第11話 異世界の事情

「ありがとうございました。もう片付けて頂いて結構ですよ」


 パンプスをしまった後、ギムレストの言葉で持ち物検査は終了になった。ヴィラードのときのように、一つずつ取り出して説明させられるのかと思っていたので、環は少しばかり拍子抜けした。


「本当に終わりでよろしいんですか?」

「ええ、脅威になるものが無いかの確認だけでしたから」

「脅威?」

「その耳飾りのような呪いの品が他にないか、という意味での脅威です」

「呪い……」


 環は思わずバッグの下側を押さえた。ここにはヴィラード限定でセクハラが発動するらしい呪いのパンプスが入っている。


「本当は他の品物についても、細大漏らさず、微に入り細にわたって説明を頂きたいのですが、言葉が通じる時間には限りがありますので、この件が落ち着いたらお願いいたしますね。特に文具を念入りに」

「は、はぁ」


 途端に目つきが怪しくなったギムレストに、環は生返事をした。


「タマキさんもいろいろと疑問をお持ちでしょうから、今日はそちらを優先したいと考えております」

「よろしいんですか?」

「はい。お互いの認識のすり合わせをしておきましょう」

「そうですか、助かります。あの、メモを取ってもいいでしょうか?」


 ギムレストの目が一瞬鋭くなったあと、満面の笑顔になる。白皙の美貌が眩しい。

 

「もちろんですよ。ええ。大変素晴らしいことだと思います。僕としても非常にお勧めです」

「あ、ありがとう、ございます」


 食いつきのいいギムレストに若干引き気味になりながら、環はシャーペンを取り出して手帳を広げた。ギムレストの視線が手元に刺さる。視線の合わないギムレストに向かって環は尋ねることになった。


「ええと、まずは、私の置かれている立場についてお伺いさせてください」

「どうぞ」

「私は犯罪現場に居合わせたわけですが、今は虜囚の扱いでしょうか? それとも保護されているのでしょうか?」

「タマキさんはタルギーレの犯罪被害者として、僕たちが保護しています。マディリエとカイラムがあなたの護衛です」

「護衛……そうですか。ここに来てからも外部との接触を制限されているように思えるのですが、それも護衛の一環ということですか?」

「それもありますが、タマキさんの容姿が目立つということも理由の一つです。あまり人目を引きたくないのです」

「私、目立ちますか……?」


 環にしてみれば、マディリエの紫の髪や、ギムレストの青みがかった銀髪や金に光る瞳孔の方が余程目立つ。ギムレストが視線をシャーペンから環に移してうなずいた。


「タマキさんの髪と瞳の色です。黒髪も黒い瞳も存在しますが、ここでは髪と瞳の色が同じであることは非常に珍しいことです。

 ごく一部には存在するとは聞いたことがありますが、僕が実際にお会いしたのはタマキさんが初めてです」

「そう、なんですか」

「ええ。タマキさんの世界では違うようですね?」


 環は苦笑いした。


「私の民族、というか人種は基本的に髪も目も黒や、黒に近い茶色です。髪と目は同色であることが多いですね。

 他の人種で金の髪や青い目、珍しいところでは赤い髪の人もいますが、みなさんのように紫の髪や青みのある銀髪の人はいません」

「ほう、世界が違うと常識自体が違いますね。面白い」

「そうですね。それで、髪と目が同じ色というのは、忌避きひされるようなこともあるんでしょうか?」

「いいえ? ただ非常に珍しいので、大変注目されるというだけです。タルギーレの目的が判明しない間は、注目を集めることはしたくない。ということです」

「タルギーレ……。あの召喚師たちのことですよね? タルギーレとは犯罪者集団のことですか?」


 ギムレストは軽く首を振る。


「タルギーレは西方にある国のことで、その国と民のことを指します。今から二百年前まで、この世界はタルギーレのものでした」

「ええと、この世界全体がタルギーレという国の支配下にあったという理解でいいでしょうか?」


 メモを取りながら聞くと、ギムレストの視線は再び動くシャーペンへ向かった。


「はい。四百年前に異界より、六大魔と呼ばれる我々にとっては非常に邪悪な存在が現れました。魔術に秀でたタルギーレは歴史が深く、六大魔が出現するまでは他国を導く盟主のような存在でしたが、かの国は六大魔にくみしてしまったのです。

