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「祐樹くんは、アリスに暴力を振るう一方で、私に対しては礼儀正しく節度を保って接してくれたわ。そんな風にされるくらいなら、死んだ方がマシだった。私は清らかな理想の女でいることを強いられた。夢見がちで傲慢な男。プライドだけ高くて何も無い。空っぽの、ただのクズ。でも、あんなに綺麗な人は他にはいなかった」

「愛していたんですよね?」

「愛していたわ」

 蛍さんは、きっぱりと、よどみなく言い切った。

「アリスは最後まで私を信じていた。『私の為に罪を犯させてごめんなさい』だなんて、いじらしい謝罪の言葉を残して自殺したくらいだもの。死ぬことなかったのに……」

 母さんの死に話が及んだ時、蛍さんは悼むように目を伏せた。

「唆したのは私。殺したのも私。遺体を切り刻んだのも私。アリスはただ彼を運ぶのを手伝っただけ。いいえ、ただ彼の暴力に耐えられなくなっただけ。逃げる事も出来ないくらい追いつめられていただけ。弱くて哀れな彼女には罪なんか無かった」

 二人の女性の間にはどんな交流があったのだろうか。少なくとも、母さんは蛍さんを信頼していた。親友だと思っていたはずだ。そうでなければ、蛍さんの元に僕を残して逝けるはずがない。母さんは、蛍さんを善い人だと信じていたに違いない。

「犯罪を思い止まる機会は何度もあったはずです。母が最初に出来ないと言った時も、やっぱり無理だと電話をかけて来た時も、父が目を開けた瞬間だって……それなのに、どうして思い止まらなかったんですか?」

「彼を殺す最初で最後のチャンスだったからよ。あれを逃せば、二度目は無かった。私は、あの日、絶対に彼を殺すと決めていた。どうしても彼を殺したかったの」

「どうして?」

「死ねば、誰のものでもなくなるでしょう?」

 ふっ、と全身の力が抜けた。その通りだと思ってしまった。死ねば、小日向祐樹はアリスのものではなくなる。父さんが母さんのものになっている事が許せなくて、蛍さんは父さんを殺したのか……

 でも、なぜだろう。それだけじゃない気がした。死ねば、人はしがらみを脱し、あらゆるものに縛られず、自由になる。苦しみからも解放される。子供の目から見ても、父は、小日向祐樹は苦しんでいるように見えた。自分の無能さに辟易し、無力さに絶望し、ひたすら生を倦んでいた。母さんを罵る時の父さんは死にそうな痛みに耐えているようにも見えた。消えて無くなりたいと呟くことさえあった。あの苦しみから、蛍さんは小日向祐樹を救ったのかもしれない。いや、本当のところは、やっぱり分からない……

 水森蛍は美しい人だった。

 父さんは蛍さんを好きだったのだろうか。

 子供の僕から見ても、蛍さんは、清らかで、光に包まれているように見えた。

「蛍さん……僕は子供の頃、あなたが好きでした。初恋だったんです」

 やめて、と蛍さんは悲痛に叫んだ。

「だから男の子は嫌なのよ。そうやって自分勝手な感情を押し付けて、こっちの気持ちなんか、いつもお構いなし……」

「それは祐樹さんのことだろう? 蒼依くんは、そんな人間ではない」

 月ヶ瀬さんは僕を庇い、蛍さんは初めて憎悪を込めて月ヶ瀬さんを見た。

「あなた、蒼依くんの彼女だものね。私を牽制してるのね」

「そうだな、そのつもりだ」

 何に対して、そのつもり、と肯定したのか。牽制してるということに対してか、彼女だということに対してか、どちらかなんてどうでもいい。

 月ヶ瀬柊は僕の手を強く握った。

「僕は、母も無実だとは思いません。あなたに殺人の罪を犯させた。それは、やっぱり罪だと思います」

 そうだよ、母さんも無実ではない。だから、蛍さん……

「自首してください。何もかもがあやふやだった七年前と違って、今は、父さんが死んだという証拠――殺人が行われたという証拠がある。あなただけはきちんと罪を償ってください。母さんのように逃げないで」

 蛍さんは、父さんの頭蓋骨がある水飲み場の方をじっと見詰めて黙っていた。駆け寄って、あれを持って逃げ去りたいという渇望と、罪を償おうという思いの間で葛藤しているように見えた。

 蛍さんは何度も首を横に振る。嫌だと言っているのか、ダメだと自制しようとしているのか、あれは私の物だと言っているのか、様々な感情が綯い交ぜになった、重く苦しい時間だったことだろう。蛍さんは、やっと顔を上げた。

 その目は暗く濁っていた。

「嫌よ、私は自首なんかしない。ここであなたたち二人の口を封じて、私も死ぬ」

 言って、蛍さんはゆっくりと4WDに歩み寄り、助手席のドアを開けた。

 蛍さんが手にした物を見て、ぎくり、と体が竦む。

「どちらかが動いたら、もう一人を撃つ。相手が大切なら動けないわよね」

 黒い、猟銃だった。

 蛍さんは慣れた仕草で猟銃を構え、鈍く光る銃口を僕たちの方に向けていた。

「ごめんなさいね。でも、あなたたちが悪いのよ。そっとしておいてくれなかったから」

 猟銃は正確に僕たちに狙いを付けている。

 僕たちにというより、月ヶ瀬さんに――

「人の不幸を穿り返すな、か。お婆様の忠告は正しかったという事だな」

 月ヶ瀬さんは気丈に嘯くが、僕は蛍さんを知っている。

 あの人は本気だ。

 子供の頃の五ヶ月間、僕は蛍さんに躾けられた。悪い事をした時や、我儘を言った時、あるいは勉強をさせようとする時、遠回しに上手に要求を伝えて来る人だった。

 蛍さんは、今、僕に逃げろと言っている。

 そして、僕が動いたら月ヶ瀬さんを撃つつもりだ。彼女を撃って、僕に死体の処理を手伝わせる。今度は罪悪感の呪いで縛る為に……

 蛍さんは、僕に、帰っておいで、と言っている。

 嫌だ、出来ない。月ヶ瀬さんを撃たせるなんて、嫌だ――

 覚悟を決めて、月ヶ瀬さんに伝える。

「月ヶ瀬さんは逃げて。僕は撃たれてもいいから」

「バカを言うな。あの猟銃は一度に二発の弾を装填出来る。二発しかないが、彼女なら充分なのではないか。君を犠牲にして逃げたところで、その二秒後には私も撃たれる」

「でも……」

「彼女が欲しいのは君だ。君を殺して私を見逃すわけがない。私は無益な事はしない主義なのだ。まあ、とにかく、君を独りになどしない」

 こんな時なのに王子様のようにサラリと言う。

「月ヶ瀬さんは、バカだよ……」

 僕たちは下を見ないまま、強く繋いだお互いの手に、更に強く力を込めて確認し合った。

「月ヶ瀬さん、僕、君が好きだと思う」

「そうか。奇遇だな。私も君が好きなようだよ」

「え……?」

 むしろ一目惚れだがね、と聞こえて自分の耳を疑う。問い質したかったけど、そんな時間も余裕も無かった。

 息をつく暇すら許されず。

 ガリガリと砂利を削るような音がして。

 視界いっぱいに光が広がった――


   †††

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