


「――――っ!」


 その意味が分かった環は、声なき悲鳴を上げて再び顔を隠した。

 翻訳の余裕がないと言っていたギムレストがこのネックレスを用意したということは、ギムレストにも泣いたことが知られたという事だ。きっとカイラムも知っているに違いない。ひょっとすると名前も知らない夜間の護衛も……。

 環の大して高くもないプライドはズタボロだった。今すぐ叫び声を上げて逃げ出してしまいたい。


 同情も慰めも、もう必要ない。本当だ。落ち込むのも立ち直るのも、いつも一人で対応してきた。

 ヴィラードには可及的速やかに退出してもらいたい。そしてこの事を記憶から消去して欲しい。しかし、その要望を伝えるにはネックレスを受け取る必要があった。


『タマキ』


 優しい声で促すヴィラードから、観念した環は顔を伏せたままネックレスを受け取った。無言でネックレスをかけ、蚊の鳴くような声を出す。


「お騒がせしてすみません。どうか気にしないでください」


 ヴィラードが少し笑った。


「マディリエに見つかるとは運が悪かったな。気持ちはわかるよ」

「……はい」


(だったら出て行って! そして忘れて! お願いだから!)


 という魂の叫びは口に出せなかった。室内に沈黙が落ちる。

 うつむく環がそうっと顔を上げると、ヴィラードはベッドに腰かけてはいるが、扉の方を見て少し前かがみになっている。膝に置いた腕は、指の先が軽く組まれていた。環からは横顔しか見えない。


 泣いた顔は見ないでやろうという武士の情けが感じられ、環はますます居たたまれなくなる。そして沈黙に耐えきれず、環の方からヴィラードに声をかけた。


「あの、ヴィラードさん……」

「うん?」


 ヴィラードの声は優しく穏やかで、非常に居心地が悪い。


「その、もう大丈夫です。お忙しいのにお手をわずらわせてすみませんでした」

「…………」

「……短期間にいろいろ起きたので、少し情緒不安定になっていただけです。

 な、泣いてすっきりしましたし、もうご心配には及びません。どうぞお気になさらず。お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」


 黙ったままのヴィラードに、環は言葉を重ねて、もう問題ないのだとアピールしてみたが、ヴィラードは静かな横顔のままで、動く気配がない。


「……君は、そうやって内に秘めてしまう性質たちなんだろうな……」

「……え?」


 低く呟いた声が聞き取れず、環は聞き返す。

 ヴィラードはゆっくり話し始めた。


「タマキ、君の様子があまりに冷静だったので、俺たちは大丈夫なのだとすっかり勘違いをしていた。

 突然、言葉も通じず、知り合いもいない世界に放り込まれて大丈夫なはずがないな。不安も言えない環境に追いやってしまい、申し訳ない」


 いたわりが伝わってくる声音に不意をつかれ、止まったはずの涙がまたこみ上げてきそうになって、環は否定することも出来ずに唇を引き結んでこらえた。

 気づかないままでいてくれた方が良かったのに、優しくされると泣きたくなってしまう。だから誰にも知られたくなかったのに。


「困ったこと、気がかりなこと、怖いと思うこと、世間話だけでも何でもいい、遠慮はいらない。君のうれいは全て俺に任せてくれ。心配しなくていい。俺たちが必ず、君を助けてみせる」

「ヴィラードさん……」


 ゆっくりと、だが真摯しんしな言葉が優しく響く。力強く約束したヴィラードは、打って変わって軽い口調で付け加えた。


「毎日話せる時間を作れるように、ギムレストには言っておく」

「そ、それはギムレストさんが気の毒なので、ちょっと……」


 目の下に隈を作っていたギムレストを思い出した環の口が引きつる。


「そうか、だったら不安な時には俺の胸を貸すから心置きなく泣いてくれ。いつでも大歓迎だ」


 視線を流して環を見たヴィラードが、いたずらっぽく笑う。

 その、心にしみこむような温かい眼差しには見覚えがあった。裏庭で亡霊騎士の殺意に、息も出来ないほど身を固くしていた環は、広い背に庇ってくれたヴィラードの、その眼差しに安心したのだった。