 忠実な配下となった彼らは、六大魔の行使する未知の魔術を自分たちも使えるように創り上げました。暗黒魔術と呼ばれたその魔術によって、タルギーレは世界を恐怖と絶望で支配しましたが、結局はタルギーレに滅ぼされた国の王子によって国ごと滅亡しました」


 環はメモの手を止める。


「国ごと滅亡した? でも現在も国はあるんですよね?」

「ええ、タルギーレの土地ごと、人も建物も全てが地中に呑み込まれたそうです。ただ、当時各地に散っていたタルギーレの民は生き残りました。彼らが国の跡地に戻り、現在のタルギーレが形成されています」


 環は少し眉を寄せる。


「……その、私の世界だったら、この場合タルギーレの統治は滅ぼした側が行うことがほとんどなんですが、タルギーレの統治権はそのまま彼らに残されたのですか?」


(攻め込んで親兄弟の仇を取ったら、はいおしまい。なんてことあるかしら? 想像もしたくないような十倍返しがありそうなものだけど……)


「そのあたりについては少し曖昧に伝わっています。

 サンティーユの王子、タルギーレを滅ぼした王子のことですが、確かに最初は彼が統治を行っていたそうです。しかしいつの間にか王子は歴史からその姿を消し、統治はタルギーレの民の手に戻りました。

 周辺国は詳細をサンティーユに問いただしましたが、サンティーユの言い分は、二度とタルギーレの暗黒魔術が世界を闇で覆うことはない。闇に繋がれていた日々のことは忘れ、取り戻した白日の世界を謳歌おうかすべし。という、関わるなの一点張りだったそうです」

「……まさか、その言葉で引き下がったんですか?」


 環の疑問にギムレストは苦笑いした。


「当時の記録を読む限り、ずいぶんと食い下がっていたようですが、実際に六大魔はタルギーレ滅亡と共に姿を消し、あふれんばかりの魔物もいなくなり、各地に残されていた六大魔を崇める神殿も、その力を止めていました。

 そうなると、各国はタルギーレよりも国内の復興の方が優先されていったのです」

「それじゃあ、そのままうやむやになったんですか?」

「まあ、そうとも言えます。タルギーレに続く道も閉ざされ、交流も絶えて暗黒魔術も無くなれば、真実は不明でも生きていくことの方が重要となるのは当然でしょうね」

「……そうですね」


 家族を失っても生きていかなければならないことは良く知っている。

 不意に自分の家族のことを思い出しそうになり、環は腕時計を強く握ってこらえた。気を取り直して質問を再開する。


「……ギムレストさん。ところで六大魔というからには、その邪悪な存在は六人いたということですか?」

「大魔は人型だそうですが、人ではありません。六体、と数えています。残された記録によると、生きた肉を好む者、生き血を好む者、人々がいさかい合うさまを好む者、恐怖に狂う魂を好む者といった、我々とは相容れない嗜好しこうをしていたそうです」

「そ、それは確かに邪悪ですね……」


 環は同意せざるを得なかった。地球人である環から見ても共生は不可能な相手だ。


「召喚術は六大魔の術と言われています。彼らがどこから来て、どこへ向かうのか知り得ませんが、彼らは召喚術によって異界へ現れ、生きとし生ける者を狩り尽くしたら、また別の異界へ向かうということを繰り返しているのではないか、という説もあります」


 迷惑の度合いが桁違いだが、まるで蝗害こうがいのようだと思った。それよりも環には気になる言葉があった。


「召喚術が六大魔の術……」


 ギムレストが肯定する。


「はい。時間と空間を歪めて異界と繋がる術は、六大魔の術をもといにした暗黒魔術の召喚術だと言われています。六大魔時代にタルギーレは遠く離れた神殿同士を繋ぎ、瞬きの間に移動していたようです」

「それは、すごいですね」


 褒めていい事かわからないが、思わず感想がそう口をついて出てしまった。想像力に乏しい環が真っ先に思い浮かんだことは、通勤が楽になる。だったが、いきなり敵兵を送り込むことも出来るだろう。嫌な未来しか見えない。


「だから僕は最初に、タマキさんは神殿に残っていた暗黒魔術を使って、遠くの神殿から転移してきたのではないかと思ったのですが、容姿といい、所持品といい、どう見てもこの世界の方ではないと判断しましたので、異界からの召喚術だと考えたのです」

