第28話 善意と悪意 [隙間]

 また、見られている。


 いつからか、家の中に彼女が一人になると感じるようになった視線。

 壁と棚の隙間、その棚に並ぶ食器の隙間、壁と扉の隙間、ベッドと布団の隙間、隙間隙間隙間、ああ、あの隙間から、見られている。


 誰にも相談できなかった。

 誰にも信じてもらえないに決まっている。

 父にはこっそり冗談交じりに話してみたことがあるが、流行っている創作怪談の類だと思われて話すのをやめた。

 母はこの手の話を、というより無駄なものを嫌う。

 テストや模試の結果を話すことしか許されていないようなもので、相談などできるはずもなかった。

 

 逃げようとしても逃げられない。

 可能な限り家に一人でいる時間を作らないようにしたが、両親が共働きであるために限界はある。

 どちらかが早く帰宅できるときはいいのだが、二人とも深夜まで帰ってこない日は、隙間なく被った布団の中で震えるしかなかった。


 そんな彼女が康平たちのことを知ったのは偶然だった。


 学校は友人を作って無駄な時間を使う場所ではなく、勉強をする場所なのだと口うるさく言われていた彼女には友達がいなかった。

 部活動に入ることも禁じられていた彼女は、塾のない日でも予習室を利用してひたすら予習復習を繰り返していた。


 その日は塾の入っているビルの修繕作業のため、予習室が使えないと前々から知らされていて、彼女は仕方なく学校の図書室を使うことにした。


 図書室の机で一人ノートに向かっていると、話し声が聞こえてくる。

 私語は控えるようにという張り紙が見えないのだろうか。

 彼女は少しイライラしながら集中しようとしたが、上手くいかなかった。


「康平くんたち、心霊スポットに行くのやめちゃったみたいね」

「らしいね、でも怖い話とかはまだ集めてるんでしょ?」

「そうみたい。一個話しちゃったから私はもうネタないな〜」


 康平、という名前には見覚えがある。

 前に美術で作った作品の展示があったとき、『ねこ』というものすごくストレートなタイトルの付いたロウソクがあった。

 パッと見、確かに猫の座っている後ろ姿のように見えたそのロウソクは、他の変に凝った作品よりも自然で、可愛くて、記憶に残っている。

 そのロウソクの作者が康平という名前だった。

 隣のクラスの、同学年だ。


 怖い話を集めているのなら、自分の話も笑わずに聞いてくれるかもしれない。

 もしかしたら、助けてくれる可能性だってある。


 彼女はいてもたってもいられずに立ち上がり、手早く参考書やノートを片付けて図書室から駆け出した。


 いないかもしれないと思ったが、教室を覗くと男子二人と女子一人が机を囲むように座って話している。

 そっと近付くと、彼女に気付いた女子が顔をあげた。


「怖い話とか噂、話しにきたの?」


 彼女が頷くと、女子は近くのイスを寄せてきて、そこに座るよう促した。

 三科茜だと自己紹介をし、康平と和斗も名前を言った。

 彼女も名乗り、話し始める。


「怖い話というか……その、体験談、なの」


 三人は顔を見合わせ、しかし何も言わずに彼女の話を待っている。

 彼女はごくりと喉を鳴らし、視線の話をした。

 たくさんの怖い話を聞いているであろう三人にとっては全く怖くないかもしれないが、実際体験している身からすれば怖い。

 正体が分からないからこそ、気味が悪い。


「失礼なこと、言うかもしれないんだけど、いい?」


 茜はそう言って彼女を見た。

 作り話だとでも言うつもりなのだろうか。

 しかし真剣な表情をした茜に、彼女は一度頷いた。


「たぶんそれ、幽霊じゃないよ。あなたの身近な人のせいだと思う」

「え?」

「話を聞いただけじゃ本当のところは分からないから、よかったら家に行ってみたいんだけど……」


 茜は言いながら、康平たちの方を窺った。

 康平たちは特に何も言わず、茜に頷いてみせただけだった。


 どうせ今日は塾もないし、両親の帰りも遅い。

 彼女は三人と共に家に帰ることにしたのだった。


「どうぞ」


 中学校と最寄りの駅のちょうど中間辺りに位置する住宅街に彼女の家はあった。

 二階建ての一軒家で、小さな庭のある立派な家である。

 一昨年までは二階に祖母が暮らしていたのだが、介護の末に亡くなり、それからは彼女と両親の三人だけ。


 一階も二階もそれぞれにトイレと浴室、キッチンがあり、玄関が一つしかないだけで独立した二世帯住宅として使えるようになっていた。

 彼女が成人し、結婚したら二階に住めばいいと言われても、そんな未来の話に実感など沸くはずもない。

 彼女にとって二階は、大量の隙間が存在する空間でしかなかった。

 二階に上がる理由もなく、祖母が亡くなってからは階段に足をかけたことすらなかった。


 康平たちは小さくお辞儀をして玄関で靴を脱ぐ。

 彼女はリビングに三人を案内してソファに座らせ、温かい紅茶を入れようとポットに手を伸ばそうとして固まった。


 見られている。


「きゃああ!」


 彼女の悲鳴に、三人が慌てて台所に駆け込んでくる。

 茜に思わずしがみついた彼女は、青い顔をして震えていた。


「なんで、なんで一人じゃないのに……見られてる……」

「うん、やっぱりそうだ。これ、幽霊じゃないよ。生き霊だ」

「いき、りょう……?」

「あなたのお母さん。あなたが悪いことしないようにって、ずっと見張ってるんだね」


 茜のその言葉を聞いて、彼女の身体が大きく震えた。


 そうだ。

 友達。

 友達を家に連れてくるなんて、ああ、お母さん。


「ごめんなさい! ごめんなさいお母さん! 違うの、友達じゃないの、相談に乗ってもらっただけの、同じ学年の人で、それだけなの、ごめんなさい、家に連れてきてごめんなさい、勉強してなくてごめんなさい、ごめんなさい、だから、」

「ぶたないよ、大丈夫、大丈夫だから」


 錯乱する彼女の身体を、茜が強く抱きしめる。

 康平と和斗が、家の中をうろうろしながら「この辺から嫌な感じがする!」と言って手で何かを追い払うような動作をしているのが視界に映った。

 涙で滲んでよく見えないが、二人がその動作を行う度に、家の中の空気が澄んでいくような気がした。


「とりあえず嫌な感じはしなくなったけど、応急処置だからな、これ」

「たぶんまた溜まってきちゃうと思う」


 康平たちの言っていることは彼女にはよく分からなかったが、根本的に解決していないということなのだろう。

 茜の言う通り、あの視線が母のものなのだとしたら、きっと自分が何をしても無駄なのだ。


「先生とか、誰か大人の人に相談してみるのも、いいと思うよ。私がお世話になってる人でもよかったら紹介するし」


 彼女の考えを見透かすように、茜が言った。

 やけに大人びて見えるその表情は、とても印象的だった。


「あり、がとう。あの、私……学校と塾の先生以外、知ってる人いないから……紹介してもらえたら、嬉しい……」

「わかった」


 茜は力強く、彼女の手を握りしめた。


 

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