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 その日は一日中、クラス全員が浮足立ってしまって授業どころじゃなかった。

 動揺は僕のクラスだけに留まらず、噂は威力を増しながら生徒から生徒へと次々に感染し、いつのまにか高等部全体にパンデミックを引き起こしていた。

 月ヶ瀬さんは目立つ。僕から見ても美少女だ。黙っていれば魅力的だと思う。まあ、モテて当然だ。モテなきゃおかしい。

 そんな彼女に好意を寄せているらしい男子生徒が、休み時間ごとに入れ代わり立ち代わり教室の出入り口にやって来て、じろじろと不躾に僕の背中を視線で嘗め回す。不快この上ない状況だ。しかも、野次馬には上級生まで混じっていた。

「迷惑なんですけど」

 僕は敬語で月ヶ瀬さんに文句を言った。

「何が?」

 月ヶ瀬さんは昼休みになると、まるで当然のような顔で僕のところへやって来た。勝手に僕の机の半分にお弁当を広げて、またも一方的に喋り始める。

「君は少し自意識過剰なんじゃないか? 私が君に興味を持ったからと言って、みんながみんな、君に興味を持つなんて考えるのはおかしいぞ」

「君が僕なんかに興味を持ったせいで、他のみんなにも興味を持たれてるんだよ」

「どうにも話が噛み合わんな」

「それ僕のせいか?」

「そうに決まっているではないか。君はおかしな事を言う」

 はあ……もう、溜息しか出ない。

 それはともかく。意外と言おうか、イメージ通りと言おうか、月ヶ瀬さんのランチは彩り豊かで可愛らしい手作り弁当だった。ご飯は小さなおにぎりにされ、プチトマトとブロッコリーの横に鰤の照り焼きと玉子焼きが入っていた。

 良かった、肉は無い。

 月ヶ瀬さんは僕のお弁当を覗き込んで怪訝な表情を浮かべた。僕が食べていたのは、おかかを乗せた海苔弁当で、おかずは豆腐田楽とアスパラガスと煮豆だけだったからだ。

「君はベジタリアンなのか?」

「違います」

「給料日前で家計が苦しいのか?」

「そんなわけないでしょ」

「成長期の男子高校生がそんな食事では足りないのではないか?」

「足ります。放っておいてください」

 そんな不毛な会話だったが、なぜかお弁当は美味しく感じた。食べ物が美味しいと思えるなんて久しぶりの感覚だった。

 そして、放課後――

 デートなどという災難どうしよう、と身構えていたところ、月ヶ瀬さんは音楽室の掃除当番に当たっていた事が判明した。

「私としたことが今日は掃除当番だという事をうっかり失念していた。十五分ほどで終わるから、すまないが昇降口の前で少し待っていてくれ」

 片手を上げてそう告げると、月ヶ瀬さんはクラスメイト数人と連れ立って特別教室のある北校舎へ続く渡り廊下の陰へと消えて行った。

 千載一遇のチャンス。僕は月ヶ瀬さんとのデートをすっぽかす事にした。そもそも約束は成立していない。彼女が一方的に「今日の放課後デートしよう」と言っていただけで、僕は一度も、OK、了解、いいよ、に類する承諾の返事はしていない。相変わらず「あいつ月ヶ瀬さんの何なんだ?」という、みんなの視線が突き刺さって来るが、僕はそれらの邪念を無視して、机の横に掛けてあったカバンを手にすると、無言で教室を後にした。

 昇降口で上靴からローファーに履き替え、傘を差し、昇降口も校門も素通りしてそそくさと駅に向かう。

 やった。逃亡成功だ。

 学園の外に出ると気分が軽くなり、心なしかカバンも軽く感じ始めた。

 意外とあっさり逃げられたな、と思っていたら、背後からものすごい足音が追い掛けてきた。ドドドドドドドッ、と重い地鳴りのような音。

 振り向くと、女子柔道部の一年生エース神宮司さんが、降りしきる雨をものともせず、傘も差さずに、水飛沫を上げながら柔道着姿で激走してくる。何事だろうと呆気にとられていると、彼女はなぜか真っ直ぐ僕を指差した。

 えっ、とたじろぐ。

 わけが分からず固まってしまい、僕は逃げる間を失った。

 そしてそのまま、脇目も振らずにぐんぐんこっちに近付いて来た神宮司さんに、がしっと両の二の腕を鷲掴みにされてしまった。

「小日向蒼依、逃げるのか?」

「そりゃ、普通は逃げるよ!」

 君みたいな多重の意味でヘヴィな女子に追い掛けられれば――

「月ヶ瀬さんがお待ちだ」

 僕は屈強な神宮寺さんに手首を掴まれ、ずるずると引き摺られるようにして昇降口前に引き戻された。捕縛され、連行された、という表現が相応しいかもしれない。


   †††


「やあ、待たせたかい、ハニー?」

「いや、それほどでも」

 神宮司さんの荒技に呆然としてしまい、掃除当番を終えて月ヶ瀬さんが軽やかに現れた時、僕はすっかり抗う気力を失くしていた。

 隣町のショッピングモールへ行こうと言われ、素直に従う。

 駅の南口からバスに乗ると、十分ほどで、最近建てられたばかりのショッピングモールに到着する。考えてみれば穴場かも知れない。子羊学園の生徒はあまりここには顔を出さない。雨の平日だからか、さほど混雑はしていなかった。子供連れの女性が多い。

