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 音楽室の扉を開けて蛍ちゃんの姿を見た瞬間、祐樹は息を飲んで、その場に立ち尽くした。石にでもなったみたいに硬直して、扉の端を握ったまま突っ立っていた。祐樹が入口を塞いでしまっていたせいで僕は音楽室に入れなかったから、どうしたんだよって声をかけたんだ。でも、全然聞こえていないみたいだった。

 僕の声を聞いて振り向いた蛍ちゃんも、祐樹を真っ直ぐに見た瞬間、手に持っていたフルートのケースを落としてしまってね。近くにいた女の子が慌てて拾い上げて蛍ちゃんを詰ったんだけど、じっと祐樹を見詰めたまま、彼女も身動き一つしなかった。

 一目惚れってそういうものなんだ。バカバカしいと思うかい? でもあれは、その瞬間を味わった人間と、不運にも間近で目撃してしまった人間にしか分からない。

 二人はその日、特に会話を交わしたわけじゃない。でも、付き合うのが当然のように、翌日からべったりと休み時間毎に一緒に過ごすようになった。どちらから誘ってそうしていたのか分からないし、そもそも二人の間に約束があったのかという事すら謎だった。

 恋って本当に不思議だね。

 傍から見ていると理屈が分からない。

 優等生と劣等生。明るくてみんなの人気者の蛍ちゃんと、気難しくて近寄り難く、みんなから浮いていた孤独な問題児の祐樹。みんなは、蛍ちゃんと祐樹じゃ釣り合わないって陰口を叩いた。蛍ちゃんが身を持ち崩して不幸になる――って。

 実のところ、男子も女子も嫉妬してたんだと思うよ。蛍ちゃんは言わずもがな、祐樹もあの容姿だったから女子にものすごくモテていたからね。

「蛍は俺と一緒にいちゃいけない」

 祐樹はあれでいて繊細なところも持ち合わせていてね。周りが嫉妬で無責任に言っていた陰口を真に受けてしまったんだ。

 祐樹が蛍ちゃんに別れを告げた瞬間も、僕は見てしまった。祐樹が悪いんだ。蛍ちゃんが泣いたらすぐに慰められるように隠れて見守っていてくれ、なんて……

「もうおまえとは付き合えない」

 そう祐樹が言った時、蛍ちゃんは最初は冗談だと思ったみたいで笑ったんだ。

「どうしたの、祐樹くん? どうしてそんなバカな冗談言うの?」

「冗談なわけないだろ。もうおまえに飽きたんだ。おまえみたいな真面目な女、一緒にいてもつまんねえんだよ」

 今にして思えば、ずいぶん陳腐な言い草だよね。高校生が恰好つけて安っぽい台詞を口にして、女の子を傷付けて、バカみたいだよ。いや、本物のバカだ、祐樹は。蛍ちゃんは心底ビックリしたという様子で、目を大きく見開いていた。情けないくらい子供だったよね。祐樹も、蛍ちゃんも。

 二人はその日を境にお互いを避けるようになって、気まずいまま高校卒業の日を迎えてしまった。祐樹のお父さんが亡くなった時も、蛍ちゃんは「私は行けない」と言ってお葬式にも行かなかった。祐樹は音楽の専門学校へ行くと言って上京し、蛍ちゃんは神戸の大学に進学してしばらく地元を離れた。

 僕が蛍ちゃんと再会したのは四年後、蛍ちゃんが大学を卒業し、地元の農協に事務員として就職してからだった。

 祐樹とも少し後で再会したよ。こんな事は子供の前では言いたくないけど、あいつはダメな奴だった。音楽関係の仕事に就きたいと言って音楽系の専門学校へ入学したのに、学校へはろくに通っていなかったらしい。仕事に就いてもすぐに辞めてしまって、四年目の夏頃、食い詰めて地元に戻って来た。小日向の家はおばさんが資産を持っていたから、実家にいれば食うには困らなかったからね。

「俺には才能がある。このままでは終わらない。いつかデカイ事をする。有名になって俺を見下した奴らを見返してやるんだ」

 祐樹はそんな絵空事ばかりを言って、何も真面目に取り組もうとはしなかった。

 蛍ちゃんは祐樹の事を心配してやってたんだと思うな。あんな別れ方をしていた二人だったけど、そうは言っても高校生の頃の事だからね。いつまでも引き摺ってるわけがないさ。蛍ちゃんはすごく良い感じで大人になってた。