「……あの、私が言うのもどうかと思いますが、召喚術が使えるようになったとすると、まずいのでは……?」


 前回の検査が行われたときに、ヴィラードが言っていた言葉を思い出す。「暗黒時代の魔術が復活したのか?」と言っていた気がする。

 神殿同士の瞬間移動が可能になったら、密入国も奇襲もやりたい放題になるだろうし、再び六大魔のような存在も召喚できるようになるかもしれない。迷惑でしかない存在を召喚して何が楽しいのか理解できないが、もしかしたら世界征服の夢再び! などと考えている可能性だってある。


 ギムレストは環に同意を示した。


「ええ、場合によっては由々しき事態です。ですので今、おさが方々と連絡を取りタルギーレの情報を集めています。今日ここにいないのはそのためです」

「そうでしたか」


 したり顔でうなずきながら、環はヴィラードがいなくてラッキーなどと思っていた自分を反省した。ただのセクハラマンと決めつけていたが、意外にも仕事熱心なのかもしれない。そういえば自己紹介の時にレンフィックの冒険者ギルドを預かっていると言っていた。セクハラにうつつを抜かしているだけの人物では、ギムレストたちのようなクセのある部下をまとめることは出来ないだろう。


(……冒険者ギルド?)


 環はようやく、自分が聞き流していた馴染みのない単語のことを思い出した。


「あの、ギムレストさん。話が変わりますが、この場所は冒険者ギルドという認識でよろしいですか?」

「ええ、その通りです」

「冒険者ギルドとは、具体的に何をするところでしょうか?」

「タマキさんの世界にはありませんでしたか?」

「まあ、ありませんでしたね」


 ゲームや小説の中の架空の存在です。とは言い出しにくいところだ。


「そうですか。簡単に言いますと、依頼を受けて要求に応え、報酬を貰う生業なりわいでしょうか」

「ええと、傭兵みたいなものですか?」

「ああ、傭兵はいるのですね。大まかには同じですが、傭兵が戦闘に特化していることに対して、我々は対応範囲がより広いです。護衛や貴重品の運搬はもちろんのこと、今回のようにタルギーレが関わっていることの調査や、魔物の排除なども行います」


(警備会社が警察業と宅配業も兼ねているってことかな、忙しそう……)


 どうしても日本を基準にして想像してしまい、ファンタジー感が乏しくなる。


「……私の国だと犯罪捜査や魔物? ……猛獣の捕獲なんかは国の管轄ですね。輸送関係は専門の業者がいますし」


 ギムレストはそうですか、とうなずいた。


「国の騎士団ももちろんありますが、彼らは国対国の事柄や国内の治安維持が主です。国境くにざかい僻地へきちですと、どこの国にも所属していない集落や場所などもありますので。僕らはそのような頼る国のない地域からの依頼も請け負います。

 それにタルギーレのような国をまたいだ犯罪の場合、国同士でやり取りするより、各国にある冒険者ギルドで情報交換した方が解決まで早いのです。国の面子も関係ありませんし。捕まえた犯罪者は騎士団に引き渡す協定が結ばれています」


 環にとって、国が管理していない地域や集落があるというのは新鮮だった。


「つまり、国家が対応できないような治安業務も冒険者ギルドが担っているということですか。大変ですね」


 どうやら冒険者ギルドというところは社会貢献度も高く、取り締まり行為が許されるほどの信用と権力も持っているようだ。


 環が感心していると、ギムレストは軽く微笑んだ。


「治安業務というほどのことでもありません。依頼を選り好みするほどの金銭的な余裕がないだけです」

「あ、な、なるほど……」


 予想外の言葉に、環は少し返事に詰まった。


(異世界で経営のやり繰りについて聞くことになるとは思わなかったわ……)


 世知辛い懐事情を聞くと、急に異世界に親近感が湧く。それと同時に心配なことが出てきた。


「あの、報酬についてお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

「……私、この世界の通貨を持っていませんので、助けていただいたのに報酬を支払うことができないんです。ダイヤのネックレスでよければ差し上げますが、足りるでしょうか?」


 マディリエたちは環の護衛についていると言われたが、それはすなわち、人件費が発生しているということだ。二十四時間の交代の護衛だなんて、一体いくらになるのか想像したくない。