 ファストフードやパスタ、ピザ、アイスクリームなどの店が並ぶレストラン階を素通りし、エスカレーターで三階へ向かい、吹き抜けの横に設置されたベンチに、月ヶ瀬さんに促されて並んで座った。

 女の子と二人でこんな場所に居るなんて、本当にデートでもしているみたいで気恥ずかしい。今からでもまた逃亡したいという衝動に駆られたのだが、よく繁った観葉植物が人目を幾らか遮ってくれていて、そのお陰で少しだけ気が楽になった。

「神宮寺さんとは仲が良いの?」

 特に話すことも無いので、先刻の事を蒸し返す。

 神宮司さんの名前を出した途端、月ヶ瀬さんは大きな目をめいっぱい見開き、瞳をキラキラと輝かせた。なんとなく猫っぽい。そして、うんうんと子供のように何度も頷きながら話し始めた。

「ああ、家が隣同士の幼なじみだったからな。幼稚園の頃は毎日一緒に遊んでいた。だが私は父の仕事の都合で七歳から昨年まで東京を離れる事になり、あまり会えなかった。それでも連絡は欠かさなかったぞ。だから、ほのかとは大の親友だ」

「え?」

 ほのか――神宮司さんは『ほのか』って名前だったのか。予想外過ぎる。変な部分で呆気に取られてしまった僕を余所に、月ケ瀬さんはハイテンションで親友の自慢を続けた。

「ほのかは私が困った時にはいつだって全力で助けてくれるのだぞ。彼女ほど信頼できる友達はいないだろう。ほのかは最高の親友だ。ほのかがいるから、私は子羊学園の高等部を受験したと言っても過言ではないぞ!」

「そ、そうなんだ……」

 神宮司さんの可愛い名前は意外で興味深かったのだけれど、特に言うことも無かったので、僕は学園でクラスのみんなに対するように黙り込んだ。

 沈黙が十数秒続き、なんとなく手持無沙汰でまだ少し痛む手首を擦っていると、月ヶ瀬さんは心配そうに僕の手元を覗き込んできた。

「乱暴なことをされたのかい?」

 優しい声音で言われて油断する。

「まあ、幾分かは」

 慰めの言葉でもかけてくれるのかと思ったら、月ヶ瀬さんは悪徳業者のように、にやり、と唇の片端を持ち上げた。

「だが、約束を破って一人で帰ろうとした君が悪いのだ。また逃亡しようとしたら、ほのかに応援を要請する」

 うぐ、と僕は言葉を詰まらせた。ヘヴィな神宮司さんにまた強襲されるのはごめんだ。ははは、と乾いた笑いが自分の喉から零れる。

「それ、立派な脅迫じゃないか」

「諦めてくれ。どうしても君と話がしたいんだ。どうも君という人間の断片すら掴めないというのは気持ちが落ち着かない」

「気持ちが落ち着かない? 気が済まない、の間違いじゃないか?」

 ぴたっ、とポーズボタンを押したように月ヶ瀬さんは動きを止めた。数秒押し黙ってから、参ったな、と肩を竦める。

「君は意外と辛辣なのだな。まあ、でも、君の言う通りだ」

 少し複雑な表情で月ヶ瀬さんは腕を組み、小首をかしげた。

「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなんだ」

 今朝も同じ台詞を聞いた。いちいち芝居がかった言い回しをする子だ。耳慣れない小難しい単語を使うし、上から目線で偉そうだし、尊大だし、傲慢だし、気障だし、人をムカつかせないと喋れないのか、この子は……

 はあ、そうですか、と曖昧に返す僕に自分の荷物を強引に押して寄越しながら、月ヶ瀬さんは唐突に立ち上がった。

「ちょっとここで待っていてくれ。すぐ戻る」

「え……ちょっと、月ヶ瀬さん!?」

 止める隙など無く、月ヶ瀬さんは長い黒髪をサラサラ揺らしながら、パタパタと走ってどこかへ行ってしまった。

「これ……いいのか……?」

 女の子のバッグを預けられた。

 初めての事だ。

 微かに良い香りがする。

「あの子、本当に変わってるな……」

 プライバシーの詰まったバッグを親しくもない男子に気軽に預けてしまうなんて不用心だ。僕にバッグの中身を盗み見られてもいいのかよ、と思わず脳内で突っ込んでしまって、なんとも言えない気分になった。

 もちろん、僕はバッグの中身を盗み見したりはしなかった。

 十分と経たず、月ヶ瀬さんは紙袋を手に戻って来た。

「よかったら食べてくれ。私の奢りだ」

 そう言って、鼻先に差し出された紙袋の中にはピタケバブが入っていた。レタスやオニオン、濃密なソースの臭いに混じって、明らかな肉の臭いが立ち昇ってくる。

 うっ、と習い性になってしまった吐き気が込み上げた。

「ごめん、それ、近付けないで」

「どうしたんだね、小日向蒼依くん?」

「ダメなんだ、それ……う……ほんとにヤバイ……」

 手の平で鼻と口元を覆い、嘔吐しないよう必死に我慢していたら、猛烈な眩暈がしてグラグラと頭が揺れ始めた。

 自分でもマズイと悟ったが、急速に平衡感覚が失われていく。

「ごめん、月ヶ瀬さん……」

 フッ、と蝋燭を吹き消すように目の前が真っ暗になった。

「どうしたんだ、小日向蒼依くん? 顔面が真っ蒼だぞ、大丈夫か? おい――」

 月ヶ瀬さんの声が遠く聞こえる。

 チカチカと暗くなった瞼の裏で黄色い光が瞬いていた。


   †††


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