「祐樹くんにも仲間と目標が出来たら変わるんじゃないかしら。彼、意外と文才あるのよ。高校生の頃、彼が作った歌の詞を見せて貰ったことがあるの。文学サークルを作りましょうよ。みんなで集まって、美味しいお酒と料理を楽しみながら、好きな話をするのよ。そうしたら、祐樹くんも何かやろうって前向きな気持ちになってくれるかも」

 そんな風に上手く行くだろうか、と僕は半信半疑だった。

 人間の性根というものは、大人になって完成してしまったら、そうそう変わるものじゃない。一旦固まった溶岩がそうそう形を変えないように。

 でも、蛍ちゃんの言っていた事は半面では正しかった。祐樹には本当に意外な文才があったんだ。あんな童話を書けるなんて思ってもみなかったよ。

 ただし、もう半面では見事に裏切られたけどね。蛍ちゃんが本当に期待していた、祐樹を更生させたいという目論見は叶わなかった。

 祐樹はズルズルと落ちて行った。

 ああ、そうだった。アリスちゃんと祐樹を引き合わせたのも僕なんだ。悔やんでも悔やみきれないよ。いや、こんな事を言うべきじゃないな。二人が出会わなければ蒼依くんは生まれなかったのだから。

 アリスちゃんから熱心に祐樹にアプローチして、二人は結婚した。祐樹がふらふらしていて無職だったから、結婚式は挙げられなかったんだけど、僕と蛍ちゃんがカンパして結婚写真だけは撮ったんだ。蛍ちゃんが強引に僕を巻き込んだんだよ。

「ほんとに男って気が利かないんだから。結婚って入籍だけすればいいってものじゃないのよ。若くて綺麗なうちにウエディングドレス姿を披露出来なかったらアリスが可哀想じゃない。せめて写真くらい撮らなくてどうするのよ」ってすごい剣幕で怒られた。

 蛍ちゃんの言う通りにして良かったよ。

 純白のウエディングドレスを着て、白いタキシード姿の祐樹と腕を組んだアリスちゃんは、世界一幸せそうで、世界一綺麗な花嫁さんだった……

「おめでとう、二人とも。絶対幸せになれよ」

 悲しいな。あの可愛らしいアリスちゃんが、もうこの世にいないなんてさ。

 ああ、湿っぽくなってしまった。僕が語るのはここまでにしよう。

 後の事は、他の人の方が詳しいと思うから……


   †††


 不意に、スマートフォンから警戒警報のようなビープ音が流れ出す。重く残っていた話の余韻は、その無神経な音で掻き消された。

「ああ、もうこんな時間か……」

 忙しないアラームを止め、熊井さんは、よいしょ、と膝に手をついて立ち上がる。まだ聞きたい事があるような気はしているのだけど、何を訊ねていいのかも分からず、必然的に昔話はそこで終わりになった。

「さあ、みんな、お昼を食べに行こう。長い話になっちゃって疲れただろう。寂しい話をした後は美味しい物を食べて元気を出さなくちゃ」

 熊井さんはみんなの顔を見回し、空気を変えるように笑ってくれた。

「さあ、急いで、急いで。予約時間に遅れるとあそこの頑固親爺に怒られるからね。美味しい蕎麦と天麩羅がお待ちかねだよ」

 パンパンと手を叩かれて急かされ、僕らはそろって熊井さんのワンボックスワゴンに乗せられた。有無を言わさぬ強引さに、僕と月ヶ瀬さんは呆気に取られてしまう。でも、一生懸命気を遣ってくれる熊井さんのお陰で、気分は少し軽くなっていた。

「蕎麦楽しみだなぁ。明彦さんはグルメだから期待大だね」

「ああ、期待は裏切らないぞ」

 朔良さんは慣れているようで、当たり前の顔で熊井さんのペースに合わせていた。

 少しのドタバタの後、シルバーのワンボックスワゴンは、持ち主の性格を反映したゆったりとした運転で観光客向けの店が立ち並ぶ通りを抜け、熊井さんお勧めの老舗蕎麦屋へ向かった。

 目当ての店は、主に地元の人相手に商売をしているらしく、狭い山道を登った奥にあった。のぼりも暖簾も無い控え目な店構えで、森に囲まれた庵といった風情だ。狭い店内には四人掛けのテーブルが三つしかない。