 おそるおそる聞いた環に、ギムレストは安心させるように微笑んだ。


「タマキさん。あなたはタルギーレの犯罪に巻き込まれた被害者です。依頼人でもないあなたから報酬を頂こうとは思っていませんよ」

「……でも、経費が発生しているでしょう?」

「経費?」

「あの神殿? までの往復の移動費やマディリエさんたちに護衛頂いている人件費、この部屋の宿泊費や設備使用料などです」


 ギムレストだけでなく、マディリエやカイラムも目を丸くした。


「設備使用料……。それは、タマキさんの世界では当たり前の考え方ですか?」

「はい。組織を運営する上では欠かせないことです。何をするにも経費は掛かりますから」


 メーカーから終わりのない原価低減を要求され続けている下請けにとって、原価の管理はもはや強迫観念になっていると言っても過言ではない。

 その上で会社からは利益目標を設定されているのだ。品質は落とさずに単価を下げられる魔法があるなら是非とも会得して持って帰りたい。


「異界というところは奥が深いですねぇ……」


 ギムレストはしみじみと言って、楽しげに笑った。


「ギムレストさん?」

「いえ、失礼しました。タマキさんの世界は実に興味深いところですね。ご心配頂いたようですが、どうかご安心を。報酬はタルギーレを捕まえて騎士団に引き渡せば出ますから」

「騎士団から出るんですか? 彼らを捕まえられない場合はどうなります?」

「その場合には、もちろん報酬はありません。ですが僕たちは必ずタルギーレを捕えますよ」


 笑顔のままはっきりと言い切った顔には自信が見える。職業病で経費を考えると胃が痛くなる思いだったが、少し肩の力が抜けるような気がした。


「そうですか、よかった。気になっていたんです」

「ふふ。他に気になっていることはありますか?」


 環は少し考える。


「タルギーレを捕まえた後の私の処遇は……」

「前にも伝えましたが、それは彼らを捕まえるまでなんとも申し上げられません」

「ですよね」

「タマキさんが元の世界に帰還出来るか断言はできませんが、全力は尽くします」

「……ありがとうございます」

「それに、しばらく留まることになっても僕が身許みもとを引き受けるつもりでいますから、安心してください」

「え?」

「え?」

「え?」


 驚きの声は環だけでなく、マディリエやカイラムからも上がった。ギムレストは気にすることもなく微笑んでいる。


「な、なぜそこまで……?」

「タマキさんが帰還するまでに、お持ちの文具の所有権について、じっくりとお話をしたいので」

「…………」


 それは、はたして安心していい情報なのだろうか?

 居場所の確保に喜ぶべきか環は悩んだ。横でマディリエが吹き出す声が聞こえた。


「ギムレスト、それは難しいんじゃない?」

「はて、何故でしょう?」

「だって、あのおさが大人しくタマキを渡すと思う? 今の状況じゃあ離さないと思うわよ」

「そ、そんなっ!」


 悲鳴を上げたのは他ならない環だった。マディリエの無慈悲な宣告に思わず席を立つ。世話になっているとはいえ、二十四時間セクハラを受け続けるなんて耐えられない。遠からず根を上げる未来が目に浮かぶ。環はマディリエに向かって身を乗り出した。


「マディリエさん。どうやったらヴィラードさんに嫌ってもらえるでしょうか?」

「はあ?」

「今の状況だとどう駄目なんですか? この格好ですか? 男装すればいいんですか?」

「男装ねえ……。女ってバレてる状況で意味あるの、それ?」

「う……、だったら、ヴィラードさんの好みの逆を教えてください」

「そんなことしなくても、嫌なら殴ればいいだけじゃない」


 環はマディリエの身も蓋もない物言いに驚く。


「な、なぐ、殴る? それはさすがにちょっと……」

「どうして?」

「だって、ヴィラードさんは恩人ですし、それにここの責任者ですよね? 皆さんの前で殴るなんて、恥をかかせたくはないです」

「嫌なことをされてるのに我慢するっての? 理解できないわ」

「マーティは我慢なんてしないもんな」

「当たり前でしょ。言ってわからない奴は殴る。これで解決よ」

「うーん……」


 単純明快な提案だが、環には非常にハードルが高い。それにヴィラードを殴ったら、自分の手の方が怪我をしそうな気がする。


「遠慮してたらいつまでたっても付きまとわれるわよ」

「ううーん」

「どうせ殴られてもすぐに忘れてちょっかい出すんだから気にしなくていいわ」

「……それは結局、殴る意味がないのでは?」

「近寄らなくなるまで殴り続ければいいのよ」

「…………」


 環の脳裏に、マウントポジションでヴィラードを殴るマディリエの姿が想像された。


(……駄目、私にはとても出来そうにないわ)


