3 望むもの

 その日、レヴィンとエイリックが面会する日が半月後に決まったとボードから知らされた。


「……っ、……そうか」


 ユキは小さく息を呑んでそれを受け止める。

 時刻は遅く、すでに就寝前だった。五日に一度は酒を飲みにやってくる国王も今日はいない。静かな夜だ。


「もう寝る」


 手にしていた本を閉じてユキは立ち上がった。私室に向かうその背中に、ボードの

「おやすみ」という柔らかな声が届き、ユキはやや不本意ながら、それでも「……おやすみ」と返してから扉を閉めた。


 就寝前の身支度をひととおり終えて寝台に身を横たえる。心地のいい姿勢を探るように幾度か身じろぎしたあと、ため息をついた。


 あと半月。

 それがたまらなく待ち遠しく、怖くもある。


 レヴィンと離れ、城に残ってすでに一月以上が過ぎている。そのあいだにユキは、エイリックの言葉やボードとのかかわりを通し、人の内面が自分の思う以上に複雑であることを知った。


 これまでユキの世界は、とても単純だった。レヴィンがすべてで、彼が大丈夫だと言えば、それだけでなにも問題がないように思えた。ユキにとってのレヴィンは、安心感の象徴だった。レヴィンにすべてを委ねた価値基準は、わかりやすくて迷いが生じない。それはたぶん、ユキにとっては生きやすく、都合のいい世界だった。


 けれど、レヴィンにとってはどうだったのか。

 出会ったときも、そのあとも、寄る辺のないユキがすがるから、優しい彼は見捨てられなくなってしまったのではないか。少なくとも出会った時点において、自分にとってのレヴィンのように、彼にとっての自分が特別な存在であったとは思えない。


 レヴィンの傍は安心できたから、ユキはいつでも彼の近くにいたかった。求めれば応えてくれる、与えてくれるレヴィンがますます特別になっていくなか、求めてばかり、与えられるばかりだった自分。


 ときおりレヴィンが辛そうな顔をすることには気づいていた。たとえば家族や将来のこと、神や国の話題に触れるとき、彼の表情はかすかに歪む。それを見ると自分の胸も苦しくなるから、気づかないふりをして話題を変えることが多かった。そうすれば、いつも通りの彼に戻ると知っていたから。だけどそれは見えなくなっただけで、消えてなくなったわけではなかったのに。


 レヴィンにとって、自分は重荷だったのだろうか。浮かんだ疑問に、ユキは鼻の奥がツンと痛むのを感じた。想像するだけで悲しくなる。不快な思考をそれでも推し進めようとして、ふと気づいた。


 もしそうだったとしても、レヴィンはそれを口にしないだろう。彼がくれるのは、優しい言葉ばかりだったから。


 ――俺も、おまえがいてくれて嬉しい。


 街へ出かけた帰り道にもらったその言葉は、誰より大切な人に肯定されることの喜びをユキに教えてくれた。そして、今もこうしてユキの気持ちを掬い上げてくれる。


 与えられてばかりだったとしても、重荷であったとしても、それでもほんの少しでも、自分の存在が彼の嬉しさにつながっていたのなら。肯定の言葉をもらったときと同じ幸福感が胸を満たす。


 もっとレヴィンを知って、彼と向き合いたい。彼にとっての喜びを。幸福を。安心感を。受け取るばかりでなく、与えられるように。一緒にいてよかったと、彼が思える存在になりたい。


 今度こそ、彼の痛みを見過ごさないように。レヴィンを守りたい。


 己の願望をはっきりと意識した瞬間、思いの強さに呼応するように心臓が激しく脈打つのがわかった。

 それは、ユキがはじめてこうありたいと、自ら望んだことだった。






 そうして迎えた面会当日。

 ボードに案内されて、またもや入り組んだ通路をひとしきり歩き詰めたユキは、小さな部屋に辿りついた。


 窓もなく、照明の灯りが仄かに照らすだけの、薄暗く閉塞的な空間だった。とても来客を迎え入れるような雰囲気の場所ではない。そのうえ、置かれた椅子は、部屋の中央にある一脚だけだった。