「……ふふ、せっかくの申し出ですが、それは結構です」


 今もまた、自覚なく緊張していた心が解きほぐれ、環はくすくすと笑って断った。そんな環を見たヴィラードが破顔する。


「やっと笑顔が見れたな。その方がいい」

「あ……」


 環は自分の頬を触った。ヴィラードが元気づけてくれていたのだと気づいた。


「……ありがとうございます」

「まだ礼には早いぞ」

「え?」


 環はきょとんとした。


「何か相談するか、俺の胸に飛び込んで慰めさせてくれ」


 ヴィラードが体の向きを変えて真面目腐った顔で手を広げた。


「はい?」

「手ぶらで戻ったらマディリエに殴られる。俺の命を助けると思って、頼む」

「そ、そんなこと言われましても……」


 環は戸惑った。もう充分に慰めてもらったし、泣くだけ泣いて、すでに立ち直りつつある。これ以上は必要ない。


「何かあるだろう、飯が不味いとか、マディリエよりも俺に一日中側で護衛して欲しいとか」

「いえ、マディリエさんの方がいいです」

「……そうか、悩みもしないんだな……」


 ヴィラードの手が下がって哀愁が漂った。しかし考えてみれば、これは待ち望んでいた会話の機会である。フクロウが言っていたことを確認出来るだろうか。


「あの、ヴィラードさん。……変なことを聞いてもいいですか?」

「変なこと? 変なことは得意分野だ。任せてくれ」


 ヴィラードが胸を張って自信満々に請け負った。


(……なんか、調子が狂うわ……)


 環は思わず苦笑いして、それから少し視線を泳がせて言葉を探した。


「ええと、その、私に掛かっている呪いなんですが、例えば仮に、もし私が元の世界に帰れたとしたら、何もしないでも呪いは消えたりしますか?」


 少し沈黙したヴィラードは、気まずそうに視線を逸らした。


「……すまないタマキ、それについては専門外だ」

「あ、いいえ、私の方こそ変なことを聞いてすみませんでした」

「ギムレストに聞いておく」

「いいえ、いいえ、本当に気にしないでください。ギムレストさんはお疲れですし、申し訳がありません。今もう充分に良くしてもらってますから」


 忙しいギムレストをわずらわせるなんてとんでもない。環は全力で遠慮した。


「俺じゃ満足に聞くことも出来ないって思われているんだな……」


 気にしないでくれと言ったのに、何故かヴィラードの哀愁が深くなる。冷たい秋風が吹いているように感じられた。


「そ、そんなことは決して……」


 環は一生懸命フォローしようとした。ヴィラードがさみしそうに笑う。


「それじゃあ、ほかの変なことを聞いてくれるか?」

「う、うーんと……」


 次はヴィラードが答えられることにしなければならない。無性にそんな気になった。環は真剣にヴィラードの得意分野を思い浮かべる。


「庭に現れている亡霊騎士ですが……」

「亡霊騎士?」


 言葉の途中でヴィラードが聞きとがめた。


「誰がその言い方をしていた?」

「え?」


 環はオレンジ色の目が真剣味を帯びたのを見て、失言をしたことに気づいた。


(……もしかして、亡霊騎士ってタルギーレの言い方?)