 環はギブアップした。


「あの、他の方法を……。ヴィラードさんの方から近付かなくなるようなことは出来ないでしょうか?」


 マディリエとカイラムは同時に環を上から下まで眺めて、顔を見合わせてから、仲良く揃って首を振った。


「無理だよな」

「無理ね」

「ど、どうしてですか?」

「だってタマキ、あなたおさの好みのど真ん中だもの」

「ふぁっ!?」


 それは環を良くわからない谷の底に突き落とす威力のある言葉だった。環はひどく動揺した。


「そ、そそ、そそれは、どういう?」

「少し落ち着きなさいよ。驚きすぎ」


 マディリエはなだめるように言うと、一呼吸おいてから環に指を突きつけた。


おさの好物はね、か弱い女よ」

「こ、好物って……。私は別に、か弱くはないと思いますけど……」


 なんやかんやで一人で身を立ててきたというのに。それに大学に入るまで地元の道場に通わされていた。今となっては体力づくりのジム通いで、足を細くしたいという不真面目な動機でキックボクシングで汗を流す程度だが、会社員の基本である体力作りは続けている。テントを背負って山を縦走するくらいには元気だ。


 確かに酷い乗り心地の馬車で酔ってしまったが、あれは大多数の日本人が同じ状況になると思う。決して環がか弱いわけではない。


 と思ったが、そんな環をマディリエが鼻で笑った。


「ふん。悪名高きタルギーレの犯罪に巻き込まれた気の毒な被害者で、しかも異界から呼ばれて世界のどこにも頼れる相手はいない。帰還方法もわからないのに、涙を見せずに健気に言葉を覚えようと必死になって、たどたどしく一生懸命に話しかけてくる。……どう思う?」


 最後の言葉はカイラムに向かったものだった。カイラムがわざとらしく目頭を押さえる。


「なんか不憫ふびんすぎて俺が泣けてきたわ」

「これでこらえきれずにおさにすがって泣いたら完璧よね。むしろ待ち構えてると思うわ」

「ええ……?」


 環は頭痛がぶり返してくる気がしたが、それでも足掻あがくべき点は見えた気がした。


「……今の状況ってそういう意味ですか。つまり寄る辺のない立場に庇護欲をそそられると。はぁ……。厄介ですが、理解できました。なんとか対応してみます」


 環はこめかみを揉んで頭痛を逃がそうと試みる。

 自分の容姿に一目惚れされる要素などないと思っていたら、まさかのシチュエーション萌えというやつだ。この場合、勝手に作り上げているイメージを壊してやればいいだろう。つまり環がか弱くないことを示せばいいわけだ。

 カイラムが軽く目を開いた。


「お? 意外に平気そうだな」

「平気じゃありませんけど、対応方法はわかったので」

「対応方法って?」

「昨日までと同じです。置かれた立場は変えられませんが、隙を見せなければいいわけですよね」

「続けられるの? 疲れると思うけど?」

「…………」


 マディリエの疑問に、環は想像してみる。確かに四六時中気を張り続けるのは無理だろう。一番いいのは、会う時間を少なくすることだ。


「……ギムレストさん」

「はい、なんでしょうか?」

「私が長期でここに残ることになった場合、必ず私の身柄を引き受けて頂くと約束してくださいませんか? 謝礼に万年筆を差し上げます」

「ふむ……そうですね……」


 大喜びで飛びつくかと思ったら、ギムレストは顎をつまんで思案するような顔つきになった。意外である。


「駄目でしょうか?」


 環の問いかけに、少し考えたギムレストは優しい微笑みを浮かべ、


「タマキさん。それだけでは足りませんね」


と爽やかに言い放った。


「た、足りない、ですか?」

「僕だっておさを敵に回すことはしたくありません。それでも盾になれというのなら……わかりますよね?」

「…………」


 小首をかしげて余裕の表情をしている。自分の絶対的優位な立場を正確に理解している顔だ。


(嘘でしょっ!?)


 環は盛大な悲鳴を上げたくなった。しかし何をしようとも弱みを知られた環の不利はくつがえしようがない。


「……今ならインクカートリッジを付けましょう」


 環の追加報酬案に、ギムレストは困ったように微笑んで息を吐くと首を振った。


「……でしたらコンバーターもオマケします。これでカートリッジが無くなっても書けますから大変お得ですよ?」

「だから殴ればいいだけの話じゃない」


 呆れたようなマディリエの声を聞きつつ、どこぞの通信販売のような文句を並べながら、環の圧倒的不利な交渉は続いた。

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