「……どういうことだ」


 自分をここまで連れてきた者へ説明を求めると、ボードは無言のまま部屋の側面にある壁に近づいていく。


「見た目じゃわからないようになってるが、この部屋の壁は、こっち側だけ造りが薄くなってる」


 彼が数度、拳で壁を叩くと、コン、コン、と妙に軽い音が響いた。


「エイリックがティシャール公と面会するのは、この壁の向こうの部屋だ。よっぽど声を潜めなきゃ、話の内容も聞こえるだろう」


 ユキは瞬きをしたあと、自身の置かれた状況の確認を試みた。


「それはつまり……私に、ここから話を聞いていろということか?」

「言っただろう、エイリックは性格が悪いって」


 ボードはため息混じりの声で言った。


「あいつは話を聞いてもいいとは言ったが、同席してもいいとは一言も言ってない。その癖お嬢さんに対しては、口出し無用の約束をしっかり取りつけてる」

「……嘘をついて騙したのか」


 鋭い視線で睨みつけても、ボードは怯んだ様子を見せなかった。


「違うな。エイリックは嘘を言ってはいない。ただ誤解を誘う言い方をして、都合の悪いことを隠していただけだ。……こういう言葉の使い方をする人間はいくらでもいる」

「他の人間は関係ない」


 ユキが断じると、ボードは苦笑した。


「……そうだな。お嬢さんの言うことは正論だ。間違っちゃいない」


 含みを感じる物言いに、ユキは「言いたいことがあるならはっきり言え」と低い声を出した。ボードは苦笑を深めて指先で頬を掻く。


「ごめん、意地悪な言い方だったな。……綺麗な方法だけで通用するほど、あいつの立ってる場所は優しくないし、あいつ自身も賢くはないからな。承知のうえでやってきたことではあるけど……少し羨ましかったんだ」


「なにが?」

「なんだろうなぁ……うまく言葉にできそうにない」


 三白眼を細めたボードは、「はっきり言えなくてごめんな」と再び謝った。


 この城に来て、もう何度目になるかもわからない不愉快さを覚えて、ユキは奥歯を噛みしめた。


 神の娘である自分にこの国の存続を選んでほしいのなら、彼らはこの国の尊さをこそ、ユキに伝えるべきなのではないのだろうか。おまえが滅ぼそうとしている国は、こんなに素晴らしいものなのだと。けれど彼らは、この国を滅ぼすなと言うその口で、人の複雑さをユキに教えた。


 五日に一度は顔を合わせるエイリックは、そのたび言葉でユキの心を刺激してくる。毎日かかわるボードは、最後にはユキを切り捨てるくせに、優しくしたいと言う。裏腹なその態度は、酷いことをする人が、必ず酷い人間であるわけではないという、不快な矛盾をユキに突き付けてくる。


「……間もなくティシャール公が到着する時間だな」


 そう告げたボードは、ユキを見据えて静かに言った。


「このままここにいたいのなら、約束通り口出しは無用だ。その椅子に座って、物音をたてず黙って聞いていてくれ。万が一、途中でティシャール公に気づかれるようなことがあれば、あとに控えた彼との面会の約束も、なかったことになる」


 どうする、と問われて、ユキは目の前の椅子を憎々しげに睨みつけながら唇を引き結んだ。


 知りたくないことを教えて、気づきたくないものに気づかせて、レヴィンから見せられたものだけを、わかりやすく、優しいものだけを信じていればよかったユキを、彼らは崩していった。自分にとって都合のいいことだけを信じることが、ユキにはもうできなくなっている。


 レヴィンを知りたい。彼を守りたい。そのために、なにを選ぶか。


 その先がどこにつながるかもわからないまま、ユキは自分で決めた一歩を踏み出した。

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