 素早く記憶を探って、そういえばヴィラードたちは、刺客、としか言っていなかったことを思い出した。これは何とかしてごまかさねばならない。


 意を決した環は、肩を竦めて両手を握り、おずおずとヴィラードを上目遣いで見た。


「あの、ごめんなさい。誰に聞いたというわけではなくて……。その……血も流さないで消えたのが、亡霊みたいだなって思っただけで……。

 私……変な言い方をしてたんですね……。ごめんなさい。こちらの常識を知らないとはいえ、失礼しました。許してくださいとは言いません。本当にごめんなさい……」


 消え入りそうな声で謝罪をくり返して視線を伏せてみる。

 とっさにヴィラードの弱点である、か弱い女を演出してみたのだが、我ながら気持ちが悪いと思う。そして途轍とてつもなく恥ずかしい。


 果たしてヴィラードの反応はどうだろうかと、恥ずかしさをこらえて様子を伺うと、ヴィラードは大いにショックを受けた顔になっていた。


「タ、タマキ、君が知らなかったことはわかった。ああ、わかったとも。

 疑うような言い方になって悪かった。俺が悪かったんだ。君は悪くない。気にしないでいい、泣かないでくれ。そうだな、あんな消え方をすれば亡霊だと思うのも無理はない。君の言う通りだ。うむ、君は正しい」


 別に泣いてなどいない。そんな演技力は環にない。

 しかし、おろおろと手を動かしながら、なぜかヴィラードの方が動揺して一生懸命になっている。


(……ここのギルド、大丈夫かな……。簡単に詐欺師に引っ掛かりそう……)


 ごまかした張本人の環の方が心配になってしまった。


「ありがとうございます。信じて貰えてよかった……」


 今さら引くわけにいかない環は、しおらしく答えて笑顔を浮かべた。あからさまにヴィラードはホッとしていた。一瞬見せた鋭さは跡形もなく消えている。


「そ、そうか、良かった」

「はい」

「えーとそれで、刺客の何を知りたいんだったか」

「……たいしたことではないので、もういいです」

「そ、そうか」

「はい」


 本当は、「黒の騎士の他にも刺客はいるんですか?」と白の騎士について聞く取っ掛かりにしようかと思っていたのだが、また墓穴を掘ることになりそうなので止めておいた。


「それで他に知りたいことはあるかな?」


 必要以上に優しい声で、動揺の抜けきらないヴィラードが聞いてくる。これ以上は危険なのだが、環は最後の質問をすることにした。


「ヴィラードさん」

「うん?」

「……みなさんの活躍でタルギーレの魔術師を捕まえることが出来た後のことなんですが……」

「ああ」

「捕まえたタルギーレの魔術師はどういう扱いを受けるんでしょうか?」

「そうだな……」


 ヴィラードは思案するようにあごを撫でた。


「罪の内容次第だが、立ち入り禁止の神殿で暗黒魔術を使った儀式をしていたのだから、駐屯団に引き渡せば死罪になると思う」

「……死罪」


 脳裏に「問答無用で捕らえて縛り首だ」と言ったフクロウの言葉がよみがえる。騎士団にいたというヴィラードが言うなら間違いないだろう。


 硬い表情になった環を見て、勘違いしたのかヴィラードが慰めてくれる。


「タマキ、怖がらなくても大丈夫だ。君が罪に問われることはない。奴らは俺たちが必ず捕える」


――立場の数だけ、正義は異なる。


 フクロウの言った通りだと環は思った。

 ヴィラードたちにとっては、悪さをするタルギーレを断罪することが正義なのだ。その前提を疑うことはしないのだろうし、タルギーレもそれだけの事を積み重ねてきたのだろう。わかり合えるはずがないというのは、事実のようだった。


 環はヴィラードの精悍な顔を見上げる。

 初対面ではただのセクハラ野郎だと思ったが、その実仕事熱心で、剣の腕は惚れ惚れするほど強く、弱っている時には優しく励ましてくれ、笑わそうと道化を演じる。

 泣いてもいない泣き真似にあっさり騙されるほど善人で、きっと打つ手がなくても最後まで環を見捨てないだろう。


(そんな彼に、これ以上迷惑をかけたくない)


 ヴィラードの情の深さが、くしくも環に離別の決心をつけさせた。


「ありがとうございます。とても心強いです」


 迷いの消えた環は、いつもの笑顔で本心を押し隠した。

 別れの挨拶を言えないことだけが、心残りだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る