 入口近くのテーブル席には髪の白い年配のご婦人三人組の先客が居た。

 一つ空けて、奥のテーブル席に着く。僕と月ヶ瀬さんが並んで座り、必然的に熊井さんと朔良さんが隣同士で座ることになった。うわあ、すごい絵面。

「やっぱり蕎麦は十割(とわり)に限るね。季節なら柚子切りも美味いんだけど、今は芥子切りがお勧めかな。更級と抹茶と芥子の三色ざる蕎麦と天麩羅の盛り合わせしようか。みんな、それでいいかな?」

 口を差し挟む隙も無く、熊井さんはボリュームたっぷりのメニューを四人分注文してしまった。さっきもケーキと大福を出して頂いたけど、食べきれなかった大福は、元々用意おいてくれたらしい煎餅の菓子折りと一緒に包んで持たされている。

「熊井さん、気を遣い過ぎだ。そんなに沢山食べきれるか不安だぞ」

 珍しく月ヶ瀬さんが弱音を吐き、僕も同意する。

「本当に食べきれないと困るので、気を遣い過ぎないでください」

「大丈夫。ここの蕎麦と天麩羅は絶品だから、満腹でもぺろりといけちゃうよ」

 熊井さんが請け負い、間もなく、注文した料理が運ばれてきた。瑞々しい三色ざる蕎麦と、からっと揚がった天麩羅は、目にも綾な豪勢な盛り付けになっていた。

「おおっ、美味そう」

 朔良さんは両手を合わせて、子供みたいにはしゃいだ。

「いただきます」

 軽く蕎麦つゆをつけて一口すすってビックリする。すごい、蕎麦の香りが濃い。

「美味いだろ?」

「はい」

 熊井さんは嬉しそうに目を細めた。

 蕎麦も天麩羅も言うに違わぬ絶品で、僕たちは夢中ですすり、頬張り、あっという間に食べ終わってしまった。蕎麦湯を頂き、食休みをする。この時に出して貰った蕎麦の実のお茶も香ばしくてほのかな自然の甘みがあって美味しかった。

 お腹いっぱい食べたはずなのに、熊井さんはまだ食べたりないようで、他のメニューも頼めば良かったかな、などと言い出した。

「それにしても惜しいね。蒼依くんがお肉を嫌いでなければ、鹿の刺身を出して貰ったのになぁ。今の季節だと冷凍物になってしまうけど、大蒜と生姜のすりおろしを乗せて生醤油で食べると、癖がなくて、さっぱりしていて、舌が蕩けるほど美味いんだよ」

 鹿の肉――

 考えたら、うぐっ、と吐き気が込み上げた。堪えろ……

 僕が密かに悶絶する横で、月ヶ瀬さんは無神経に問いを発する。

「この辺りでは鹿の肉が売っているのか。スゴイな、フランスのマルシェみたいだ」

 熊井さんは、まさか、と顔の前で手を振った。

「猟師さんが駆除したやつを分けて貰うんだよ。建前上は駆除した害獣は埋めて処理することになってるけど、美味いからね。こっそり解体して身内で分けて食べちゃうんだ。猪はよく火を通さないとダメだけど、鹿は草食だから生でもいけるよ」

 必死で吐き気を堪えている僕を余所に、月ヶ瀬さんは畳み掛ける。

「親戚に猟師がいるということだな」

「いやいや、それも違う」

 熊井さんは、何気ない調子で言った。

「蛍ちゃんだよ。お父さんが猟友会の会長さんだからね。蛍ちゃんもやらないわけにはいかないでしょ。男手があれば良かったんだけど、一人娘だからね」

 蛍さんが――?

 思わず、言葉を飲み込んでしまった。ぴたりと吐き気も止まる。

 まるで僕の代理のように朔良さんが口を開いた。

「蛍さんが? でも、あれ? 義姉さんが蛍さんの猟銃で自殺しちゃったせいで、管理責任を問われて猟銃の所持許可は取り消されたんじゃなかったっけ?」

「朔良――」

 ぺし、と熊井さんは朔良さんの太股を叩いた。

「あ、ごめん、つい……」

「大丈夫だよ、叔父さん。気にしないで」

 努めて平静な調子で熊井さんに向き直る。心臓がドキドキして指先が冷たい。

「熊井さんも僕のことは気になさらずに、何でも話してください。そうして頂けたほうがありがたいです。両親に関係の無い話でも、なんでもいいんです。僕は、どんな些細なお話でも伺いたいんです」

 ううむ、と呻き、熊井さんは大きな体を縮こまらせた。こんな話を、母親が猟銃自殺をしてしまった子供に聞かせていいのか、と煩悶しているようだった。それでも、僕が続きを促したのだから話すしかない。はあ、とひとつ喘いでから教えてくれた。

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